目黒散歩の名所・史跡紹介 1⃣ 茶屋坂と目黒のさんま
こんにちは。
12月28日に開催する「目黒散歩」の名所を、少しずつ紹介していきます。すでに開催した散歩の記事をアップするタイミングとしては微妙かもしれませんが、今後の散歩コースの参考にしていただければ幸いです。
今日は、茶屋坂と目黒のさんまについてのお話です。
✨ 下記の地図で言うと、「A」の恵比寿ガーデンプレイスから、「B」の新茶屋坂通りに差し掛かる付近の話になります。

✅ 茶屋坂の今と昔
恵比寿ガーデンプレイスから坂を下り気味に10分ほど歩いていくと、茶屋坂に差し掛かります。

こちらが茶屋坂の案内碑になります👇

🔵 茶屋坂の紹介
この坂の名は、近くに一軒の茶屋があったことから「茶屋坂」と呼ばれるようになったと伝えられています。
その茶屋は百姓の彦四郎が開いたもので、三代将軍・徳川家光や八代将軍・徳川吉宗が、鷹狩りで目黒を訪れた際に立ち寄ったといいます。
かつてこの一帯は、人影もまばらな寂しい土地でしたが、清水が湧き出る場所でもありました。その中に一軒の茶屋があり、さぞかし目立ったことでしょう。将軍たちもこの茶屋を見つけ、立ち寄って休憩したのではないかと思われます。
明治期以降、山手線の敷設により工場立地の条件が整い、海軍の火薬製造所が建設されました。さらにその後、海軍技術研究所も設けられます。
現在では、マンションや高層建築が立ち並ぶ地域となり、かつて湧いていた清水も、建築の影響で水脈が変わり、残念ながら今では見られなくなってしまったようです。
さて、ここによく立ち寄ったとされる三代将軍家光は、彦四郎に親しみを込めて「じいじい」と声をかけていたとされ、この茶屋は「爺が茶屋」と呼ばれました。その様子は、歌川広重の浮世絵にも描かれています。
将軍が立ち寄るたびに銀一枚を与えていたことから、あの有名な「目黒のさんま」の逸話が生まれたとも伝えられています。
✅ 目黒のさんま
目黒のさんまについて書かれている碑がございます👇

さらに詳しい案内板はこちら👇

🔵 目黒のさんまについての説明
殿様が目黒の茶屋で、初めて焼き立てのさんまを食べ、たいそう気に入りました。しかし後日、城で新鮮なさんまを食べても、「やはり目黒のさんまが一番だ」と言い張ります。
つまり、この噺は殿様の世間知らずぶりを笑いの本質として描いたものです。
この逸話はやがて、古典落語「目黒のさんま」として成立し、三代目三遊亭金馬の得意演目として広く知られるようになりました。
では、この噺に登場する「殿様」とは、いったい誰なのでしょうか。
将軍家、すなわち徳川家光を指すという説もあれば、松江藩主・松平家の当主とする説もあります。
将軍説の場合、目黒不動参拝の後、近隣の茶屋で休息し、その際にさんまを口にした可能性は十分に考えられます。
一方、松平家には松平治郷という「不昧公(ふまいこう)」と呼ばれた大名がおり、名君とは言いがたいものの、贅沢を好んだ人物として知られています。そのため、こちらがモデルではないかという見方も成り立ちます。
では、そのさんまはどこから手に入れたのでしょうか。最も妥当とされているのは芝浜の魚市場、すなわち芝や品川方面から運ばれたという説です。
ただし、当時は目黒川にさんまが遡上することもあったとされ、その可能性を指摘する声もあります。さらに、日本橋の魚河岸から仕入れたという説や、九十九里浜で獲れたさんまを一晩かけて船で運んだという話も伝えられています。
✅ 海軍火薬製造所
なお、この茶屋坂の地は「目黒海軍火薬製造所」がかつて置かれていました。
幕末の「目黒砲薬製造所」を前身とし、明治政府によって再建・近代化された軍需施設です。目黒川の水利と立地を生かし、日清・日露戦争期には海軍・陸軍の軍用火薬を製造しました。
しかし都市化に伴う危険性から、昭和3年(1928)に群馬県へ移転し、跡地は現在、防衛省防衛研究所などに引き継がれています。

では~。
