細田守監督「果てしなきスカーレット」は物語ではない(約6000文字)
細田守監督の最新作「果てしなきスカーレット」を観てきた。その感想。
ネタバレがあるので未視聴の人は注意、と言いたいところだけど、「果てしなきスカーレット」は言葉で物語のネタバレをしても特に問題ない。
実際に観て、体験するものである。
自分も「自分が観た『果てしなきスカーレット』は、他の人が観たものと本当に同じなのだろうか」と不安になるほど、ネットで観たどんな感想とも違う方向性の感想を持った。
なので、自分も含めて他人の感想は気にせず自身で体験することを強くお勧めする。
◆「果てしなきスカーレット」を見る上で押さえなくはならないことは知識ではない。
スカーレット周辺の設定は「ハムレット」を間借りしているが、単に設定を間借りしているだけなので知らなくても大丈夫である。むしろこの話は、知らないほうがノイズがなく話のコアを受け取りやすい。
スカーレットと聖が出会い旅する場所は、狂言回しの老女が言うように、「生死が対立することなく存在する、時の流れも意味がない場所」だ。
賽の河原の石積みも出てきたように、色々な宗教で形を変えて存在する「彼岸と此岸の間」である。
「すべてを包摂する場所」ド直球に言えば「何でもアリの場所」だ。
この話で押さえておかなければならない一番重要なことは「聖とは何者か」である。
自分の考えだと、「果てしなきスカーレット」は「聖が何者なのか」がわからなければ「体験」できない。
何故か。
◆聖は霊媒である。
その前に聖が何者かを説明すると、聖は巫女……男なので巫覡だ。
「神の声を聞き、人々に伝える霊媒」である。
ラストにスカーレットが王になった時、煉獄でクローディアスの前にいたのと同じ規模の群衆が集まっていた。
このことからもわかる通り、現世に戻り王となったスカーレットが導くのはデンマークの国民だけではない。
「生と死が対立せず存在し、時の流れが関係ない場所」である煉獄が、シームレスにスカーレットがよみがえった現世に引き継がれている。
スカーレットは、煉獄にいる人間たちすべてを「見果てぬ夢」に連れていく王になったのだ。
では「煉獄」とはどこなのか?
スカーレットが聖を通して「現代日本にいる自分という可能性」を幻視したように、現代の日本を含むすべての時代の人間がいる場所だ。
つまり、煉獄とは「ここ」である(正確には、ここも含まれている)
映画を見ている自分たちが生きている場所も煉獄であり、最後にスカーレットが呼びかけている場所とシームレスにつながっている。
そのことによって、スカーレットの前に集まった大群衆の中に、自分たち観客も、観客でない人も存在している……というより、自分の感覚で言うと存在させられている。
この構図を理解して、初めて「果てしなきスカーレット」とは何なのかがわかる。
「果てしなきスカーレット」の本態は、聖の踊りである。
巫覡である聖は、踊りによって人には理解できない神の言葉を伝える。
スカーレットは「巫覡である聖の導きによって」神の言葉を理解した。その託宣によって「愛」を悟り、「生者も死者もなく、時を超えてすべての人々を『見果てぬ場所』へ導く王」として開眼したのだ。
◆「果てしなきスカーレット」は、本来は理解できない「上位者の言葉(波動)」をあえて人間に伝わるように翻訳したものである。
「果てしなきスカーレット」は、細田守の脚本にしては、筋も通っていて自分にはわかりやすかった。話としては余計な要素がなく、とてもシンプルだ。
余りに余計な要素がなさすぎて、「そうはならんやろ」ではなく「それはそうなるだろ」と開始十五分くらいで思うことを二時間かけて見せられた気分だった。
それは何故かというと「果てしなきスカーレット」においてストーリーは、補助輪みたいなものだからだ。
踊りによる神の言葉を理解できず、その波動を感じることができない「人間」にも理解できるように、便宜的に言語化(ストーリー化)されたものだからである。
(聖が踊りを習うシーンで言われていたように)本来は人間の言葉では表現できないけれど、人にわかるようにあえて表現するとこうだ、というのが「果てしなきスカーレット」本編である。
◆「果てしなきスカーレット」には、明確に「神」が存在している。
そのため「果てしなきスカーレット」の体験は、神の波動を感じとれるかどうか、祈りの言葉を聞かされて(踊りを見て)神秘体験するかどうかがすべてである。
しかし、創作はすべて「人それぞれの体験」ではないか。
なぜ「果てしなきスカーレット」だけ、「神秘体験するかどうかがすべて」になるのか。
「果てしなきスカーレット」の世界は、明確に「神が存在する」からだ。
だからその神の存在を感じられるかどうかがすべてになる。
「神」とは何か。
「人には理解できず、人が作用できず、一方的に人に作用するもの」
「人から一切の影響を受けず、人に影響を与えるもの」
これが「神」である。
◆神は、人間に一方的に影響を与え作用する。
霊媒である聖は(名前がそうであるように)神の代理人である。
聖は人の形をしているが、人ではない。
何故なら、人なら必ず他の人間からの影響によって変化するし、変わらないまでも他人の言動に反応するからだ。
聖はその寛容さで、スカーレットを初めとして映画に出てくる多くの人間に影響を与える。
だが聖自身の言動は一切ぶれない。変化もしない。
聖は、スカーレットの個人としての背景や心情にはほぼ興味を持たない(これがすごく気になった)
一番わかりやすいのが、怪我の手当てのために服を切られたスカーレットが恥ずかしがるシーンである。
看護師である聖にとってこういう経験は慣れっこだろう。
しかしだからこそ看護師(人)であれば、患者(スカーレット)を安心させる、もしくは落ち着かせるために「羞じらわなくて大丈夫だ」と言ったり、「そんなことを気にかけている場合ではない」と声かけをするのではないか。
もしくはいくら看護師とはいえ、聖の年齢であればまだ経験が浅いと思うので、自分が多少なりとも好意がある(と自分は思わないが一応)相手が涙ながらに羞じらっていたら、動揺したりしないか。
聖にはそういう、他人を個別に識別して相手によって反応が変わる、という言動のパターンがない。
どの相手に対してもまったく同じ様な態度で寛容さを示し、平和と人類愛を説く。
どの相手に対する時も言動が同じ、反応も変化しない。
聖に相対する者からすれば「自分という人間の個別性が相手にまったく作用していない」ということである。
「果てしなきスカーレット」は、公開当初すさまじい批判を浴びていた。
自分はその時「さすがに大げさすぎないか」と思っていた。
でも見てわかった。
物語の序盤で、聖が盗賊たちに殴られても殴られても立ち上がって、やり返さず「止めろ」と言い続けるシーンがある。
あのシーンを見て自分が思ったのは、スカーレットが言ったような「イイコちゃん面がすぎる」ではない。
暴力という究極の働きかけにさえ影響を受けず、反応がまったく変わらない聖が怖かった。
殴ったら殴り返す、もしくは「殴らないでくれ」と言う。自分に暴力を振るう相手を憎んだり怒ったり恐れたり憐れんだりする(感情が変化する)
他の人間の言動が作用して(影響して)反応が変化するのが人間である。
聖には、理不尽な暴力も美貌の王女の羞じらいも一切作用しない。影響を受けず、反応も変わらない(『影響を受けない』という意味では、聖にとって『他人からの理不尽な暴力』と『スカーレットのはじらい』はまったく同じものなのだ)
聖は周りからの影響をまったく受け取らず、ただひたすら周りに影響(聖性)を与え続け変化させ続ける。
中世のデンマークの王女に、見たことも聞いたことも想像することすらできないはずの、現代の日本を幻視させ、神の踊りを体感させ、愛を悟らせ、王として開眼させる。
「自分らしく生きたことで愛を知ること」が、人々を導く王になる条件であり、聖はそれをスカーレットを一瞬で悟らせ「人々を導く真の王」にした。
聖自身は、スカーレットの「嫌だ、恥ずかしい」に一切反応しないのにだ。
映画の中でクローディアスがそうであったように、人は様々なことをいい、様々な悪性を発揮する。
しかし、人間のそんな言動では神(聖)の聖性は一切ぶれない。
殴られようが嘲笑われようが馬鹿にされようが唾を吐きかけられようが、神はすべてを愛によって包摂し、導いてくれる。
映画の中の聖(神)と周囲の人間の関係が、「果てしなきスカーレット」と観客の関係である。
観てしまったら二時間のあいだ、一方的に神の愛と聖なる光を浴び続ける。
自分個人の考え方(生き方)として「愛を知った王に導かれる群衆になるくらいなら、虚無になったほうがマシ……というかそれとこれは自分にとっては(個別性を失うという意味で)同じなんだが」と思う。
だがそんなことを訴えてもたぶんひと言も聞いてもらえない。
「果てしなきスカーレット」は「君は傷ついているんだ、だから人が信じられないんだ」と言って、一方的に愛と聖なる光を浴びせてくる。
その聖光が、聖のダンスである。
あのシーンは笑って(笑わされて)しまった。
自分にとって「果てしなきスカーレット」は、自身とはまったく違う文明を持った人が残した巨大な宗教壁画(みたいなもの)である。
何が描いてあるのか、何のために描いたのかまったくわからない。だが人の波動を乱すやばい凄いエネルギーに満ちたものであることだけはわかる。
ひとつだけ安心したのはいつもの細田作品の「弱点」がより顕著だったところだ。
この「弱点」がある限りは、自分は宗派(周波)違いでいられる。
◆「全人類を愛している、だから個人には興味がない」それが神。
細田守の作品は、個人(特に悪性)に興味を持たない。
例えば「果てしなきスカーレット」では、クローディアスやガードルードの行動原理や動機、心情、その源である人物像である。
ラスト近くクローディアスが扉の前で、「なぜ開かない」と扉に向かって訴えるシーンがある。
あのシーンを見た時に驚いた。
「開くわけないだろう」としか思えなかったからだ。
逆になぜ開くと思うのか?
このシーンで、クローディアスが「なぜ開かない?」と言うのか。
なぜスカーレットを騙し打ちするのではなく、顔に唾を吐きかけるのか。
なぜ、最期に執拗にガートルードの名前を呼ぶのか。
なぜ、兄アムレットを裏切者に仕立ててまで殺したのか。
なぜ、その妻を奪い取ったのか。
クローディアスはアムレットのことを憎んでいたのか? 嫌っていたのか? 妬んでいたのか? 蔑んでいたのか?
国の方向性について何か考えを持っていたのか? 兄を殺せればよかったのか? 兄のことは二の次で自分が王になりたかったのか?
ガートルードが好きだったのか、兄の妻だからNTRしたかったのか?
一体、いつから兄を殺そうと思っていたのか? 自分の心境を何も知らない(スルーする)兄(※)をどう思っていたのか?
何もわからない。わかる手がかりもない。
細田守の作品では、クローディアスの内面に興味を持つという発想がないからだ。
だから「開くわけないだろ」と秒でツッコミたくなるような台詞を平気で口にするのだ。
クローディアスが宮崎駿の作品のキャラだったら、扉を開ける方法を徹底的に調べて試すだろう。
庵野秀明の作品のキャラだったら、スカーレットと融合することで「真の王」になろうとするだろう。
新海誠の作品のキャラだったら、扉が開いても入らないだろう。
他の作家たちと少し比較しただけでも、扉の前で「なぜ開かない」と嘆くだけの細田作品の「悪性」がいかに陳腐でつまらない、そのために心が動かされない「悪」であるかがわかる。
ガートルードも同じである。
というよりもガードルードこそ、謎である。
「実の娘への嫉妬から、夫を死に追いやることに加担し、夫を殺した義弟と再婚した。その後も娘と一緒の宮廷に暮らしていた」
ガートルードはなぜ、娘の目の前で娘が描いた夫のスケッチを破り捨てたのか。
夫が娘を愛しすぎているから、娘に嫉妬したのか。
それにしても目の前で絵を破り捨てることはないのではないか。
細田守の作品でガードルードがなぜそこまでひどいことをしたのかが語られることも、チラリとスポットが当たることさえない。
スカーレットもそうである。
スカーレットが「父を死に追いやった叔父が憎い」のはわかった。
では、父親を裏切った母親についてはどう考えていたのか?
娘である自分に毒を盛ったクローディアスの行動を追認した母を、どう思っていたのか?
王になったスカーレットは、母親に「何で父を裏切ったのか?」「私が憎かったのか?」と聞くことはあるのか。
本編を観た限りでは恐らく聞くことはない。
スカーレットが「実の母親であるガートルードが、本当はどういう人間か」に興味を持つことはない。
細田守の作品の中には、クローディアスやガードルードは物体としては存在しているが、個人としては存在していない。
最も身近な人間である母親(ガードルード)の悪性とさえ対峙できない。
全人類を包摂する(愛する)ことができても、個人を個人として認識して理解すること、愛することはできない。
もし「果てしなきスカーレット」が自分が感じた通りの作品であるとするなら、これは致命的な欠点だと思う。
ネームレスの虚無になるのが嫌なら、ネームレスな大衆になって愛によって導かれろ。
そういう言い方をされるなら「どっちも御免だ」と自分であれば答える。
ただ、そんな宗派(周波)違いの自分ですら、一瞬シンクロしかけてしまったのが神の聖なる波動「果てしなきスカーレット」だ。
体験したことがない人は、ぜひ一度実際に浴びてきて欲しい。
※ クローディアスが兄を殺してすべてを奪いとったのも、ガートルードが娘の目の前で夫を描いた絵を破り捨て、夫殺しに加担したのもこのアムレットの態度のせいでは、と思っている。
しかし細田作品では、そんなことはチラリとすら興味を持たれない。
アムレットもまた、「偉大にして鈍感、個人(悪性)を認識できず全人類を愛する善性」の象徴となるキャラである。
※ストーリーの違和感から考えた感想B面。
まったく根拠はないが、こちらのほうが妥当な解釈かなあと思う。
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