見出し画像

7年間、高校で国語を教えてきた僕が「このままじゃダメだ」と思って教員を辞める理由

僕は7年間、高校で国語の教師をしてきました。
そして、3ヶ月後にその仕事を辞めます。

そこで今回は、ノウハウでも結論でもなく、
僕自身が“限界を認めた話”を書きます。

もしあなたが、
「教育に関わる仕事をしているけれど、どこか噛み合っていない」
「このやり方で、本当にいいのかと考えることが増えた」
そんな違和感を抱えているなら、今日は少しだけ立ち止まって読んでほしいです。

また、これは教育の話であると同時に、「自分のやっていることが、時代と噛み合っていない気がする人」のための話でもあります。
教育に携わっていない人にも読んでいただけると嬉しいです!



生徒の「無表情」が、答えだった

決定的だったのは、生徒たちの様子でした。
現代文の授業で、やや専門的な長文を扱ったときのことです。
僕はこう伝えました。

「これは、将来研究するときや、自分で学び続けるときに必要な読み方だよ」
「文章を読んで、自分で知識を組み立てる練習をしよう」
(→複数の文章を提示、テーマについて自分で考えをまとめてもらう)

でも、返ってきたのは、無表情。
正確には、「退屈そうな顔」でした。
だるいなって感じもありました。
(いま思えば、それは怠慢ではなく、噛み合っていないサインだったのだと思います。)

授業アンケートには、こう書かれていました。

「もっと試験に出る内容を教えてほしい」
「問題演習を増やしてほしい」
「たくさん板書をしてほしい」

その瞬間、腑に落ちたんです。
彼らが求めているのは読解力ではなく、「試験で点を取るための手順」なんだ、と。
そして思えば、僕が勤めてきたいくつかの学校も、それを求めていました。

  • 偏差値

  • 合格実績

  • 何人、難関大に入れたか

僕は、その仕組みの中で、それを回している側の人間だったのです。


「やる気のない生徒」に向き合うほど、苦しくなった

もう一つ、見ないふりができなくなった感情があります。
それは、
やる気のない生徒に時間と労力を割くことへの、強い抵抗感でした。
でも…

「やる気がない」のではなく、「前提が違う」

誤解してほしくないのですが、これは生徒への怒りではありません。
問題は構造にあると思っています。
今の社会では、

  • 起業を考える人

  • スポーツで生きる人

  • 海外に目を向ける人

大学に行って、会社に勤めることだけが選択肢ではありません。
当たり前が、完全に分岐しています。

それなのに、

  • 同じ教室に集めて

  • 同じカリキュラムで

  • 同じ基準で評価する。

「国数英理社で、どれだけ点数が取れたか」
「どれだけ我慢して勉強したか」
その一点で

  • 優秀さ

  • 人となり

  • 「いい子」か「悪い子」か

が測られる。

偏差値の高い大学に行くことが「善」。
推薦さえ取れればよい。

この構図に、自分が加担していることに、どうしても耐えられなくなりました。


僕は「受験」を否定したいわけじゃない

ここで、はっきりさせておきたいことがあります。
僕は、大学受験そのものを否定したいわけではありません。
教師として7年間受験指導に関わってきたからこそ、僕は大学受験を一括りに否定することはできません。

むしろ、
大人になってからも使える力を育てる
     ↓
その延長線上として、大学受験を支援する

この形なら、
いくらでも教育に関わりたいと思っています。

たとえば、

  • 動画や音声から、要点を抜き出す力

  • 情報が溢れる中で、必要なものを選ぶ力

  • 読んだ内容を、自分の知識として再構成する力

これらは、受験ではほとんど問われません。
だからこそ、 特に進学校では、体系的には教えない。

でも、SNSとAIが前提の社会では、
これがないと、確実に振り回されます。

これについては、以下の記事を参考にしてください。


「正解」を教えるより、「読み方」を一緒に考えたい

学校教育は、どうしても「正解」を教える場になります。
でも、社会に出ると、正解が用意されていない場面の方が圧倒的に多い。

だから、僕がやりたいのは、

❌何が正しいかを教えること
ではなく
どう読めば、自分で判断できるかを考えること

文章をどう読むか。
動画をどう見るか。
音声をどう聴くか。
図解をどう疑うか。

それを一緒に考え続け、鍛える場を、作れないかと思っています。


最後に:何も完成していないからこそ、書いた

正直に言えば、僕はまだ何者でもありません。
教員を辞めて、完璧な計画があるわけでもない。
成功の保証もない。

この記事を読んで、
「甘い」
「言い訳だ」
「逃げている」
そう感じる人がいるのも、自然だと思います。

たしかに、この記事にあることが100%の理由ではなく、
「逃げた」という側面も少なからずあると思います。

それでも、
違和感を無視して続けるより、一度、立ち止まる方を選びました。
そして、先が不透明な道を選びました。

もしあなたが今、
仕事や学びの中で、言葉にできないズレを感じているなら。
それは怠けではなく、次の問いに進む準備ができたサインかもしれません。

不器用なままでいい。途中で迷っていていい。回り道をしてもいい。
僕も、そこから始めます。


【補足】

この記事は、僕の「決断の記録」であり、
同時に「これから何を考えていくか」の途中経過です。

今後、

  • なぜ「わかったつもり」が生まれるのか

  • どこで読解/聴解/見解がズレるのか

  • それをどうやって鍛えていけるのか

を軸に、SNS・AI時代の“考える土台”について書いていきます。
よかったら、覗いてみてください。

いいなと思ったら応援しよう!