【日本酒の酵母】1万5000年の旅路と「蔵付き」の小宇宙。日本酒の香りを操る錬金術師とバイオテクノロジーの最前線|日本酒のカタチ 第四回
私が有料化記事を書こうと思った経緯をまとめている記事はこちらです、是ご覧ください。
前回の「麹編」では、猛毒カビから毒を抜いて家畜化した人類の執念と、室町時代から続く「もやし屋」の秘術、そして東アジア特有の固体培養がもたらす酵素の錬金術についてお届けしました。
さて、今回の主役は、麹が米から作り出した甘い糖を、私たちを魅了する「アルコール」と「華やかな香り」へと魔法のように変換する単細胞真菌、「酵母(こうぼ)」です。
古来、酒造りの現場では「一麹、二酛(もと=酒母)、三造り」と言い伝えられてきました。この第二段階である「酛(酒母)」の育成こそが、今回取り上げる「酵母」を大量かつ純粋に培養する絶対的なプロセスです。
世界中のあらゆるアルコール飲料(ワイン、ビール、ウイスキーなど)は、例外なくこの酵母(学名:Saccharomyces cerevisiae / サッカロマイセス・セレビシエ)の力によって生み出されています。ギリシャ語の「糖(Saccharo)」と「菌(myces)」、そしてラテン語の「ビール(cerevisiae)」を語源とするこの微生物は、人類の文明と最も古くから共生してきた存在です。
■ 日本酒の味と香りをデザインする「魔法の真菌」
では、日本酒造りにおいて、酵母は具体的にどのような役割を果たしているのでしょうか。
役割①アルコールの生成 最も基本的な働きは「アルコール発酵」
麹菌が米のデンプンを分解して作った「ブドウ糖」を酵母が食べ、それを「エタノール(アルコール)」と「炭酸ガス」に変換します。
果実自体に糖分があるワインとは異なり、日本酒は麹による糖化と酵母による発酵が同一のタンクで同時に進む「並行複発酵」という複雑なプロセスをとります。
この環境下で、清酒酵母は自らが出したアルコールの毒性に耐え抜き、醸造酒としては世界最高水準の「アルコール度数20%」近くまで発酵を進めるという、極めて強靭な生命力を発揮します。
役割②華やかな「吟醸香」の創造
日本酒をグラスに注いだとき、リンゴやメロン、バナナのような甘くフルーティーな香りがすることがあります。
お米からできているのにフルーツの香りがするのは、まさに酵母の魔法です。酵母は発酵の過程で、アルコール以外にも多種多様な成分を副産物として生み出します。
特に低温でストレスを与えながら発酵させると、酵母は生き残るために代謝を変え、「カプロン酸エチル(リンゴのような香り)」や「酢酸イソアミル(バナナのような香り)」といったエステル類を大量に放出します。
これが「吟醸香」の正体です。
役割③味わいの骨格(酸味と複雑味)の形成
さらに酵母は、コハク酸、リンゴ酸、乳酸といった多種多様な「有機酸」やアミノ酸を生み出します。これらが日本酒の味わいを引き締め、複雑な旨味やコク、奥深さをもたらすのです。
■ 千差万別の個性を放つ!多様化する酵母の世界
日本酒の香りと味わいの最終的な輪郭は、杜氏が「どの酵母を選ぶか」によって劇的に変化します。現在、酒造りの現場では、目的とする酒質に合わせて多種多様な出自を持つ酵母が使い分けられています。
① 安定と品質の代名詞「協会酵母(きょうかいこうぼ)」
現在、日本全国の酒蔵で最も広く使用されているのが、公益財団法人日本醸造協会が純粋培養して頒布している「協会酵母」です。
明治時代以降、酒の腐敗(腐造)を防ぎ、国家の重要な財源であった酒税を安定的に確保するため、全国の品評会で優秀な成績を収めた名醸蔵の醪(もろみ)から、発酵力が高く香りの良いエリート酵母だけを科学的に分離したのが始まりです。
秋田の「新政」から分離された穏やかな香りの「6号酵母」
長野の「真澄」から分離された力強く万能な「7号酵母」
熊本の「香露」から分離され、フルーティーな吟醸酒ブームを牽引した「9号酵母(熊本酵母)」
これらは日本酒の品質を全国レベルで飛躍的に底上げした偉大な酵母たちです。
② 究極のテロワールを生む「蔵付き酵母(くらつきこうぼ)」
近代的な純粋培養酵母が誕生する以前から、各酒蔵の梁や柱、土壁、木桶などには自然に酵母が棲み着いていました。これを「蔵付き酵母」あるいは「家付き酵母」と呼びます。
単なる野生酵母ではなく、長年にわたり高アルコールや強い酸性という「過酷な醸造環境」を生き抜き、淘汰を生き残ったエリート野生酵母です。 協会酵母が単一でクリーンな香りを出すのに対し、蔵付き酵母は多様な有機酸や複雑な香気成分を重層的に生み出すため、その土地や蔵独自の「野性味」や「複雑味」を酒に与えます。
近年、真の地酒(テロワール)を追求する醸造家たちの間で、この蔵付き酵母への回帰と再評価が熱狂的に進んでいます。
③ 未知の香りを創り出す「大学・研究機関開発酵母」
協会酵母による「全国的な味の均質化」から脱却するため、1980年代以降、各都道府県の研究機関や大学が独自に酵母を開発する動きが爆発的に広がりました。
例えば、高知県工業技術センターが開発した「CEL-24」は、リンゴやパインのような極めて強烈なフルーツ香を放ち、甘酸っぱくジューシーな新時代の日本酒を生み出しました。
大学の研究機関も画期的な酵母を発見しています。東京農業大学は、自然界に咲く花(ツルバラやナデシコなど)から直接酵母を分離培養した「花酵母」を実用化し、これまでにない華やかな香りのお酒を実現しました。
富山県立大学では、果実や花ではなく、あえて「大麦」から独自の酵母を分離することに成功し、地元酒蔵と連携して全く新しい風味の日本酒を商品化しています。
世界の他の酒類で使われる酵母とは一線を画し、人間との対話の中で極めて特異で多様な進化を遂げたエリート集団、それが「清酒酵母」なのです。
【ここから先は有料部分になります】
稲作と共に日本に渡り、数千年にわたって酒蔵に棲みつき、日本の過酷な醸造環境に適応してきた酵母たち。明治時代以降、近代国家としての歩みを始めた日本は、この目に見えない微生物を科学の力で統制・管理する道を選びました。
ここから先の有料部分では、酵母が織りなす以下の壮大な歴史ドラマと、最先端のバイオテクノロジーの深淵に迫ります。
酵母の地球規模の伝播
約1万5000年前の「アウト・オブ・チャイナ」仮説と、稲作伝来と符号する日本酒酵母誕生のミステリー。
極限環境のサバイバー
なぜ日本酒だけがアルコール度数20%を超えられるのか? 吟醸香を生み出す「低温ストレス」の生化学的メカニズム。
国家戦略としての「協会酵母」
酒税確保と腐造防止のため、明治政府が推し進めた微生物の純粋培養。伝説の酵母の系譜と、「泡なし酵母」がもたらした産業革命。
均質化への反逆と「都道府県独自酵母」
YK35の呪縛から脱却せよ。各地域がテロワールを再定義するための科学の闘い。
究極のテロワールと「三者間相互作用」
再び「蔵付き酵母」へ。メタボローム解析が暴いた、蔵付きバクテリアが酵母の遺伝子発現を操るという驚愕の事実。
世界のバイオ産業を牽引するSake Yeast
クラフトビール、香り系焼酎、そして次世代の「精密発酵」プラットフォームへ。
グラスの中で立ち昇る華やかな香りの一滴一滴が、いかにしてミクロの生命体と人類との血の滲むような対話の上に成り立っているのか。明日からの日本酒の味わいが劇的に変わる、知の深淵へご案内します。
私が将来、全国の酒蔵へ赴き、この過酷な現場の熱量を取材するための活動資金(居酒屋での一杯分)として、どうか今夜もご支援をお願いいたします!
■ 第1章 酵母の地球規模の伝播
「アウト・オブ・チャイナ」仮説と稲作の伝来
長年、世界中のアルコール飲料を生み出す酵母(サッカロマイセス・セレビシエ)は、人間の農耕に伴って人工的に進化した家畜化生物であるか、あるいはアフリカ起源であると考えられてきました。
しかし近年の大規模なゲノム解析により、酵母の真の起源は約1万5000年前の中国にある可能性が高く、そこから単一の大規模な移動イベント(アウト・オブ・チャイナ・イベント)によって世界中へ伝播したという説が強力に提唱されています。
さらに驚くべきことに、分子進化解析によれば、日本酒酵母の系統は約2300年前に中国の黄酒(ライスワイン)の系統から派生したことが示唆されています。この約2300年前という時期は、日本列島に水稲農耕が本格的に伝来し、弥生時代が幕を開けた時期と見事に符号するのです。
つまり、日本酒酵母の起源は、東アジアにおける稲作文化の伝播と、米を糖化・発酵させる高度な醸造技術の伝来と不可分に結びついており、何千年も前から日本人と共に歩んできた「最古のパートナー」と言えます。
■ 第2章 極限環境のサバイバー「清酒酵母」の特異性と並行複発酵
ヨーロッパにおいて、ルイ・パスツールが「発酵は酵母という生きている有機体の生命活動である」と証明し、ビール酵母の純粋分離に成功したのは19世紀後半のことでした。
しかし、日本の醸造家たちはそれより遥か昔から、「並行複発酵」という、酵母にとって極めて過酷で特殊な環境を経験的に構築していました。
【アルコール20%の壁を越える浸透圧回避】
ワインのように最初から果汁に糖分が含まれている単発酵や、ビールのように麦芽でデンプンを全て糖化させてから酵母を入れる単行複発酵では、酵母は初期に極めて高濃度の糖液に晒されます。
高濃度の糖は「浸透圧ストレス」を引き起こし、酵母の細胞から水分を奪って活動を阻害するため、アルコール度数が15%前後に達すると酵母は自然に死滅または活動停止します。
しかし日本酒は、麹菌が米のデンプンを徐々に糖に分解し、生成されたそばから酵母が即座にそれを食べてアルコールに変えるため、醪(もろみ)の中の遊離糖分濃度は常に低い状態に保たれます。
この絶妙な「動的平衡」により、清酒酵母は浸透圧ストレスを回避し、自らが生成する高アルコールという猛毒の海の中でも生き延び、醸造酒としては世界最高水準の20〜22%という極限のアルコール度数を達成する驚異的な能力を獲得したのです。
【低温ストレスと「吟醸香」の錬金術】
さらに、高度に精米した白米を用いる「吟醸造り」において、酵母は究極の試練を与えられます。醪の温度を10℃前後という、一般的な酵母なら活動を完全に停止してしまうほどの「極低温」に設定するのです。
窒素源などの栄養素が制限された飢餓状態と、凍えるような低温ストレスの二重苦に曝された清酒酵母は、自らの生存と代謝を維持するため、通常のアルコール発酵経路とは異なる「二次代謝経路」を強制的に活性化させます。
この苦しい代謝の副産物として細胞外に放出されるのが、リンゴや洋ナシを思わせる「カプロン酸エチル」や、完熟バナナのような「酢酸イソアミル」といったエステル類です。
この酵母が極限環境で命を削って生み出す華やかな香気こそが、私たちを魅了する「吟醸香」の正体なのです。
■ 第3章 国家戦略としての「協会酵母」と近代化の光と影
江戸時代末期まで、日本の酒造りは酒蔵の壁や木桶に棲みついた「蔵付き酵母(家付き酵母)」が自然に落下して増殖するのを待つという、極めて不確実性の高い手法に依存していました。
しかし明治時代に入り、酒税が国家税収の3割以上を占める最重要財源となると、発酵不良や火落ち(腐敗)による「腐造」は国家の財政基盤を直接揺るがす大問題となりました。
【日本醸造協会と優良酵母の規格化】
この国家的危機を克服するため、1904年に大蔵省管轄の「醸造試験所」が設立されました。彼らは全国の品評会で優秀な成績を収めた名醸蔵の醪から、発酵力が高く香りの良いエリート酵母を純粋分離し、「きょうかい酵母(協会酵母)」としてガラス製アンプルに封入し、全国の酒蔵へ有償頒布する画期的なシステムを構築しました。
協会6号(新政酵母)
1930年、秋田県「新政」の醪から分離。寒冷地での低温長期発酵に強く、穏やかな香りと深い味わいを持ち、現存する最古の協会酵母として現在も重用されています。協会7号(真澄酵母)
1946年、長野県「真澄」から分離。極めて強健な発酵力と華やかな香りを持ち、戦後復興期から現在に至るまで全国で最も広く普及している絶対的スタンダードです。協会9号(熊本酵母・香露)
1953年、熊本県酒造研究所から分離。酸が少なく、メロンやバナナ様の吟醸香を高く生成し、近代の吟醸酒造りの確固たる礎を築き上げました。
【産業革命!「泡なし酵母」の発見】
さらに1971年、醸造現場に革命をもたらしたのが「泡なし酵母(協会701号など、末尾に01がつく株)」の実用化です。通常、発酵中の酵母は炭酸ガスに付着して巨大な「高泡」を形成し、タンクから溢れるのを防ぐために徹夜で泡を消す重労働が必要でした。
しかし、細胞表面の疎水性が欠如した突然変異株を分離したことで、泡が全く立たなくなり、労働環境の劇的改善と、タンク容積の限界まで仕込める生産性の大幅向上を同時に達成したのです。
【均質化のジレンマとYK35の呪縛】
協会酵母の普及は、腐造を撲滅し品質を底上げする計り知れない恩恵をもたらしました。
しかし1980年代以降、全国新酒鑑評会で金賞を獲るための暗黙の勝利の方程式「YK35(山田錦を35%まで磨き、熊本酵母=協会9号で醸す)」が業界を席巻します。
この最適解に全国の蔵が追従した結果、皮肉にも「北から南まで、どの地方の高級酒を飲んでも同じようなフルーティな香りがする」という、日本酒の均質化(没個性化)という複雑なジレンマを生み出してしまったのです。
■ 第4章 テロワールの覚醒と「都道府県独自酵母」の台頭
この「YK35の呪縛」と均質化からの脱却を図り、真の「地酒」としてのアイデンティティを確立するため、1980年代後半から各都道府県の研究機関が主導し、地域独自の「県産酵母」の開発が爆発的な広がりを見せました。
高知県(CEL-24 / CEL-19)
カプロン酸エチル(リンゴ・パイン様)を異常なほど大量に生成し、極甘口でありながら酸度が高いという白ワインのような鮮烈な甘酸っぱさを実現した「CEL-24」。若者や海外市場を開拓する極めて戦略的な酵母です。一方、「CEL-19」は適度な苦味を持ち、カツオのタタキなどと完璧に調和する究極の食中酒向け酵母です。静岡県(静岡酵母 HD-1等)
鑑評会で派手な香りが主流だった時代に、「香りは上品で、酸が極めて少なく、透明感がある」という画期的な酒質を生み出し、「静岡型吟醸」として全国に新たなモデルを提示しました。山形県(山形酵母 KA等)
県と酒造組合が一体となって開発し、クリアで高い吟醸香を実現。後のGI(地理的表示)山形の指定第1号を科学的に支える基盤となりました。
さらに現代では、現代のガストロノミーの脂質を切り裂くためにリンゴ酸を多量に生成する「多酸性酵母」や、人工着色料なしでピンク色の濁り酒を生む「赤色酵母」など、目的に特化した機能性酵母の開発も極まっています。
■ 第5章 究極のテロワール「蔵付き酵母」と三者間相互作用の神秘
そして現在、近代化によって一度は排除された「自然」へと回帰する、最もエキサイティングなパラダイムシフトが起きています。
最新の衛生管理と温度制御技術を手に入れた次世代の醸造家たちが、あえて純粋培養酵母を添加せず、蔵の梁や木桶に数百年にわたり棲みついてきた「蔵付き酵母」を利用する生酛造りや自然仕込みに挑んでいるのです。
【メタボローム解析が暴く「三者間相互作用」の衝撃】
最新の次世代シーケンサーやメタボローム解析により、これまで無視されてきた「蔵付きバクテリア」が、酵母の働きを根底から操っているという衝撃的な事実が証明されました。
富山県立大学などの研究において、蔵付きのバクテリア(Kocuria 属や Bacillus 属など)と清酒酵母を共培養した結果、バクテリアが放出するシグナル分子が、酵母の細胞核内における「遺伝子発現」を広範に改変していることが判明したのです。
バクテリアの介在により、単独では生成できない複雑な有機酸(コハク酸、リンゴ酸)や、重厚なボディ感をもたらす短鎖脂肪酸などが生成されます。驚くべきことに、このバクテリアを添加した試験醸造酒の官能評価では、試飲者の実に95%が「純粋培養酵母のみの酒よりもおいしい」と高く評価しました。
酵母、麹菌、そして蔵付きバクテリアが織りなすこの「三者間相互作用」の解明は、伝統的な酒造りの奥深さを最先端科学で裏付ける、現代醸造学の最大のブレイクスルーです。
■ 第6章 日本酒を超えて。
世界のバイオ産業を牽引するSake Yeast
日本酒を極限まで高めるために数百年かけて選抜・洗練されてきた清酒酵母(Sake Yeast)のポテンシャルは、今や日本酒の枠を完全に飛び出し、世界の醸造・バイオ産業の中核を担い始めています。
クラフトビールと本格焼酎の革新
世界のクラフトビール業界において、清酒酵母を用いて麦汁を発酵させ、ホップの苦味とリンゴやメロンの吟醸香を融合させた「Sake Yeast IPA」が国際的な評価を獲得しています。また、九州の本格焼酎においても吟醸用の清酒酵母を導入することで、マスカットやライチのような華麗な香りを持つ「香り系焼酎」が誕生し、若年層の市場を切り拓いています。精密発酵と未来のバイオインフラ
極限の高アルコール耐性を持つ日本酒酵母の遺伝的知見は、次世代のバイオ燃料(バイオエタノール)開発におけるスーパー酵母の設計に不可欠なデータとなっています。さらに、各酒蔵が保有する独自の「蔵付き微生物」のリソースは、将来数兆円規模になる「精密発酵(代替タンパク質や高付加価値物質の合成)」産業において、世界中の製薬・化粧品メーカーに対してBtoBでライセンス供与できる莫大な知的財産(IP)として熱い視線を注がれているのです。
■ 結びに 次なる探求へ
いかがでしたでしょうか。 グラスの中でふわりと漂うリンゴやバナナのような甘い香り。
しかしその一滴の背後には、1万5000年に及ぶ酵母の地球規模の旅路、国家の存亡をかけてエリート酵母を純粋培養した近代科学の執念、そして再び自然の複雑系(三者間相互作用)へと挑む現代醸造家たちの果てしないロマンが詰まっていました。
「水」、「酒米」「麹」、そして「酵母」。
日本酒を構成する大自然の恵みと微生物という「原料」の深淵を解き明かしてきました。これで、日本酒の設計図とも言える基礎知識は完璧に網羅されました。
次回は、これまで紐解いてきた「水・米・麹・酵母」という四大元素に、文字通り「命」を吹き込み、一つの芸術作品へと昇華させる最後のピース、「杜氏(とうじ)と蔵人(くらびと)」の世界へと迫ります。
自然の恩恵と微生物たちの複雑な営みを、研ぎ澄まされた五感と長年の経験(暗黙知)によって束ね上げる「酒の魂を束ねる者たち」。
過酷な環境下で技術を磨き上げた出稼ぎ職人集団の歴史的系譜から、現代の酒蔵が挑む酒造りの最前線まで、酒造りの現場を支配する熱き人間ドラマを圧倒的なスケールでお届けします。
この「人」の物語を知ることで、これまでの知識がすべて繋がり、日本酒の真の姿が立ち現れるはずです。
本記事をご購入いただき、私の「全国の酒蔵を巡る伝承の旅」をご支援くださった皆様、本当にありがとうございました。 次回の新シリーズも、最高の熱量と圧倒的な分量で書き上げることをお約束します。 それでは今夜も、素晴らしい日本酒とともに、最高の人生に……乾杯!
■ 💡 深掘りQ&A:酵母の神秘とバイオテクノロジーの最前線(特大10選)
グラスの中で立ち昇る香りと味わいの秘密をさらに深く理解するため、酵母にまつわる読者の皆様の疑問を、歴史、生化学、そして最新のテクノロジーの視点から徹底的に解き明かします。
Q1. 酵母は生き物ですが、お酒の中に入ったまま飲んでも体に悪くないですか?
A1. 全く問題ありません。むしろ健康に有益な「栄養の宝庫」です。
一般的な日本酒は出荷前に「火入れ(約60〜65℃の低温殺菌)」を行うため、酵母はすでに活動を停止(失活)しています。
しかし、酵母の細胞内には良質なタンパク質、ビタミンB群、ミネラル、そして旨味成分であるアミノ酸やペプチドが豊富にそのまま残されています。
さらに、火入れをしない「生酒」や「濁り酒」では生きた酵母をそのまま取り込むことになり、腸内環境を整える「プロバイオティクス」としての効果も大いに期待されています。
Q2. 「蔵付き酵母」と自然界の「天然酵母」は何が違うのですか?
A2. 天然酵母の中でも、極限環境を生き抜いた「究極のエリート」が蔵付き酵母です。
「天然酵母」とは、果実や花など自然界に広く生息する野生酵母全般を指し、アルコール発酵能力が低いものや異臭を出すものも多く含まれます。
一方、「蔵付き酵母」は、もともとは野生酵母であったものが酒蔵という建物に定着し、何世代にもわたる高アルコール(20%近く)や強い酸性という「過酷な醸造環境」を生き抜き、適応・淘汰された集団です。
つまり、蔵付き酵母は「その蔵の環境によって強力に鍛え上げられ、醸造に特化した最強の野生酵母」と言えます。
Q3. フルーティーな香りの日本酒は、フルーツのエキスを入れているのですか?
A3. 一切入れていません。すべて酵母が命がけで生み出した「魔法の副産物」です。
お米と水だけでリンゴやメロン、バナナの香りがするのは、酵母の働きによるものです。高度に精米された白米を用い、10℃前後の極低温で発酵させる「吟醸造り」では、酵母は栄養不足と凍える寒さという極限のストレス状態に置かれます。
この苦しい環境下で酵母が生き残ろうと代謝を変化させた結果、細胞外に「カプロン酸エチル(リンゴ様の香り)」や「酢酸イソアミル(バナナ様の香り)」といったエステル類を大量に放出します。これが「吟醸香」の正体であり、酵母の生存本能が生み出す芸術なのです。
Q4. 最近よく見る「低アルコール日本酒」の流行にも、酵母が関係しているのですか?
A4. はい、まさに「酵母の力」による技術革新の賜物です。
これまで日本酒の度数を下げるには、出来上がった高い度数のお酒に水を追加する(割水)のが一般的でしたが、これでは味わいのバランスが崩れて水っぽくなってしまう欠点がありました。
しかし近年、福岡県の産学官連携プロジェクトで開発された「ふくおか夢酵母」のように、アルコール生成力が穏やかな特殊な酵母が実用化されています。
このバイオテクノロジーにより、水を足して薄めるのではなく、発酵プロセス自体に介入し「原酒の段階から低アルコールで、かつ香味の優れたお酒」を醸造することが可能になりました。
Q5. 時代によって「流行りの香り」は変わるのでしょうか? 酵母はどう対応していますか?
A5. 消費者の嗜好に合わせて、研究機関が絶えず酵母を「進化」させています。
例えば福井県では、食中酒としてやわらかな口当たりが求められた1990年代に「FK-301」を開発し、その後キレのある吟醸ブームに合わせて「FK-501」を生み出しました。
さらに近年、全国の品評会で華やかなリンゴ香が評価されるようになると、カプロン酸エチルを極めて高く生産する「FK-801C」を開発し、現在では安定性と洗練度を極限まで高めた最新鋭の「FK-802」を完成させています。酵母の系譜は、そのまま日本酒のトレンドの歴史なのです。
Q6. 香りだけでなく、「口当たり(テクスチャー)」を良くする酵母もあるって本当ですか?
A6. はい、「香りの次」にくる最新の酒質設計トレンドとして大注目されています。
秋田県総合食品研究センターが製パン適性の研究から着想を得て選抜した「高グリセロール生産酵母」が良い例です。日本酒の醸造においてグリセロール(アルコールの一種)は、液体にわずかな粘性を与え、人間の味覚において「ふくよかさ」「丸み」「上品な甘み」といったテクスチャー(食感)として感知されます。
香りが高く淡麗な酒から、酸と旨味のバランスを重視する現代において、この「テクスチャーを操る酵母」は次世代の切り札として期待されています。
Q7. 自然界の花などから酵母を取り出す「花酵母」はどうやって造られるのですか?
A7. 花に集まる自然の酵母から、アルコール発酵に強い「原石」だけを見つけ出します。
自然界の花(ナデシコやツルバラなど)や桜の花びらには、蜜を求めて多くの野生酵母が付着しています。
研究者たちはそこから酵母を採取・分離し、日本酒の過酷な発酵環境(高アルコール)に耐えられ、かつ良い香りを出す奇跡的な一株を選抜・純粋培養します。秋田県で実用化された「秋田美桜酵母」などは、消費者が求める自然志向や、「地元の桜から生まれた」という多様なストーリー性(テロワール)を見事に体現しています。
いいなと思ったら応援しよう!
日本酒の奥深い世界をお楽しみいただけたでしょうか?いただいたサポートは、より精度の高いファクトチェックのための文献購入や、全国の酒蔵探訪、そして「研究」と称した至高の日本酒のテイスティング代として大切に使わせていただきます。応援お願いします!