☆【小説】「龍と空色の歌」第2話【創作大賞2025応募】002
第二話 ビルの二十四階
表参道の交差点から坂を下り、カーブを曲がったかと思うとタクシーは高層ビルと雑居ビルの立ち並ぶ間を疾走する。
墨絵は林立するビルを窓越しに見上げていた。
超高層ビル、もはや塔だ。こんな高いところにあるオフィスで働いたらどんな気持ちなんだろう。
塔の天辺からは凄い風景が見えるんだろうなあ。
墨絵が通う会社のオフィスは六階建のビルにあり、その二階で普段は仕事をしている。窓からは向かいの通りにある小さなお弁当屋さんくらいしか眺めることができない。
六本木に近付くとタクシーは地下道に入った。
夏の日差しの明るさに目が慣れていた。目の前が急に暗闇になり「はっ」とした。
今のところキタさん的でもない。そしてバーンともなっていない。ところでバーンってなんだ。
墨絵の思考の混乱はさらに進んでいた。
タクシーはそんなことは御構い無しにどんどんと暗闇の中を進む。
車は停止した。
墨絵は息を飲んだ。
建物の扉が異様に輝いている。
ピカピカに磨かれているのか、金色に輝き、いくつも並んでキラキラ光っている。
暗い空間に慣れた目に反射する光が眩しい。
人生で初めてだ。こんなエントランスは見たことが無い。
ううん、確か中学の修学旅行で訪れたお寺。そんな感じ。
光が墨絵の瞳に飛び込んだ瞬間、バックを握り締めている手を思わず緩め、惚けた表情になりかけた。いけない。「用心、用心、墨絵」と客観的な墨絵と合唱し握り直した。
手の平には汗が滲んでいる。
「六本木・北参番タワービル」扉の脇にこれまた見たことも無い金色の看板がある。
キタサンバン、ビルの名前かあ。
墨絵は謎なまま納得をした。
車から降りて扉に近づいてもやはりキラキラと光り輝いている。
その途端に不安な気持ちになった。不安な気持ちにさらに輪をかけたというのが正しい。本当にこんなところに目的の会社があるのだろうか。今日の私の訪問先として適切なのか。
そして、隣にいる柏木と名乗るなんだか訳のわからない男。この雰囲気はなんだ。生まれて初めてだ。こんな状況はどんな事情があったからと言って正常といえるのだろうか。
「こんな場所に来ていることが正常なことなのか」
男は呟いた。
ぎょっ、それにこの男、なんだか墨絵の心を読んでくるではないか。
多くの人々の人生においてこれが変わったことではないのか、あるいはとても変わったことなのかすら墨絵の人生経験の何処をどう探しても見つからない。正常なのか異常なのか全く判別がつかない。
会社に知らせた方がいいのだろうか、いずれにしても後で連絡することにしよう。
情報が足りないのか、あるいは過剰なのか、墨絵の判断する機能が飽和状態だ。もう少し有効な情報を収集するしかない。
「エレベーターに乗ります」
男は、ポケットからカードを取り出すと、壁面の行き先階ボタンが普通なら並んでいる部分に当てがった。
カードまで金色だ──
やっぱりキラキラしている。
カードを当てた場所は一切の表示がない真っ黒なところだ。
金色の壁に金色のカード。ダークスーツの男。その光景が墨絵の瞳に映る。
頭の中で金ピカ扉、金色カード、真っ黒なパネル、ダークスーツの背中が、グルグルと回っている。
こんな映像はなんか嫌だ。でも、何だか懐かしい? そんな訳ない。墨絵の脳にまとわりつくグルグル映像を振り払うために首を左右に振った。
カードキーを押し当てた上部に行き先階のボタンが映し出された。
夥しい数の四角形が数字を抱えて端正に並ぶ。
その中の一つ、二十四という数字が一回転し膨らんだ。そして細かくふるふると震える。
私の年齢と同じだ。
どこまで私の事を調べ上げているんだ?
墨絵は過剰に反応していた。
どうやらそこが行き先階のようだ。今まで見たこともないエレベーターの佇まい、行き先階のボタンを押してもいないのに行き先階が決まる、まるで魔法のよう。
ビックリだ。墨絵の妄想空間が新しい展開を見せたのか。
いやいやこれは現実だ。現実のはずだ。
二十四階に到着し、エレベータから出て廊下を十歩ほど歩いた。
男は扉を開ける。
冷房が効いている。まるで冷蔵庫の中のようだ。
空気が身体を冷やしていく。
高級感が漂っている。なんだこの部屋は?
こんな部屋には入ったことはない。
でも、なんだか少し安心した。墨絵と同い年の階がショボい感じだったら、きっとがっかりしたに違いない。
思考は全く迷走している。いけない、いけない。
部屋に入った直後から、真っ赤な絨毯が足を包み込んでいる。長い毛脚に足を取られながら進む。
応接セットだろうか、ソファと小さなテーブルが置かれている。
ソファはまるでキリンとゾウが向かい合ってお辞儀をしている感じで墨絵を出迎えている。大きなぬいぐるみかと思ったが違った。一体どうやって座るんだろう。
応接セットの横を通り過ぎるときゾウと目があった。
意外とつぶらな瞳だ。可愛い。
部屋の中程まで進む。窓際に大きなミーティングテーブル。天板は天然木というのだろうか。輪切りになった樹木の断面、卓球台ほどの広さがある。十人程で集まって会議ができそうだ。
ミーティングテーブルの端に誰かが座っている。
窓から差し込む逆光でシルエットしか見えない。
墨絵が近づく。
背筋を伸ばした後ろ姿。椅子をくるりを回し、こちらを向いた。
そして立ち上がる。
腰に届くほどの髪。テレビで見た昔の髪型だ。ええっとバ、バブリー、そうバブリーだ。
えっと、えっと、ワンレン?じゃないか。前髪が少し眉にかかりながらカールしている。
スパンコールが光り輝く。
真紅のボディコンだ。
墨絵は息を飲んだ。
「はじめまして、社長のレモカ一恵です。よろしくね!」
女性は名前を名乗った。
大きな年輪の横に真紅、そしてスパンコールが窓から差し込む太陽光線でキラキラと輝いている。
そのアンバランスさに思わず吹き出しそうになった。目が点になりながらも緊張と面白さが混じり合う。
れ・も・か?って本名? 礼・門・家? 檸檬…? 漢字を勝手に当てはめ、墨絵はあれこれ予想した。
「あらごめんなさい。お名刺、渡してなかったわね」
レモカと名乗るその社長は、見たこともないこれまたバブリーなバックからバブリーな名刺入れを取り出し、そこから一枚、墨絵に渡した。墨絵の頭の中はバブリーでいっぱいだ。
さっきから雰囲気と勢いに推され漠然と「バブリー」と思ったが、ところでどんな意味だっけ?
名刺には名前だけが縦書きで印字されていた。
名前は片仮名で解決。漢字の当てはめ予想は終了。だがバブリーの概念を思い出すのに忙しく、墨絵は黙って名刺を見つめている。
「レモカって気になるかしら。レモカはこの辺で私の呼び名なの。皆、私のことレモカって呼ぶわ。キタさんじゃなくてよ」
少し間を置いて女性は付け足した。うん? キタさんと思っていたのがなんでわかったんだろう。
「昔からレモカ、レモカってそりゃ、うるさかったのよ」
何がどううるさかったのだろうか。
墨絵も青山に本社がある有名ブランドバックから名刺入れを取り出した。
バックは『ガスパラ・スタンパ』
スタンパのバックは皆んなの憧れだ。これなら負けまい。
「あら、あなた、名刺入れ、かわいいわね」
墨絵は癒し系のキャラクターのついたカードケースから名刺を取り出していたのだ。
社長はバックではなく名刺入れに注目してきた。むむ? 気を取り直して、墨絵は続ける。
「すきまライフの名刺入れです。このキャラクター、かわいいですよ」
墨絵は社長との会話の糸口をつかんだと思った。
名刺入れにはまるまるとした体型の白熊が寒さに耐えながら小刻みに震えているイラストが描かれている。寒さが苦手で北から逃げ出してきた白熊、という設定だ。その行動力にも憧れている。
寒かったら逃げ出す。良いか悪いかは別としてそうしたい。冷えたオフィスの空気が墨絵の頬を撫でる。
「白くて丸いそいつ、可愛いわね。でも、成人の女性が持つなら、もっとオトナの感じがいいわねえ。柏木、揃えておいて」と墨絵を連れて来た男の方を見た。
揃えておいてって? 何? 私の好みにケチをつける気なのか、この人。
「あなた、やっぱりいいわね。普通の女の子ならこのキャラクタ好きなんですぅ、とかなんとか言うわよ。それにバックの趣味がいい」
柏木から視線を墨絵に移しながら、社長は墨絵の目を見つめる。
バックは褒められた。勝った。
「あなたは、ちゃんとそのキャラクターをかわいいですよと勧めることができた」
社長は墨絵の目を見つめながら言う。
「女はみんなそう、自分の好みをプッシュしてくるわ。これ、好きなんですぅとか。相手のことなんてそっちのけ。一体どういう自信なのかしらね」
ちょっと面倒臭い社長さんだと思いながら、目の奥が深いな、と感じていた。とはいっても墨絵はそんなに他人の目を見つめた事があるわけでもない。
墨絵はもともと人見知りだ。コミュ障じゃないかと思ったこともある。家族でも見つめ合うことは殆どない。でも社長の瞳をとても深く感じた。
墨絵は改めて思う。一体この人は何者だ。
あ、そうかここの社長だ。デザイン会社の社長、バブリーな社長、ううん、でもやっぱり何者?墨絵にはすぐには理解できそうもなかった。
「私のお願いを聞いていただけるかしら」
お願いがあって来ているのは墨絵の方だ。なのになぜか向こうから切り出してくる。
レモカ社長は墨絵を促しながら応接セットに向かって歩き出した。
墨絵はソファに落着いてから話を始めようかとも思ったが、歩きながら社長に伝えることにした。なるべく丁重な、そう、社会人の鏡のように。そして積極的な印象が伝わるようにだ。そうしないと躾が悪く思われて、我が社の質が低く見られてしまう。
「あの、本日参りましたのは、弊社で来春発売を検討しているノートの表紙のデザインコンペに是非とも御社にご参加いただけないか、という件で御座います。」
社長は「ふーん」という表情のまま、キリンのソファに腰掛ける。
続けて墨絵も軽く会釈をして、ゾウのソファに腰を下ろした。
「そう言う話は柏木が作った話ね」社長が呟く。
聞き取れなかった墨絵は聞き返した。
「いま、何とおっしゃいました?」
「ああ、ごめんなさいね。ちょっと聞いたことのない話だったので。それにしてもあなた、なかなかしっかりした喋り方よ。感心ね」社長は応える。
「とんでもございません」
あんまりコンペとかに参加したことがないのか。あるいは、柏木という男、社長に報告していないな。墨絵はがっかりした。
「うーん、そういう場合には『とんでもないことでございます』よね。あなた、褒められたのよ」
推定一・二秒の間でコンパクトに発声された、社長の「とんでもないことでございます」一瞬だが聞き取りやすく気持ち良い。
もはや芸術だ。社員研修のときに注意されたことを思い出した。あー今度もちゃんと言えないかもしれない。
反射的にまた「とんでもございません」を口に出しそうになったのを墨絵は飲み込んだ。
「まあ、いいでしょう。柏木の作った話なら、それはそれで」社長は柏木の方を見た。
何のこと?客観的な墨絵が出て来た。
ちょっとあんた、この人たちほんとヤバいんじゃない、悪い意味で。やっぱり立ち去った方がいいわよ。早めに。
墨絵は固まった表情で思考を巡らしていた。
社長が「やれやれ」というような表情で口を開く。
「まず、お忙しいところお時間頂戴しちゃってごめんなさい。こうでもしなきゃ、あなたとお話できないって言うから、私も仕方ないわね、って感じなのよ」
改まった感じだ。だが、ちょっと言葉を崩して、距離を近づけたのか。
墨絵はチャンスとばかりに言葉を絞り出した。極めて丁寧に。
「私の用件をお話させていただければ有り難いのですが」
確かに忙しいのでこんな変な人たちと話なんかしている暇はない。
早々に用事を済ませて会社に戻りたくなっていた。こんな訳の分からない会社と仕事をしたくない。正直、そんな気持ちが湧き上がった。でも結構実力のあるデザイン会社のはず。
コンペの参加条件を説明して、この場を早く立ち去りたい。
この会社が参加するかどうかはどうでもいい。いずれにしてもこの状況を抜け出し主任に早く報告しなくては、と思った。何だが訳が分からないままだが、墨絵は仕事を進めなければと一所懸命だ。
「ひょっとして、あなた」
社長が墨絵の緊張した顔をうかがいながら言う。
「会社に戻ろうとしているんじゃないわよね」
当たり前じゃない。私は用事が終わったら直ぐに「か・え・り・ま・す。れ・も・か・社長」と墨絵は心の中でゆっくりと、かつ、しっかりと告げた。伝わる訳がないが、そんな気持ちだ。
私だって本当に忙しいんだから。
「あなたの上司とは話が付いているから、もう、戻らなくても大丈夫よ。永遠に」
「え、永遠に、ってどういう意味ですか」
客観的な墨絵がウズウズしている。
レモカ社長は柏木に向かって、あなた説明していなかったの?と言う視線を投げかけた。そして、やれやれという感じをさっきよりも強くした。
「そうね、説明するわね。実はあなたは会社から本日限りで解雇されているわ。今あなたが戻ろうとしている会社から」
客観的な墨絵が墨絵に言う。ほうらやっぱりやばい、謎の男についてくるから、おかしな女社長まで出てきてこんなことになるんだ。
やっぱりやばいって、言われたってしょうがないじゃない、いきなりで身動きできなかったんだから。
妄想空間の入り口で客観的な墨絵と言い合いをしている場合ではなかったが、人生初めての大混乱状態だ。
苦労の連続を歯を食いしばって耐えた就活を乗り越えてやっと入社した会社から突然解雇だなんて。
そんなことがあってはたまらない。墨絵も口を開いた。
語気を強めて社長に尋ねる。
「どういうことですか」
すっかり丁寧な言い回しは無くなっていた。タクラマカン砂漠の向こうまで遠くに飛ばした。で、タクラマカン砂漠って何だっけ? 思考は混乱したままだ。
「まあ、安心しなさい。会社からクビっていうことではないわ。あなたを引き抜かさせていただいた。というところが正しい表現ね」
引き抜き? どういうこと?
転職サイトみたいなこと言って、応募した訳でもないのにいきなり何よ。「ショック・リーチ!」ってヤツ?
合格しました!って言って登録料とか払えって言うんじゃないでしょうね。私、そんなサイトに登録してないし。
これって何かの詐欺?墨絵は黙って社長の顔を睨み付けていた。
「円満退社。退職金の代わりに契約金をお支払いするわ。悪い話じゃあないと思うけどね」
柏木が思い出したように傍の机の引出しから封筒に入った紙束を取り出した。
厚みがある。何だ? その封筒は。
「ちょっと、あなた、何してんの。今、現金渡してどうするの。この子のかわいいバックに入んないじゃないの。それにいきなり現金持って帰ってお家の人になんて言うのよ。どっかの知事じゃあるまいし」
知事? うーん、ちょっとそのネタ古い? 都知事ネタね。私が高校生くらいのときの話だ。緊張して訳のわからない状況なのに墨絵はなんだかちょっとだけ面白くなった。
この社長さん、根っからの悪い人じゃないんだ。そんな気がしてきた。
「悪いねえ、銀行口座に振り込ませてもらうから。なんだかわからないだろうけど、会社に帰ることはないわよ。まずは、柏木からいろいろ聞いてね」と墨絵の瞳を見つめて告げた。
柏木に向きなおり、社長は声かける。
「いろいろ、準備に手抜かりのないように。時間がないんだからね」と社長。
柏木は無言で頷く。
「ちょっと待ってください」
墨絵はなんだか怒りにも似た感情が湧いて来た。
そうだ、私は怒っている。おこだ。うーん、これは激おこだ。
「なんで、そんな風に一方的に私のことを勝手に決めて何かしちゃうんですか。私がいつそうして欲しいって言いましたか。それに……」
社長は墨絵の瞳を見つめている。
瞳の奥の何かと墨絵の瞳の奥にある何かを結合させているよう感じがする。
「それに?」
墨絵の声が止まったところを社長が復唱する。
悪いところだ。自分でも嫌になる。怒りで意見したあと二の句が止まるのだ。
「それに、私はあの会社にお別れを言う時間もないんですか。私の上司に」
墨絵は自分に驚いた。社長の話に応じて身を転じようとしている。
ほんとですか、墨絵さん、そんな簡単に? 客観的な墨絵も驚く。
社長は墨絵の瞳を見つめたまま呟く。
「ホント合格。柏木、あんたの腕前はすごいわ」
「恐縮です」
柏木がこのオフィスに来てから初めて口を開く。なんだか取って付けたような気もする。でもでも、ちょっと、私はどうなるのよ。なんだかもやもやしかしない、と墨絵は戸惑う。やっぱり詐欺か何か?
怒りと諦めが綱引きをしている。
「勝手に決めちゃってるかも知れないけど、私たちは一方的にあなたのことを決めつけてはなくてよ。あなたの会社のように」
付け足された言葉の意味がわからなかった。
墨絵の中で諦めが勝ち始めた。
社長の背後、大きな窓の向こうには一点の曇りもない蒼い空間が広がっている。きっとマンガなら「ミーン、ミーン」とか蝉の声の吹き出しで充満している空だ。
太陽からの真っ直ぐな光線。外の世界から、熱い日差しと化したエネルギーを運び込み、室内に充填させている。降り注いだ光もまた反射し飛び回り、目の前のテーブルの表面に輝きを創り出している。まるで生き物のように。
戸惑いが嵩じ、思考は停止している。
墨絵はその輝きをぼんやりと見つめるしかなかった。
光。雲一つない真っ青な空。頬をなでる冷房の冷たい空気。
墨絵は風を感じ、ほんの少しだけ思考した。高層ビルのオフィスからのこんな映像を見るのは人生において初めてのはずなのにそうじゃ無い気がする。
なぜだろう。
(3話へ) All Rights Reserved 2015 さくらりら (C)
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