「5兆円が8700億円に」──市場規模を見誤った経営者たちが失った2兆円の教訓
なぜ経営者は「絵に描いた餅」で投資判断を誤るのか
あなたの会社は、本当に戦うべき市場で戦っているか。
2023年、ソフトバンクグループが投資したアメリカ企業 WeWork は、かつて 5 兆円と評価された企業価値が 8700 億円まで暴落した。
投資総額は 2 兆円。孫正義氏が「真っ赤っかの大赤字」と語ったこの失敗は、市場規模の見誤りが経営を破綻させる典型例だ。
一方、2008年創業の Airbnb は、当初のピッチ資料で市場規模を 42 億ドルと予測していた。
しかし 2019年の実際の取扱高は 650 億ドル──当初予測の 15 倍以上に成長した。
両者を分けたものは何か。
それは「TAM・SAM・SOM」という市場規模フレームワークの本質的理解の差だった。
本稿では、スタートアップから大企業まで、経営判断の生命線となる市場規模分析の落とし穴と、それを回避する実践的手法を徹底解剖する。
TAM・SAM・SOMとは何か──投資家が2兆円を失った理由
3つの市場規模が示す「夢」と「現実」の距離
TAM・SAM・SOM は、事業が獲得可能な市場規模を 3段階で定義するフレームワークだ。
TAM (Total Addressable Market): 獲得可能性のある最大市場規模
SAM (Serviceable Available Market): 実際にアプローチ可能な市場規模
SOM (Serviceable Obtainable Market): 現実的に獲得できる市場規模
この 3つの関係性は、TAM > SAM > SOM という包含関係にある。
通常、TAM を 100 とした場合、SAM は 40 程度、SOM は 10 程度が妥当な比率とされる。
しかし、この「常識」こそが、多くの経営者を破滅へと導く罠なのだ。
WeWork の誤算──「不動産の又貸し」を5兆円と評価した投資家
WeWork のビジネスモデルは、長期リースで借りたオフィスを短期で又貸しする「不動産の転貸」に過ぎなかった。
しかし創業者アダム・ニューマン氏は「新しい働き方を提案する」という派手なビジョンで、TAM を「グローバルなオフィス市場全体」と定義した。
2019年、上場申請時に明るみに出た実態は悲惨だった。売上1800億円に対し赤字1900億円、手元資金は2400億円あったが 1年後には枯渇する見込みだった。
競合のリージャス社と比較すると、会員数は 5分の1、売上は半分以下で赤字なのに、企業評価額は 10倍以上の 5兆円とされていた。
「これは市場規模の定義を誤った典型例です」と語るのは、スタートアップ支援を行うグロービス・キャピタル・パートナーズの投資担当者だ。
「WeWork は TAM をあまりにも広く設定し過ぎた。実際の SAM は、彼らのビジネスモデルで対応可能な『フレキシブルオフィス市場』に限られるべきでした」
Quibi の悲劇──1000億円が半年で消えた「ニーズのない市場」
2020年、ハリウッド界の大物ジェフリー・カッツェンバーグ氏が立ち上げた短尺動画配信サービス Quibi は、初期資金1000億円を調達し華々しくスタートした。
しかし、サービス開始からわずか半年で事業停止を発表する。
Quibi が狙った市場は「有料で」「クオリティの高い」「短尺動画」だった。しかし、そんな市場は存在しなかった。
有料動画なら Netflix やDisney+ が待ち受け、短尺動画なら無料の TikTok が圧倒的なシェアを誇っていた。
「課題設定と仮説検証が不十分だった」と JAFCO の分析は指摘する。
「潤沢なリソースがあったが故に、顧客ニーズとの親和性や競合との差別化について十分な検証をせずに突き進んでしまった」
日本企業の成功事例──「note」が示した現実的な市場設定
13兆円の TAM から 1.5兆円の SOM へ──段階的成長戦略
2022年12月、東証グロース市場に上場した note は、市場規模を以下のように定義した。
TAM: 13兆円(国内コンテンツ市場全体)
SAM: 4.8兆円(オンラインコンテンツ市場)
SOM: 1.5兆円(オンラインテキストコンテンツ市場)
注目すべきは、2021年度の GMV(流通総額)が 84億円であったことだ。
SOM の 1.5兆円に対してわずか 0.56% のシェアだが、これは「まだ大きな成長余地がある」というメッセージを投資家に明確に伝えた。
さらに note は「2016〜2020年の年間平均成長率で SAM は 9.8%、TAM は 2.8%成長している」というデータを提示し、市場自体が拡大していることを示した。
これにより、投資家は「今は小さいが、成長する市場で着実にシェアを獲得している企業」という認識を持つことができた。
カミナシの戦略──22.6兆円の TAM から現実的な SOM を算出
ノンデスクワーカー向け SaaS を提供するカミナシ社は、TAM を「ノンデスクワーカー管理職の人件費」ベースで 22.6兆円と設定した。
一見すると巨大すぎる TAM だが、同社は明確な根拠を持って SAM と SOM を算出している。
「TAM は夢を語る数字ですが、SAM と SOM は現実を直視する数字です」
「投資家が見ているのは、経営者が市場の現実をどれだけ正確に把握しているかです」
行動経済学が明かす「市場規模の罠」──なぜ経営者は過大評価するのか
過信バイアスと楽観主義の危険な組み合わせ
ノーベル経済学賞を受賞した心理学者ダニエル・カーネマンの研究によれば、人間は自己の能力や判断を過大評価する「過信バイアス」と、物事が順調に進むと考える「楽観主義バイアス」を持つ。
新製品開発プロジェクトにおいて、経営者は予定よりも早く市場投入が可能と見積もることが多い。しかし実際には、開発の遅延や追加コストが発生し、結果として損失を被るケースが後を絶たない。
「市場規模の算定において最も危険なのは、経営者自身がバイアスに気づかないことです」
「TAM を大きく設定すること自体は問題ではない。問題は、その数字を信じ込んでリソース配分を誤ることだ」
確証バイアスがもたらす「見たいものしか見ない」経営
確証バイアスとは、自分の信念や仮説を支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視する傾向だ。
マッキンゼーが 1980年代初頭に AT&T のために行った市場予測は、この典型例だ。
「携帯電話は重く、バッテリーは切れやすく、通信エリアはまばらで、電話代が高い。したがって 2000年の米国での携帯電話普及台数は 90万台」
──しかし実際には、2000年には 1億台以上が普及していた。
「市場規模の算定で最も重要なのは、自分たちの仮説を否定する情報も積極的に集めることです」
「TAM の分析を重視しすぎている」
「重要なのは、どれだけ市場を正確に予測するかではなく、市場の変化にどれだけ素早く対応できるかだ」
実践的 TAM・SAM・SOM 算出法──「絵に描いた餅」から「食える餅」へ
トップダウンではなくボトムアップで算出せよ
多くの企業が犯す過ちは、政府統計や業界レポートから TAM をトップダウンで算出し、そこから機械的に SAM と SOM を導き出すことだ。
「これは完全に間違っています」と、スタートアップ支援の第一人者である田所雅之氏は断言する。
「TAM はレポートの数字を引用すれば十分。しかし SAM と SOM は、ボトムアップでフェルミ推定によって算出すべきです」
カフェの事例──現実的な市場規模の算出方法
個人経営のカフェを例に、具体的な算出方法を見てみよう。
TAM(国内カフェ市場全体)
市場全体の顧客数:150万人
客単価:1,000円
年間購入回数:12回
TAM = 150万人 × 1,000円 × 12回 = 180億円
SAM(自社がアプローチ可能な市場)
ターゲット顧客数:5万人(駅から徒歩 5分圏内の住民・通勤者)
支払検討額:1,200円(ランチセット込み)
年間利用回数:24回(月2回想定)
SAM = 5万人 × 1,200円 × 24回 = 14.4億円
SOM(現実的に獲得可能な市場)
既存顧客数:3,600人(月20日営業×1日15人×12ヶ月)
客単価:1,000円
年間利用回数:1回
SOM = 3,600人 × 1,000円 × 1回 = 360万円
この計算から分かることは、TAM が 180億円あっても、実際の売上目標はわずか 360万円という現実だ。
しかし、この現実を直視することこそが、生き残る経営の第一歩なのだ。
スタートアップの基準──IPO 実現に必要な市場規模
東証マザーズの IPO企業 (2018年) の中央値は、売上約20億円、経常利益約2億円だ。
つまり、IPO を目指すスタートアップは、最低でも SOM で20億円以上の市場規模が必要となる。
「TAM は 5000億円以上、できれば 1兆円は欲しい」
その理由は単純だ──TAM を 100 とした場合、SOM は 10 程度。
さらに実際に獲得できるのは、競合を考慮すると 4〜5 程度。
つまり、TAM が 1兆円でも、実際の売上は 400億円〜500億円が上限となる。
しかし、出資を受けたスタートアップのうち上場できるのはわずか 2% 程度。
この確率を考えれば、TAM が小さすぎる市場への投資は、投資家にとってリスクが大きすぎるのだ。
市場規模の「嘘」を見抜く3つの質問
質問1: TAM は誰が定義したのか
「国内の介護市場は 12兆円です」という説明を聞いたとき、あなたは何を考えるべきか。
正解は「その 12兆円の内訳は何か?」だ。
介護事業の中でも、介護 IoT 市場は 260億円程度に過ぎない。
さらに首都圏の高齢者住宅向けに限定すれば、わずか 20億円程度となる。
「建設市場は 60兆円以上」と聞けば巨大に思えるが、建設会社向け DXツールの TAM としては不適切だ。
実際にアプローチ可能な市場は、「建設業界の IT投資額」に限定されるべきだろう。
質問2: SAM と SOM の根拠は具体的か
多くのピッチ資料では、TAM から SAM への絞り込み根拠が曖昧だ。
「TAM の40%が SAM」といった機械的な計算は、投資家の信頼を損なう。
優れた SAM 算出は、以下の要素を明確にする:
地理的制約(どの地域でサービス提供可能か)
顧客属性(年齢、性別、所得層など)
購買チャネル(オンライン/オフライン、BtoB/BtoC)
競合状況(既存競合のシェア率)
質問3: 市場は成長しているのか
静的な市場規模だけでなく、市場の成長性を示すことが重要だ。
note が示した「SAM の年間成長率 9.8%」という数字は、投資家に「この市場は拡大している」という確信を与えた。
「現時点での市場規模が小さくても、年率 20%以上で成長している市場なら投資価値がある」
「逆に、現在 100兆円の市場でも、年率マイナス 5%で縮小している市場は避けるべきだ」
日本企業が犯す3つの致命的ミス
ミス1: 供給側から市場を定義する
「本の在庫が 1億冊ある。平均 1000円で売れるので、1000億円の売上になる」──これは供給側の発想だ。
重要なのは需要側、つまり「顧客が年間何冊の本を買うか」から逆算することだ。
Amazon が成功したのは、「顧客がどれだけ本を欲しているか」から市場を定義したからだ。
ミス2: TAM の大きさだけで事業判断する
「TAM が大きいから成長できる」という単純な思考は危険だ。
TAM が大きくても、レッドオーシャン市場では利益を上げられない。
逆に、TAM が小さくても、ブルーオーシャン市場で独占的シェアを獲得できれば、高収益事業となる。
重要なのは「TAM の大きさ」ではなく「TAM の中で自社が獲得できるシェア」だ。
ミス3: 一度決めた TAM・SAM・SOM を変更しない
市場は常に変化する。Uber のシード期のピッチ資料では、TAM を 42億ドルと設定していた。
しかし実際の 2019年の取扱高は 650億ドル──15倍以上の成長を遂げた。
「TAM・SAM・SOM は固定された数字ではなく、事業の進展に応じてアップデートすべき生きた指標です」
「変化を柔軟に受け入れ、定義を見直せる経営者こそが勝ち残る」
市場規模分析の本質──数字ではなく「戦略」を語れ
Amazon の事例──本から EC 全体への拡大戦略
Amazon にとっての TAM は EC 全体だった。しかし、いきなり EC 全体に挑んだわけではない。
まず「本の EC」という SOM から始めた。
本は「嗜好性が強く在庫リスクが低い」という特徴を持つ。
この市場を獲得した後、同じ特徴を持つ「CD の EC」へと拡大 (SAM) した。
そして最終的に、EC 全体へと市場を広げ、サーバーリソース (AWS) も提供するに至った。
この事例が示すのは、TAM・SAM・SOM は単なる数字ではなく、「どの市場から攻め、どう拡大するか」という戦略そのものだということだ。
投資家が見ているのは「市場の大きさ」ではなく「経営者の視点」
ベンチャーキャピタルは、TAM の数字そのものを見ているのではない。
彼らが評価するのは以下の 3点だ:
市場の解像度:経営者が市場をどれだけ深く理解しているか
戦略の妥当性:SOM から SAM、SAM から TAM への拡大戦略が論理的か
変化への対応力:市場環境の変化に応じて戦略を修正できるか
「TAM が 5000億円です」という説明だけでは、投資家の心は動かない。
「まず SOM の 20億円市場で年間シェア 30%を獲得し、その後 SAM の 400億円市場に拡大します。具体的には...」という戦略を語れる経営者こそが、資金を獲得できるのだ。
あなたの会社は生き残れるか──市場規模の「真実」に向き合え
WeWork の 5兆円からの転落、Quibi の 1000億円の損失、そしてソフトバンクの 2兆円の投資失敗。
これらすべてに共通するのは、「見たい数字だけを見た」経営判断だ。
一方、note や カミナシ、そして Airbnb の成功に共通するのは、「現実を直視し、そこから戦略を組み立てた」姿勢だ。
あなたの会社は、どちらの道を選ぶのか。
「人間は合理的ではない。しかし、自分が非合理的であることを知っていれば、合理的な判断に近づける」
TAM・SAM・SOM は、単なる数字遊びではない。
それは、経営者が市場の真実と向き合い、バイアスを排除し、生き残るための戦略を構築するための──まさに「生存ツール」なのだ。
市場規模の「嘘」に騙されてはいけない。
数字の裏にある「戦うべき市場」を見極め、あなたの会社が本当に勝てる市場で、着実にシェアを獲得せよ。
それこそが、この過酷な経済戦争を生き抜く唯一の道だ。
参照資料・エビデンス一覧
企業事例データ
WeWork財務データ: Form S-1公開資料(2019年)、ソフトバンクグループ決算資料
Quibi事例: JAFCOレポート「初期資金1000億円を調達したドリームチーム『Quibi』はなぜ半年で事業停止に追い込まれたのか?」(2021年)
note上場資料: 「事業計画及び成長可能性に関する事項」(2022年12月)
カミナシ事例: IR資料、Growth Hack Studio Blog分析
Uber成長データ: Benchmark Capital分析、シード期ピッチ資料
Airbnb市場予測: 2008年プレゼンテーション資料
市場分析手法
グロービス・キャピタル・パートナーズ「スタートアップの市場選定」(2021年)
ジェネシア・ベンチャーズ「事業のネタ帳#31 シード期の市場規模」
田所雅之『起業参謀の戦略書』ダイヤモンド社(2024年)
HAX Tokyo「TAM・SAM・SOMの正しい使い方」(2024年)
行動経済学・バイアス研究
Daniel Kahneman「Thinking, Fast and Slow」(邦訳『ファスト&スロー』)
Andreessen Horowitz (a16z)「16 More Startup Metrics」
行動経済学研究機関RWE「知っておきたい行動経済学:7つのバイアス」(2024年)
SMBCビジネスクラブ「ヒューリスティックとバイアス」(2024年)
IPO・投資基準データ
あずさ監査法人「2018年のIPO動向について」
東証マザーズ上場企業統計データ(2018年)
Code Republic「スタートアップの7つの成長プロセス #1 市場選定」(2021年)
マーケティング・事業開発
マネーフォワードIR資料
ラクスIR資料
ベイン・アンド・カンパニー「商業生産性分析」(2017-2021年)
統計・市場データ
McKinsey携帯電話市場予測(1980年代)
富士キメラ総研「DX市場調査レポート」
国内コンテンツ市場規模データ(2016-2020年)
その他参考文献
Eric Ries『リーン・スタートアップ』
Marc Andreessen「なぜソフトウェアが世界を飲み込むのか」
Bill Gurley (Benchmark Capital)「TAM分析への警鐘」
※すべてのデータは各資料公開時点のものであり、本稿執筆時(2025年12月)における最新情報に基づく
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