ページの向こうにあった旅の記憶──ライフスタイル記事【読書泊のしおり】心地よく本に浸る旅を読んで
noteで「読書泊のしおり」を読んだとき、最初に頭をよぎったのは、「それ、昔やってたやつだ」という懐かしさだった。
いわゆる「読書泊」──読むために泊まる、泊まるために読む。そんな目的でホテルを取ること自体、ある種の贅沢だとわかっている。でも、僕にとっては、それはむしろ「旅の本質のひとつ」だったように思う。
昔、海外を貧乏旅行していた頃。荷物の中には、着替えと同じくらいの比重で文庫本が入っていた。荷物は軽くしたい。そのくせ紙は結構重い。でも、本は削れない。いざという時、言葉も通じない街角で、心を守ってくれるのはいつも物語だったからだ。
安宿の二段ベッドに寝そべり、日がな一日読んでいたこともある。外は暑いし、金もない。そんなときは、部屋の隅っこのファンの音を聞きながらページをめくる。世界を旅しているはずが、物語の中でさらに別の世界を旅していた。
同じ部屋にいた旅人に、「せっかく旅に来てるのにもったいない」と呆れられたこともある。でも僕にとっては、むしろ旅の途中だからこそ読むことに意味があったのだ。だってなんだかかっこいい。
そんな旅先では、思いがけない出会いもあった。とある国の宿で、たまたま同室になった日本人と、文庫本をきっかけに話がはじまった。僕が読んでいた司馬遼󠄁太郎を彼が覗き込み「何を読んでるの?」と言う。そこから、歴史、文学や哲学の話を夜通し語り合い、最後にはお互いの本を交換して別れた。
「お互いの次の旅先でも、この本を読んでいると思うと、ちょっと楽しいね」と彼は笑った。
あのとき交わした文庫本の手触り、表紙のくたびれ具合、その夜の話し声──いまだに思い出せる。読書は一人でするものだけど、ときに他者と深くつながる入口にもなる。
けれど、いつの間にか、そうした風景も変わった。
SNSが普及し、スマホが当たり前になった頃からだろうか。安宿の共有スペースでは、みんな画面をスクロールしている。誰とも話さず、誰とも目を合わせず、自分のタイムラインだけを旅しているように見える。
あの頃のように、本を交換したり、深夜まで語り合うなんてことは、ほとんど見かけなくなった。旅先での出会いも、出会う前に検索する時代になってしまった。
僕も、もう文庫本はあまり持ち歩かない。今ではタブレット一つで済ませている。電子書籍は便利だ。ピンチアウトで文字が大きくなり、老眼にも優しい。しかも何冊でも入る。読みたいと思った瞬間に買える。実に合理的だ。
だけど、紙の本を介して人とつながったあの夜の記憶だけは、デジタルでは代替できない。
今、僕は出張でビジネスホテルに泊まっている。会議を終えたあと、部屋でタブレットを開いて読書を始める。昔はこの時間、近くの居酒屋を探していたけれど、今は静かにページをめくる(正確にはスワイプする)のが心地いい。
結局、今も昔もやっていることはあまり変わっていない。旅先で本を読む。それがホテルであれ、安宿であれ。ひとり静かに物語に沈む時間は、いつも僕にとっての再起動ボタンだった。
「読書泊」という言葉には、どこか今の時代の疲れがにじんでいる気もする。読書という逃避を、あえて主目的に据える。そのことで、自分を取り戻そうとする人が増えているのかもしれない。
読書とは、たぶん自分に帰る行為だ。だからこそ、あえて泊まり、あえて読むという贅沢が今、求められているのだろう。
──さて、そろそろページに戻ろうか。今夜はトイレじゃない場所で、ゆっくり読めるのだから。
