試す女(ためすおんな)第五話︰ファンデーションの檻【創作大賞恋愛小説部門】
午前十時、下馬のアパートの浴室に射し込む白い光は湿り気を帯びていた。
ベッドの枕元で目を開けた瞬間、昨夜の薫さんの声が耳の奥で残響した── 「優しい男はね、女をいちばんダメにするの。覚えておいて」
確かにそうかもしれない。私は今ダメになりたい。そして私の心は優しさに甘えることを望んでいる。
だから銀座へ戻る。自分を甘やかしてくれる優しさが、あの街の夜には満ちている。
鏡の中の頬には紫と黄土が溶け合った斑が咲き、触れるたび熱い脈が跳ね返る。それは深夜、壁に押しつけられたときにできたものだった。
私は濃いオレンジの補正色を痛む皮膚へ叩き込み、コンシーラーとファンデーションを幾重にも重ねた。粉をのせるたび痣がわずかに悲鳴をあげ、汗と涙が無色の混合液になって肌の下で揺れた。
ドアを開けた瞬間、きしむ床板が鳴り、賢斗が立っていた。寝癖の隙間から充血した眼差しだけが真っ直ぐ私の頬を射抜く。
「隠してるつもり?」という低い声が空気を裂き、指が私の手首をつかむ。鏡に映る二人の顔が上下に揺れ、湿った空気がさらに重く沈んだ。
「夜の仕事してるんだろ?」
私は答えられず唇を噛んだ。その沈黙が導火線になり、洗面台に置いてあった封筒が彼の手に渡る。札束が口を覗かせ、真新しい帯封の墨が湿度を吸って匂った。
賢斗は封筒ごと握りしめ「なんだよこれ」と笑う。乾いた声は笑いというより割れた硝子の音だった。
私は反射的にその手を取って押し返した。「全部あなたにあげる。これで終わりにしたいの」 封筒は賢斗の腕に押しつけられ、彼の指が力なく札束を抱く。「逃げるのか」掠れた声。私は首を振った。「清算よ。夜で稼いで、夜で払う」
次の瞬間、肩を強く壁に押しつけられ背中に衝撃が走る。痛みより先にタイルへ落ちる水滴の冷たさを感じた。「痛い!」と叫んだ声がタイルに反響し、賢斗の腕が震えた後、力が抜けて膝を床に落とした。「お前がどこへ行くのかわからない」と小さく呟くその頭上で、札束の角を湿った床が濡らす。
タオルで頬を押さえ、崩れたまま動かないでいる賢斗を跨いで、私は浴室を出た。背後で「里佳子……」と呼ぶ声が追い縋ったが振り返らなかった。
正午過ぎの日比谷線は満員でもなく空き過ぎてもいない。車窓に映る自分の横顔がビルの外壁を滑るたび、ファンデの下で痣が脈を打った。向かいの乗客はスマートフォンに笑い、誰も私の顔の奥で疼く紫を知らない。
私は銀座で降りて、まずレンタルドレスのショップへ足を運んだ。そのショップであれば、お店の売掛で衣装を借りられる。
そして、喫茶店に入り、薫さんの仕草を真似て、アイスラテのストローを回しながら、福山さんに今夜出勤するメッセージを入れた。福山さんはAIカンファレンスでの講演予定があって、同伴はできないと言ったものの、必ず来店すると約束してくれた。
午後五時半、銀座八丁目の美容室ロサ。ミラー越しに見える自分の顔は、頬の内側でまだ脈打つ紫を抱えながらも、巻かれた髪と艶のスプレーで別人の輪郭を描いていた。
仕上げのスプレーが甘くむせる香りを残し、私は支払いを済ませて外へ出る。梅雨雲の下の風はぬるく、ネオンの状況が肌にまとわりつく。クラブの裏路地に着くと時刻は午後六時。ビルのシャッターはすでに上がり、エントランスではポーターやスタッフたちが忙しく動いている。
お店のあるフロアにある、明るい裏階段。蛍光灯の光が手すりに反射して、肌の色を冷たく映す。
私は踊り場に腰を下ろし、ポーチからパフとリップブラシを取り出した。蛍光灯の硬い光が頬に落ち、コンシーラーの境目が浮く。指先でぼかしながら、階下から聞こえるヒールの音と、香水の甘い尾を引く女たちの笑い声を聞く。
階段の鉄扉が軋むたび、小さな風が裾を揺らし、湿った夜の匂いとともに開店が近いことを知らせる。
午後七時半。最後の仕上げにミストをひと吹きし、最終チェックを終えると、裏階段を上がってフロアホールへ出た。まだ開店まで三十分。
まずはママへの挨拶——佳代子ママは薫さんが辞めてから営業前に店へ来るようになり、この時間に顔を合わせるのが日課になっていた。
バーカウンター脇のハイチェアに腰掛け、紫煙を揺らすママは私の痣を見ないふりで「艶が足りないわね」とだけ言い、赤いリップグロスを差し出した。「ナンバーワンになる顔は光沢が命よ」
「ありがとうございます。——ママ、今日もよろしくお願いします」
グロスを薄く重ねると、頬の痛みより先に唇の熱が意識に浮かんだ。ママは視線を外し「聞かせて」と呟いて脚を組み直した。
それから私は、事情を語り終え、ママは一言も遮らず最後まで聞き、ママは赤いネイルで私の頬を撫で、隠したはずの痣をなぞった。
「そんなの愛じゃないわね」低い声がファンデの粉を震わせた。
「追い銭よ」と差し出された封筒は厚く、墨の匂いが濃い。
「今の部屋じゃ夜の匂いが抜けないでしょう。近いうちに物件を決めなさい。費用はその中で足りるはずよ」
「働いて、必ずお返しします」私はそう言いながら深く頭を下げた。
ドレスの胸元に無理やり押し込んだ封筒は心臓の鼓動より熱かった。
挨拶を済ませ待機席へ向かうと、スタッフや女の子たちが少し驚いた顔をしている。無理もない、昨日卒業のお祝いをしてもらっておいて、次の日に出勤しているのだ。
でも私は何食わぬ顔をして一番奥の席に腰を下ろし、膝の上で手を組んだ。そしてプリクラのようなアプリでライトを最大にし、スマホ画面に映る頬を確認する。——大丈夫、均一だ。
L字型ソファに散らばっていた女の子たちは、私の様子を見てしばらくすると、何事もなかったかのように表情をもどし、早口でネイルの話をする者、スマホを横にして営業メールを打つ者、鏡代わりのインカメラで前髪を整える者——湿った香水の層が漂い、誰もが八時の開店ベルをそれぞれの方法で待っていた。
営業開始からすぐに、薫さんの常連だった実業家たちが次々と私の名を呼んだ。嫉妬の視線が背中を刺し、ボーイがテーブルへシャンパンを置く瞬間、私の手はグラスの脚を添えるだけで精一杯だった。グラスが卓上で回転し、甲高い音とともに割れた。客たちは笑い、ホステスたちの瞳は氷のように冷たい。私は完璧な笑顔を貼りつけ、割れた破片を拾い集めるボーイを見守った。
午前一時、早目にアフターを切り上げた頃には、細い霧雨が石畳をまだらに染め、街灯の光をぼかしていた。夜と朝の間を漂う雨の粒が、頬のファンデーションへじわりと滲んだ。並木通りの角を曲がり、湿ったネオンの匂いの中で、新しいドレスの裾を握りしめた。
私はママからの封筒だけを握り、この日もグランハイアットのマデュロに向かった。
そこで、ソファー席でスマホを見つめる福山さんを見つけた。彼には先にお店を出てもらって、ここで待って欲しいと伝えてあった。
「お待たせ…」
低く掠れた声を差し向けると、福山さんはスマホを伏せ、ソファの影に静かな笑みを置いた。グラスの底に残った琥珀が、足元のダウンライトを受けて揺れている。
──好きなら抱いて。
鼓動が言葉より先に胸を打つ。私は薄いリップの端を整え、テーブルへ身を乗り出した。
「ねえ、福山さん。もし私のこと、少しでもいいと思うなら――今夜、抱いて」
氷が鳴るほどの沈黙。戸惑いが彼の視線の奥に結露し、やがてため息がその幕を曇らせる。
「里佳子さん…君は、そう簡単に口にするタイプじゃないと思っていたよ」
「簡単じゃないわ。だから、本気なの」
声は震えず、代わりに指先が震えた。私は緩やかに握った拳を膝に下ろし、続けた。
「これ以上、待つ理由が見つからないの。私が欲しいなら、今夜を――私にください」
福山さんはグラスを回し、ウイスキーの残り香で言葉を湿らせた。
「話しておきたいことがある」
彼は視線を落とし、己の影を見つめるように言う。
「僕には、妻がいる。君は知っていた?」
「知ってる」私はすぐに頷いた。「でも、出会ったのが奥さんよりちょっと遅かっただけじゃない。タイミングの問題でしょ?」
悪びれず微笑むと、福山さんの目尻がわずかに揺れた。
「君は強いんだね」
「強くなんてないわ」私は首を振る。「好きなら、抱いて。それで十分」
数拍の静寂。店内のサックスが低く震え、ふたりの間に漂うグラスの影を掠めた。
「わかった」福山さんは小さく息を吐き、手を挙げてバーテンダーを呼ぶ。
「ルームサービス付きで一室頼む。……今夜、ここを出たらすぐに」
カーペットは雨を含んだ夜気の匂いを閉じ込め、部屋の灯りは月よりも柔く肌理をぼかしていた。
ドアが閉まる音を合図に、私はヒールを脱ぎ、濡れた裾を指で摘む。福山さんの手がそっと私の頬を包み、隠した紫をなぞる。
「痛まない?」
「今は平気」
キスは囁きの温度。ファンデーションの檻をすり抜け、熱が頬から首すじへ降りる。ドレスのジッパーが静かに下りるたび、呼吸は浅くなり、胸元で脈打つ封筒の厚みだけが現実の輪郭を留めた。
スーツのボタンがカーペットに落ちる音、外した時計が丸テーブルに触れる金属音――夜は二人の残響をひとつずつ飲み込み、窓辺のカーテンが都心の灯りをにじませる。
抱き寄せられた瞬間、痛みと熱が溶け合い、思考は波立つシルクのように絡まった。指先が背骨を辿り、肩紐が滑り落ちる。
「里佳子…」
耳元で名前がほどけ、次の吐息が私の唇を塞ぐ。
重ねた肌の下で鼓動が追いかけ合い、窓の外では雨粒がガラスを打つリズムを刻む。視界がかすむほどの甘い湿度の中、私は彼の胸に爪を立て、真実より熱い嘘を囁いた。
──ねえ、いまだけでいい。未来も過去も、全部あなたに背を向けるから。
返事の代わりに強く抱きしめられ、背筋に走った小さな痛みが快感へ転じる。シーツの上で絡む脚がシルエットを溶かし、夜がさらに深い色を足していく。
息がほどけ、撫でる手が腰の曲線を辿る。微かな疼きが熱を募らせ、指先が触れるたび、胸の奥で崩れた砂の城が波に洗われるようだった。
「好きだ…」と呟く声は震え、私は彼の髪を撫でながら頷く。
「好きなら抱いて――全部忘れさせて」
闇と灯りの狭間で、肌の温度だけが確かなものになった。交わしたキスの数だけ夜がほどけ、シーツは波に似た皺を描いた。痛みでさえ甘い旋律へ変わり、私たちは互いの名を静かに溶かしながら、雨音に溺れていった。
……封筒の角を指で撫でる。
うっすら白みはじめた空の下、街灯がまだ瞬きを残している。
「部屋、探さなきゃ」
呟きだけを残して、窓の外のオレンジ色を追った。
