#54 想いあふれて(シェガ・ヂ・サウダージ)/ジョアン・ジルベルト
カエターノ・ヴェローゾや、ジルベルト・ジルのトロピカリズモに興味を持ち始め、ブラジル音楽を聴き始めたのは20代半ばの頃。
それまではご多分に漏れず「イパネマの娘」や「マシュ・ケ・ナダ」程度の知識で、中学の頃ヒットしていたセルジオ・メンデス「愛をもう一度」や「オリンピア」を聴いていたくらいだった。
ジョアン・ジルベルトとの出会いも、スタン・ゲッツとの大ヒット共演盤【ゲッツ/ジルベルト】が最初である。誰からいただいたか忘れたが、我が家のレコード棚にいつの間にか、LPが仲間入りしていた。
曰くつきの「イパネマの娘」。居合わせた妻のアストラッドが、自分が英語で歌いたい!と、プロデューサーのクリード・テイラーに懇願。シングルヴァージョンでは、彼女が英語詞で唄った箇所が採用され、ジョアンのポルトガル語パートは全カット。それが全米5位となり、グラミーの最優秀レコード賞を獲るのだからジョアンが激怒したのは言うまでもない。
59~61年にかけてオデオンからリリースされたLP3枚は、後年ジョアンがブラジルオデオンと揉めていたせいで、しばらく再発されなかった。しかし、3枚をごちゃまぜに38曲収録した93年のCD【ジョアン・ジルベルトの伝説】があった。これこそが、私たち世代のジョアンのバイブルとなったのだ。
さらにミュージック・マガジンの別冊だったCDBest100というガイドブックが97年頃から定期的に発売され、その中の「ヴィヴァ!ボサノーヴァ」「トロピカリア・ブラジレイラ」にかなりの影響を受けた。
【トロピカリア】【ジルベルト・ジル】【カエターノ&ガル】【エリス・レジーナ&トゥーツ・シールマンス】や、ジョルジ・ベン、カルロス・リラ、シルヴィア・テリス、ワンダ・サーなど、最初に購入した数枚は、このガイドブックで知ったものが多い。
そうしているうちに、2001年に音楽之友社から復刻されたルイ・カストロの怪著「ボサノヴァの歴史」を貪るように読む。これにはまいった。
バイーア(ブラジル北東部)出身のジョアンは、リオでヴォーカルグループ、ガロートス・ダ・ルアのソロ歌手として加入するも、遅刻はするわ、リハやステージをすっぽかすわで、早々に解雇を余儀なくされる。
失意のもとにリオを離れた彼は姉の家に下野し、あの伝説のバスルームでの試行錯誤を重ねていく。朗々と歌い上げるのではなく、小声でささやくように歌うとコントロールがしやすくなった。
バスルームのエコーチェンバー効果は、ヴィオラォンの弦もリヴァーブさせた。小声で唄うことにより、テンポを速めたり遅くしたりを自由自在に操ることを会得する。およそ2年に及ぶひきこもりを経て、彼は新しい奏法と唱法を携えて再びリオに戻ってきた。
ある夜、ロベルト・メネスカルの家を訪ね「オバララー」を唄う。彼は云う、「ジョアンはあるテンポで唄いながら、まったく別のテンポで楽器を弾いていたんだ」。ロベルトはカルロス・リラやナラ・レオンにジョアンを会わせ、さらにアントニオ・カルロス・ジョビンに会うように勧める。ついに二人の邂逅が実現する。
「想いあふれて」はブラジルを代表する歌手、エリゼッチ・カルドーゾが最初に吹き込んでいる。ジョアンのギターはバッキングに徹し、ボサノヴァ・ギターが初めてお目見えしたバージョンとなる。
ジョアン盤のあとに、このカルドーゾ盤を聞いた時の居心地の悪さを思い出す。上手な演歌歌手がロックを歌ったときのなんとも言えぬ違和と汗顔とでもいおうか。とてつもなく上手に歌っていても、やはり何かが違うのである。
その後も数人の歌手が「想いあふれて」を吹き込んだ。ジョアンはアドバイスに応じて、あの右手の奏法を流布させていった。
そして、いよいよジョアンのデビューアルバムのレコーディングが始まる。アントニオ・カルロス・ジョビンは1stのライナーにこう記している「ジョアン・ジルベルトはバイアーノ、27歳の“Bossa Nova”だ」。
2006年11月東京国際フォーラムで行われた来日コンサートの映像作品。「想いあふれて」。そこには静寂を愛したジョアンの、まさに静寂を音楽にした奇跡の一夜があった。
30代の頃、酔った勢いのまま、この曲をカラオケで歌ってみたことがある。ポルトガル語の字幕にカタカナでフリガナがふってあり、耳で覚えたジョアンの歌声を憑依させる。さすがにメチャクチャ難しいが、なんとなく歌えてしまったな、という記憶がある。
コツは決して力まずにジョアンの鼻歌を意識して歌うこと。至極の気持ちよさだった。
★番組情報:レコードアワー
放送時間:毎週月曜 8:00~9:00
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