人間を動物化する「知」の暴走
前回の投稿では教育におけるトリレンマの問題を切り口とし、「知のダウンサイジング」が必要となる可能性について言及した。
日本の教育行政は1980年代以降、いわゆる「詰め込み」と「探究学習」の間を往還し続けている。そこには伝統的な教育が反復演習による知識と技能の定着を偏重して思考力や探究力の涵養を軽視してきたことへの反省がある一方、思考や探究を求める授業の導入が知識と技能に代表される基礎学力の形成の妨げになっているという批判が存在し、両者の対立が教育の方針を二転三転させているのが現状だ。そして、双方の立場から詰め寄られる教育現場はその両立に腐心するが、それに対応し得る時間と資源を欠いている。ここに基礎学力の形成、思考力・探究力の涵養、時間と資源の制約という3項から成るトリレンマの構造が現出するわけだ。
この問題はICTの普及やAIの進歩に後押しされた科学技術研究の加速、および社会構造の複雑化に伴う認知能力への要求水準の向上といった要因により急速に深刻度を高めていくことが予想される。限られた時間や資源の制約のもとで幾何級数的に増大していく知識を消化吸収し、それらを用いて高度な思考や探究に活かせるような頭脳の持ち主は自然状態において一握りに限定されてしまうのではないか。
おそらく、人類は教育上の工夫から脳神経回路への物理化学的干渉まで様々な手段を通じて人間の認知能力の拡大を図り、知の膨張の中で一般大衆が置き去りにされてしまわないように努力を続けるだろう。しかし、成功はあまり期待できそうにない。何せ、現状ですら学校の勉強について行けないという生徒が続出しているのだ。結果として、知の拡大に取り残された人々は社会的・経済的な排除に直面し、その遺伝子は淘汰されていく可能性がある。いわゆる優生思想が目指すところの社会進化が実現されてしまうというわけだ。
そうしたディストピアの到来を避け得る一つの手段として考えられるのが「知のダウンサイジング」である。それは無秩序な知の追求に歯止めをかけ、知識量や認知処理への要求水準の上昇を人類の能力の拡大が追いつく程度まで減速させることを意味する。
近代以降、知の追求への懐疑は非科学性、あるいは後進性の象徴とみなされ、社会の表舞台から遠ざけられてきた。いわば「知」と「進歩」は実質的に不可分の概念として扱われているのである。ゆえに、真摯な知の追求は人間をさらなる高みに引き上げる営みとして専ら賛美の対象となる。
それに対し、「知のダウンサイジング」とはそうした進歩観を逆転させる「野蛮な」試みにほかならない。知の追求を自ら止めようというのだから、ほとんどの人はそれを愚かしい提案だと考えるだろう。しかし、多くの市民が持て余すであろう知の野放図な膨張を看過し、選ばれしごく一部の人間のみがその習得を通じて社会的地位や富を独占するような状況は果たして歓迎すべきなのか。少なくともそうした問いを投げ掛けること自体に一定の意義はあるはずだ。
本稿では学校教育の枠組みに留まらず、人間社会全体の問題として「知のダウンサイジング」の必要性を考察してみたい。
まず問われなければならないのが、野放図に膨張する知を人類が制御し続けられるのだろうかという点だ。
知によって産み落とされる科学技術の暴走と聞いて多くの人が思い浮かべるのはやはりAIだろう。AIが意思を備えて人類の排斥を自ら企図するかどうかという点については研究者の間でも議論が分かれるところだが、AIを使う人間の悪意や不注意によってアルゴリズムが破壊的な振る舞いを選好する危険性についてはほとんどの識者の間で見解が一致している。
知の膨張が人間の認知能力を凌駕し得るという文脈では、むしろ後者こそが問題となる。古典的なコーディングによって実装されたアルゴリズムであれば、システムに与えられた指示や設定の変更が出力にどのような影響を及ぼし得るか、技術者は記述されたプログラムから予測することができる。もちろん、巨大な規模のシステムで膨大かつ複雑極まるコードが記述されているような場合にはその読み解きに多大な労力と不確実性が伴うだろうが、それでも理屈上は完璧な解読を行えば結果は一意に定められる。しかしながらAIの場合、ブラックボックス化された処理過程を開発者が逐一追いかけ、その振る舞いを制御することは不可能である。ゆえに学習過程や出力に対して禁則事項を設けることによってしかAIの安全性を担保できないのだが、それによってAIの破壊的挙動を100%抑止できると考えるのは楽観的に過ぎよう。大人の顔色を窺いある程度は空気を読むことのできる人間の子供にだって、「してはいけないこと」を教え込んで悪さをさせないようにするのは難しい。必ず、「そんな馬鹿なことをしでかすなど想定してなかった」という事態が発生する。まして相手は行間を読まず指示を杓子定規に実行するコンピューターである。搭載されるAIの機能が高度化し、応用の領域がより社会の深層へと拡大するにつれて、予期せぬ出力がもたらす悪影響は文明基盤をも揺るがす破壊的なものになるだろう。
事はAIに限らない。医療分野でも同様のリスクは懸念される。たとえば、コロナ禍で開発されたmRNAワクチンは従来のように弱毒化されたウイルスを接種するのではなく、抗原となるスパイクタンパク質をコードするmRNAを人間の細胞内に紛れ込ませ、そこで抗原を産生させてしまおうという大胆な新技術によって創られたものである。実のところ、細胞がコロナウイルスに感染した場合でも自己複製のために細胞質内へとRNAが送り込まれるわけだから、抗体産生の機構だけ考えると自然感染および新旧ワクチンの間に大きな違いはない。むしろ未知数なのは、人工的に接種したmRNAを細胞内で生じる分解作用から一定期間保護するコーティング物質の影響かもしれない。当然、実験段階ではコーティング物質は想定通りに消失していたことだろう。だが、実用の局面に入って何千、何万人もが接種するようになれば、何らかの要因でmRNAの保護が想定外に持続され、人体に予期せぬ影響や後遺症が生じるといった事例が見つかることも考えられる。薬に副作用は付き物だが、DNAやRNAのような核酸は人間の遺伝情報とその発現を司る物質である。その動態に干渉し得るような技術は何らかの想定外が生じた場合、世代を越えて人類に恒久的な変化をもたらしかねない。DNAを直接編集する遺伝子治療に至ってはそのリスクはさらに大きいと言えるだろう。こうした技術を人間は完璧に扱い得るのか。
また、身近なところでは地球温暖化も知の暴走が招いた帰結だと言える。蒸気機関の発明と実用化以降、人類は旅客や貨物の運搬を効率化するための動力源として、あるいは室内の気温を快適に保ったり便利な電子機器を作動させたりするための電力源として、化石燃料を無定見に消費してきた。その時点では石炭などの燃焼によって大気中に放出される二酸化炭素の増加が地球環境に及ぼし得る影響を看破していた人はほとんど存在しなかっただろう。今や地球温暖化の亢進は人間の生命さえも危機に晒すに至り、皮肉なことにそれを受けて俺達はエアコンを常時使用することで、温暖化ガスを一層排出しながら快適な生活を維持しようとしている。現状の科学技術では地球温暖化を制御する術が無いのだ。これなどは知の膨張が人間の認知能力を凌駕してしまった好例と言えるのではないか。
知の急激な膨張に置いてけぼりを食らうのは、何も自然科学分野における人間の認知能力に限らない。むしろ個人的には、強大さと複雑性を増す科学技術に釣り合うだけの人文科学分野の進歩、もっと言えば人間の精神的な成熟が自然科学の革新に追いつかないことを危惧している。
画期的な新技術の開発は、当然ながらその悪用や誤作動を抑止したり、予期せぬ否定的影響の波及を防ぐための科学的知見の発達を伴わなければならない。たとえば、自動車の排気ガスに含まれる窒素酸化物などの有害物質を無害化するための触媒技術は、科学が生み出す問題をさらに科学の力で解決しようとする例の一つである。AIの使用が招く文書の盗用や剽窃に対しては、同じくAIを搭載したチェッカーを運用することで不正の検出が可能になるだろう。技術によって最終的にいかなる問題の解決も可能であると信じる楽観主義者は、その当然の帰結として科学が引き起こす問題を解決するためにさらなる科学の進歩を主張したがる。
しかしながら、現実には自然科学的な知の革新のみで全ての問題に対処するなど不可能である。運転の自動制御技術が究極的に高められた自動車が開発され、恣意的に人を轢き殺すための操作を許可しないようなシステムが実装されたとしても、車内で運転手が同乗者を縊り殺そうとするのを阻むことはできないだろう。そうした行為を抑止するためには、「理由もなく人を殺めてはならない」という倫理が共有されていることが決定的に重要だし、人倫に背く振る舞いを社会的に罰するための法律も必要である。同様に、レポートや論文の執筆に際してテーマを生成AIに丸投げし、その出力結果をそのまま流用するような振る舞いはAIチェッカーによって抑止できるかもしれないが、そもそもそんなことはすべきではないという倫理が当然のものとして働かないのは社会として問題ではないか。
当然ながら、技術の急速な発達は倫理や法制度の根底をも揺るがし、一筋縄では行かない問いを社会に投げ掛ける。早晩、AIとの婚姻に対して人同士の結婚と同等の政治的対応や権利を認めるべきかどうかといったことが議論の対象となってくるだろう。現時点において、それは馬鹿げた夢想でしかないように思える。しかし、今やかなりの数の人間がChatGPTなどの生成AIを友人やメンター代わりの話相手として頼るようになっている。こうした急激な変化は俺達に「人間とは何か」といった哲学的考察を深める暇を与えないまま、人々の衝動的要求を煽り立てつつなし崩し的に既存の社会構造を解体していく可能性がある。たとえば、結婚や家族といった制度的枠組みはいつしか生物学的な身体性から遊離し、他方で生物としての人間の再生産が任意の配偶子を用いた人工授精によって実現されていくような社会が到来することさえ考えられなくはない。もっと言えば、現在の価値観に照らしてディストピアとしか思われないような社会であっても、技術の革新がそれを自然と受け入れるような人間の認知的枠組みを構築していくかもしれないのだ。
さて、こうした事態を果たして「進歩」と呼ぶべきだろうか。
技術至上主義者はともすれば、習俗や倫理の変容あるいは解体を「非合理性からの人類の解放」として歓迎するかもしれない。合理性という旗印のもとに人間社会から葬り去られてきた精神文化は枚挙にいとまがない。そこには確かに土俗的な迷信や宗教的な戒律が要求する生贄、魔女狩り、性差別といった、近代的な人権思想に著しく反する習俗も含まれる。現代社会においても、少し前までは美徳として称揚された根性、自己犠牲、清貧といった精神が「科学的に間違っている」という理由で否定的に見られるようになりつつある。時には正直さや仁愛といったものまでが侮蔑や嘲笑の対象に含まれるほどだ。
近代以降、技術の発展は合理性と不可分であり続けてきた。この場合の「合理性」とは資本主義社会において美徳とされる利潤の追求、そして共同体や宗教の軛から人間を解放する個人主義の追求に紐づけられるものである。経済学における利潤とは単なる金銭上の問題ではなく、健康や快適さ、あるいは承認欲求や支配欲といった、人間の満足感を充足させるあらゆる面での「効用」にほかならない。平たく言えば、人間は自身がより安全で快適な環境で暮らすために、そして他者の風下に置かれるのではなく少しでも経済的・社会的に有利な競争的地位に立つために技術を発展させてきた。そして「他者」という語で表象される人間関係の範囲は資源の獲得を争う地理的な共同体の外側から、共同体の内外を問わず風習や思想を異にする文化的集団へ、そして最終的には周囲のあらゆる人間、友人や家族をも含む自分以外の個体集団へと拡大されつつある。
個人を中心に据える社会の究極形態は倫理や宗教といったものを不要にする。唯一の物差しは自身の効用であり、その最大化のためには他者への従属はおろか、配慮や仁愛すらも捨象され得る。自分が飢えて死んでしまうかもしれないのに、他者に食べ物を分け与えるのは不合理の極みである。自身の欲求や自己実現を犠牲にして他者の定めた戒律やルールに従うのは愚かしい。そうした個人主義的な利潤追求のための戦いを有利にしてくれることこそが現代の技術に向けられた期待である。人間が他者に煩わされることなく自身の欲望をより手軽に充足できるように科学が発展を続けている限りにおいて、知は「進歩」を遂げていると言える。それが資本主義・個人主義によって駆動される社会における、技術至上主義者の価値観であろう。
だが、科学の「進歩」によって人間の欲望が満たされ社会が矮小化されていくという現象は、実のところ極めて動物的である。獣は飢えをしのぐために弱き生命を喰らってその死を顧みず、餌や縄張りを巡って同胞を駆逐する。安全性と資源の確保を通じて自己の生命の存続を図ること、それが野生の掟であり、その目的のためには捕食や競争による容赦ない他者の排除も許容され得る。
実は、科学技術が追い求めるものもその本質においては動物と変わりがない。野生動物が寒さをしのいだり安全に子を育てたりするための巣を設けるのと同じように、人間は風雪や外敵を避けるための住居を建設し、冷暖房を導入することで健康を損なうリスクを軽減する。私有財産としての土地は一種の縄張りだ。そして、より栄養価の高い食物を確保して生存可能性を高めるために、土壌や品種の改良を行う。それらの手段は科学技術の発達によって高度化し、他の生物種には当面模倣不可能な水準にまで達した。チンパンジーに高層マンションを建てることはできないし、チーターが新幹線よりも速く走ることは不可能だ。作物の遺伝子組み換えにおいてベクターとして用いられるアグロバクテリウムは自らトウモロコシを育てる力を持たない。
だが、結局のところ生物の本能的行動と人間の科学的営みは手段が異なるのみで、目指す所は同じである。すなわち、いかに生存に関わる欲求を充足させるか。その意味では簡便な巣穴を掘るか、草木からハンガーまでを寄せ集めて構造化された巣を形成するかといった差異を結ぶ線の延長上に高層タワーマンションも位置付けられるだろう。科学技術により自らの生理的欲求の追求を限りなく高水準で行えるようになったという点において、人間は高度に動物化されていっているとも言えるのだ。
だが、人類の「進歩」の歴史は必ずしもより高次の欲望の充足という形でのみ刻まれてきたものではない。むしろ、17世紀における科学革命やそれに次ぐ産業革命によって社会生活に飛躍的な革新がもたらされるまで、技術が満たすことのできる人々の欲求は緩やかに、穏やかにしか増えはしなかった。王侯貴族とて病気になったとしても高度な医療が受けられるわけではなく、迷信に基づいた怪しげな処置によって病状を悪化させ死に至ることも少なくはなかっただろう。何せ、当時はまだ病原菌なるものの存在が発見されていなかったのだ。食料については、じゃがいもや占城稲のように新たな農作物が異国の地から導入されることで、従来は耕作に不適とされた土地や季節における生産が可能になり、その分だけ供給量が増加するといったことは起こり得た。ただ、化学肥料のように単位面積当たりの収量を劇的に向上させるような手段は無く、食品保管のための冷蔵施設や加工技術、遠隔地に食料を融通するための供給網といったものも整備されていなかった。ゆえに、災害や気候変動が生じれば即座に飢饉が到来し、多くの人の命が失われた。
生への欲求を不意に断ち切られ得る世界で生きることは、人類にその不条理を受け入れるための精神文化の形成を促した。突如として訪れる親しい人の死を解釈するために、人々は神の意思を見出してみたり、万物の流転という物語を形成してみたりした。あるいは、生まれた時から宿命付けられた身分や貧富の差を精神的に超克するために、貧しさの中に楽しみや明るさを生み出すための諧謔を育んできた。そうした精神的活動を束ね上げることで「人間とは何か」、「人間はいかに生きるべきなのか」といった哲学や思想が形成されていく。生が必ずしも死よりも望ましいものとは限らない、経済的な成功は人生における幸福と常に一致するものではないといった洞察は、生きることや豊かになることが困難な社会であるからこそ生まれ得るものではなかったか。
知の探究の歩みが緩やかであった時代には、物質的・身体的な欲求と現実との落差を埋めるための精神文化が育まれていった。しかし、知の膨張速度が人間精神の成長をはるかに凌駕するとき、俺達はどこまでも追求可能な知と欲望の拡大に遅れまいと血眼になり、科学技術と物質的な豊かさを必死で追い求めるようになる。その傍らで、人間の欲望に疑義を投げ掛け、「非合理性」に囚われているようにも見える精神文化は顧みられず捨て置かれていく。無知は社会的成功の障害である。社会における落伍は即、健康で文化的な最低限度の生活を危機に晒す。そんな世の中で人の道とやらを問うたり、精神的な豊かさに安息を求めたりすることは難しい。疫病や災害がただ受け入れるしかない現実であった時代には、内省や祈りは救いであり得ただろう。だが、技術の革新により、生存は経済力や能力によって確保されるべきものになってしまった。それは逆に言えば、貧しさや無能さと共に生まれ落ち、そこから抜け出せないような人間は生存権を奪われてもやむ無しとする世界を肯定することにも繋がり得る。
だが、科学や実証研究を偏重する知の膨張は、これまで述べてきたようにどこかで限界を迎えるはずだ。必要とされる知識が激増するにつれ、専門家が他の学問分野についても造詣を深めることは難しくなる。まして、非科学的な精神文化を顧みることはさらに困難になるだろう。
その結果、知の暴走は一層止め難くなる。ある技術を突き詰めていくほどに、それが他の領域に及ぼし得る影響を予見することは限りなく不可能に近付いていく。あるいは、拠って立つべき人間存在への洞察や倫理観の成熟を抜きにしては、技術によって激しく牽引される社会を律するための法整備もままならない。自制と自省とを欠いた科学の野放図な発展は、30年後なのか300年後なのかはわからないが、確実に世界を破綻させるだろう。
そうは言っても、いわゆるSTEM教育への傾斜は世界的な潮流だ。そこに力を入れなければ知の膨張に取り残され、国際競争の中で自国民の豊かさや生存が危機に晒されるのは必定である。
実のところ、この構造は軍拡競争に似てはいないだろうか。特に、人類が抱えてしまった核兵器開発を巡る競争にだ。核保有国は制御を誤れば地球ごと滅亡させてしまえるような技術を持て余しつつ、その争いから一歩引いてしまえば途端に地政学的な劣位に置かれてしまう状況に陥り、文字通り爆弾を抱えたまま身動きが取れずにいる。
核開発についてはまだしも核拡散防止条約が締結され、限定された国家にのみ軍事的優位を認めるという歪な形ながらも一定の歯止めがかけられた。核兵器禁止条約の発効に象徴されるように、非核化を望む声は国際社会において確実に共有されてもいる。しかし、知の膨張についてはそうではない。それはいずれ、核兵器などという前時代的な技術を用いずとも他国の社会を寸断し崩壊させ得るような手段を生み出していくことが予想されるにもかかわらずだ。
今、人類に求められているのは、核軍拡競争への反省に基づいて知の膨張の制御を試みることではないだろうか。STEM教育には既にArt、すなわち「芸術」が加えられSTEAM教育と称されることが一般的になっている。その背景には科学技術の偏重が人間社会にもたらしかねない災厄への意識、およびそれを抑止し得る人文科学の重要性への認識が存在するはずだ。
残念ながら、上述の懸念や教育における潮流にもかかわらず、人文科学への社会的評価は低下の一途を辿っている。それは正しく「儲からない」あるいは「役に立たない」とみなされているからだ。
逆に言おうではないか。人文科学は「儲からない」からこそ、「役に立たない」からこそ必要なのである。それは人間の物質的・動物的欲求をひたすらに満たそうとする「野蛮な」性向を抑え込むための枷なのだから。
知の縮減という言葉の響きは、人間の「進歩」を拒む前近代性、あるいは蒙昧さを想起させるかもしれない。だが、実際には逆ではないのか。俺達の言う「進歩」とは欲望の充足や生存を第一義とし、それに伴う環境コストや周囲の人間との調和を顧みない、精神的な「野蛮さ」への回帰を意味しているとも考えられる。
自然科学の発展を追求するための知が縮減されたとしても、その空白は人文科学的な知の発展によって埋め合わせられるであろう。そして、そうした精神文化こそが「人類」なる種を特徴づけ、発展させてきた「進歩」の本質ではなかったか。
もちろん、科学によって病気や死が遠ざけられたこと自体は、生物としての人間にとって歓迎すべきことではある。もはや俺達の生存にとって欠かせない文明を放棄すべきだとは思わない。
だが、ここから先の世界で予測されるのは知と精神の乖離である。それほどまでに知の膨張は凄まじく、他方、人間精神の発展は閑却され後退の危機に瀕している。ここは、精神文化の成熟が現代の技術や知を扱うにふさわしい水準に追いつくまで、知の膨張速度を一旦緩めるべきなのではなかろうか。
ただ、知の歩みにブレーキをかけるには人類全体の協調が必要だ。その意味でも知の拡大は核軍拡競争に酷似している。科学技術、特に人類をより苛烈な競争へと駆り立てるための技術に関わる知の追求は何らかの国際的な組織の管理下に置かれるべきだろう。そして、自然科学へと過剰に配分された人間の認知能力は、知の拡大を制御する指針の拠り所となる人間存在への洞察、あるいは倫理や社会通念の再構築といった分野に振り向けられるべきではないか。
