小説イエス【第63章 問いを共にする者】
【第63章 問いを共にする者】
夜更け、
書写室の灯はすでに落ち、
兄弟たちは皆、
寝床に戻っていた。
それでもイエスは机に残り、
羊皮紙の余白を、
指で静かになぞっていた。
昼の言葉が、
まだ胸の奥で燻っている。
その背に、
小さな足音が近づいた。
振り返ると、
ヨハネが白衣を胸に抱え、
声を落として立っていた。
「イエス。
今日のことを、
重く受け止めすぎるな。」
イエスは、
しばらくしてから答えた。
「分かっている。
師は、
掟を守る役を負っている。
疑問を許せば、
秩序が崩れることも。」
ヨハネは、
ゆっくりと頷いた。
「だから、
ああ言うしかないのだ。」
イエスは、
息を吐いた。
「それでも、
どうしても
納得できない。」
机の上に置かれた、
何も書かれていない羊皮紙を
見つめながら、
言葉を続ける。
「祝福が、
律法を守る者にだけ
与えられるなら、
文字を知らぬ民は、
初めから
外に置かれているのか。」
「飢えに泣く子どもたちに、
父は――
何も語らないまま
なのか。」
ヨハネは答えなかった。
灯の消えた机に腰を下ろし、
闇の中で、
しばらく沈黙した。
やがて、
低く言った。
「……おまえの問いは、
鋭い。」
「だが、
ここで口にするには、
まだ早い。」
一拍、置いてから、
続ける。
「それでも私は、
おまえの言葉に、
光のようなものを
感じている。」
イエスは、
顔を上げた。
「光?」
「律法は、
道を示す。」
ヨハネは静かに言った。
「だが、
道の外にも、
父は
おられるのかもしれない。」
「私は、
まだ分からない。
だが――」
ヨハネは、
イエスを
真っ直ぐに見た。
「おまえの問いは、
反逆ではない。」
「それは、
父を探している
声だ。」
二人は黙り、
荒野を渡る
風の音に
耳を澄ませた。
遠くで、
死海の水面が
かすかに光り、
星々が、
動かぬまま
瞬いている。
「ヨハネ……」
イエスは、
ほとんど
祈りのように
呟いた。
「もし、
父が
律法を超えて
在るのなら、
私たちは、
どう生きれば
いいのだろう。」
ヨハネは、
微かに
口元を緩めた。
「それを
探すために、
私たちは、
ここにいるのだろう。」
「沈黙の中でも、
問いを
手放すな。」
「問いは――
祈りになる。」
二人の声は、
やがて消え、
夜の荒野に
溶けていった。
だが、
その夜の沈黙は、
イエスの内に
確かな灯として
残った。
まだ
燃え上がらない。
だが、
消えることのない
灯として。
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