22_動揺する唐揚げ
「香菜、大丈夫か?」
菖蒲さんが横に立っていたことにも、私は気づいていなかった。
はっと我に返り、菖蒲さんを一瞥する。
「うん。大丈夫」
「本当か? 昨日帰ってきてから、ずっと心ここにあらずだぞ。何かあったのか?」
私は首を振った。
達也と風間さんが相合傘をして歩いていく様子が、脳裏にこびりついて離れない。追いかけて声をかけてもよかったけれど、私の足は、前には動かなかった。
二人の姿が、中学生の時に見た一緒に校門を出ていく後ろ姿と重なった。胸が苦しい。
昨日は突然、店を閉めてしまった。
流石に、今日も開けない訳にはいかない。
いずれにしても、二人の関係性がわからない以上、いくら考えても答えは出ない。聞いた方が早いことは、私にもわかってるけれど──。
「今日のメニューは何だ?」
菖蒲さんが、気を遣ってくれているのがわかる。こういう時、そばに誰かがいてくれるのはありがたい。
「今日はね、鯵の南蛮漬けと、豚しゃぶのサラダと、茄子の揚げ浸しの蕎麦だよ。もうすぐ梅雨明けだし、さっぱりしたのがいいかなと思って」
「うまそうだな。ネギ抜きはあるか?」
「じゃあ、鯵の南蛮漬け、菖蒲さん用にネギ抜きにしようか?」
菖蒲さんの頬が、むにっと持ち上がる。
「うん。それがいい」
副菜は厚揚げのステーキに、枝豆のペペロンチーノ。味噌汁は、新玉ねぎとわかめ。相変わらず厨房は静かなままだ。耳を澄ませても、油の弾ける音と、湯が湧く音しかしない。やっぱり寂しい。どうやったら、またあの特殊能力を取り戻せるのか。
「菖蒲さん、聞いてもいい?」
横で枝豆を塩もみしている菖蒲さんに、声をかけた。
「なんだ?」
「あのさ。私、前は食材の声が聞こえてたんだよね。特殊能力みたいな。それが急に聞こえなくなっちゃって。また聞こえるようになるには、どうしたらいいと思う? 能力がなくなっちゃったのかなぁ」
菖蒲さんは、私をじっと見つめた。
「そんなことは、私には分からん」
「だよねぇ」
私は鼻から息を吐いた。
「ただ、その能力が“なくなった“ということではないと思う。香菜は人ではないものが見えたりする。本質的に“そういうもの“を捉える能力が高いのだと、私は思う。私に比べれば人間の一生は短いが、空が毎日晴れていないように、雨の日だってあると思うぞ。そういう時に踏ん張った人間が、芽を出すところを、私は何度も見てきた」
菖蒲さんのエールは、萎れていた心に水が撒かれたようだった。しなしなのレタスをお湯に浸したら、不思議とシャッキリするような。気合いが入る。
「よし、お客さんが来る前に、美味しい料理、作っちゃおう!」
「うむ。その意気だ」
昨日店を閉めた影響か、今日はお客さんが多かった。
「心配しちゃったよ」とか、「あんまり無理しちゃダメだよ」とか、みんな口々に優しい言葉をかけてくれる。
申し訳ないという気持ちと、嬉しい気持ちが一緒くたになって込み上げてきた。
「ありがとうございます。元気だから心配しないでね!」
腕まくりをして、力こぶを作って見せる。
少し照れ隠しの入った力こぶ。
「それでこそ、香菜ちゃん!」なんて言われると、調子に乗りたくなる。けれど、実はカラ元気だ。お客さんがいなくなって、気を抜いた瞬間、達也のことを思い出してしまう。今日もし、達也が店に来たら覚悟を決めて聞いてみよう。とはいえ、最近は忙しいのか、食べに来てくれないけれど。
時計を確認すると、午後八時半を回っていた。
達也が来るならこの時間だろうか。前の会社だったら時間が大体読めたけど、今は達也の生活パターンがよく分からない。
しんと静かな店内に、引き戸が開く音がした。
私は勢いよく、入り口に向き直る。
「稲田くんか〜」
稲田くんはきょとんとした顔をして、店に入ってきた。
「誰か待ってたんですか? 僕ですみません」
私は顔の前で、手を振った。
「違うの。ごめんごめん」
稲田くんは目を細めた。
「別に怒ってないですよ」
「今日は何にする? やっぱり唐揚げ?」
「二日にいっぺんは香菜さんの唐揚げを食べないと、落ち着かない体になっちゃいました」
稲田くんはにっこりと笑った。
厨房に戻り、下味のついたもも肉に片栗粉をたっぷりまぶす。揚油にゆっくりと滑り入れて、揚げていく。
厨房の隅に置いていた携帯電話が、突然、鳴った。
有沙かもしれない、と手に取る。達也のことを相談していたから、その件かもしれない。
画面に表示された名前を見て、心臓が跳ねた。
「達也?」
慌てて画面を開く。
── 最近忙しくって、しばらくみずたまには行けないかも。ごめんな。展望台に行く日は、都合がついたら連絡する。何かあったら、すぐに連絡していいから。
返信はせずに、画面を閉じた。
本当に忙しいだけなのだろうか。黒い想像が、頭の中を渦巻いた。その時、厨房の隅の椅子で丸まって寝ていた黒猫姿の菖蒲さんが、椅子から私に向かって飛び降りた。
「わっ」と声を上げる。
菖蒲さんが「にゃあ」とドスの効いた低い声で、私を睨みつけた。
すんと鼻を啜る。焦げ臭い匂いに、顔が歪んだ。
私は慌てて、唐揚げを揚げていた鍋に駆け寄った。鍋を覗く。いつもはきつね色の唐揚げが、どす黒く染まっていた。私はすぐに火を止めた。鍋を火からおろし、唐揚げを取り出す。深く息を吐いた。
「大丈夫ですか?」
稲田くんが眉を下げながら、厨房を覗き込む。
私は顔を上げて、口をへの字にした。
「大丈夫。ごめんね。考え事してたら、焦がしちゃった。すぐに作り直すね。時間、大丈夫?」
「僕は全然大丈夫ですけど。香菜さん、大丈夫ですか? 火傷とか、してないですか?」
真剣な瞳に、申し訳ない気持ちが込み上げた。
歯を見せて、キュッと口角を上げる。
「心配かけちゃってごめんね! すぐに作るね!」
稲田くんはちょっと困ったように笑うと、「美味しい唐揚げ、待ってますね」とテーブルに戻った。
気合いを入れて作り直す。さっきより多めに鶏肉を鍋に入れた。じゅわじゅわと唐揚げが音を立てる。唐揚げの声は聞こえないけど、音と色が変わっていくのを見逃さないように集中した。薄く色づいたら一旦、バットにあげる。
その間に、ごはんとお味噌汁、小鉢とキャベツの千切りの用意をした。唐揚げの熱が落ち着いたタイミングで、油の温度を上げて、二度揚げだ。唐揚げが美味しそうなきつね色に色づいたところで、再びバットにあげた。箸で摘むと、表面がカリッと揚がっているのがわかる。
お盆に乗せて、稲田くんのテーブルに運んだ。
「え? 多くないですか?」
「お待たせしたサービスです」
「ありがとうございます」
稲田くんは手を合わせて「いただきます」と頭を下げると、すぐに箸を持って、大きな口で唐揚げを頬張った。
「んー! やっぱり、うまいっ」
目を一文字にして舌鼓を打つなんとも言えない稲田くんの表情に、思わず頬が綻ぶ。
稲田くんはわしわしとご飯を噛み砕き、ずずっと味噌汁を啜った。
「いい食べっぷりだね」
「腹減ってたんですよ。今日は片付けしてて、昼飯食い損なったんで」
「片付け?」
食器を洗っていた手を止める。
「ふぁい。今日で会社、やめたんです」
私は目を見開いた。
「早くない?」
「何事も、勢いが大事かなって。最近、狐に取り憑かれたりとか不思議なこともあったし、世の中、何でもありかなって」
稲田くんの喉仏が動いた。
コップに入った水を、グビっと飲む。
「確かに。勢いって大事だよね」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。
「そうですよ。勢いって大事です」
稲田くんは自分に言い聞かせるようにそう言うと、頭を大きく動かして私を見る。
私と稲田くんの視線が交差した。
稲田くんはその場ですっくと立ち上がった。
「今日は香菜さんに伝えたいことがあって、ご飯食べに来たんです」
真剣な眼差しを向けられて、私は稲田くんから視線が逸らせない。謎の緊張感に、心臓が早鐘を打つ。
「伝えたいことって?」
稲田くんの息を吸う音が、沈黙を破った。
「僕、── 香菜さんが好きです」
次回予告 23_意気投合する唐揚げ
まさか稲田くんに告白されるなんて!
まだ、ドキドキしてる!
