03_にぎやかなイワシのトマト煮
「願うんじゃなくて行動しなきゃ、神様はお願いを叶えてくれないよ」
母の声が、雨に混じって落ちてきた。お店のことじゃなくて、恋のお願いを神頼みする娘のことを、母ならきっと、こう言って笑ってくれるはず。
店の近くの小さな神社に、私は毎日、足を運ぶ。愛宕神社は火の神様が氏神様で、定食屋を営む者としてご挨拶は当然と、母は足繁く通っていた。いつだって私は、母の背中を追いかけている。
足元に生暖かいものが絡みついた。私は自分の足元を一瞥する。
「最近、よく会うねぇ」
黒猫が、ニャアと鳴いた。
「はいはい」
私は、ポケットからいりこを無造作に取り出す。手のひらにいくつかのせて、黒猫に差し出した。
「それにしても、お前はどこからきたのかねぇ。首輪はついてないけど、人懐こいし綺麗だし。ここにいて大丈夫なの? 心配してる人がいるなら、ちゃんとおうちに帰らなきゃダメだよ」
無言で私を見つめる黒猫を置いて、私は自転車にまたがる。黒猫の無言の圧力。私の言葉も行動も、見透かされているようで、ちょっと怖い。ガシャと車輪が鳴った。一度降りて鍵を確認する。ささっていたはずの鍵がない。
「あれ? 鍵抜いたっけ」
いつもはつけっぱなしの鍵を、今日は無意識に抜いてしまったらしい。ポケットをまさぐる。出てくるのはいりこだけ。ふんと鼻から息を吐いた。前カゴに入れていたバッグを右手で握る。
「うわ、重た。缶詰だらけの日に限って……」
重たい荷物を抱え店に戻る。裏口から入り、一呼吸置いた。たかだか五分の距離が、地獄だった。雨は降るし、肩は重い。私の肩を身体から引き離そうとするエコバッグを、厨房の流し台の上に置く。缶詰とシンクの金属音が頭に響いた。この重たさの向こう側に、お客さんの笑顔がある。
シャワーを浴びて、エプロンを締めた。トマトの缶詰とイワシの水煮を鍋に出す。オリーブオイルと醤油、少しの砂糖を加えて火にかけた。溶岩のようにボコボコとトマトが声をあげる。
「お〜い。香菜ちゃん、鍋から飛び出しちゃうぞ〜」
「あ、ごめんごめん」
ツマミをひねり、弱火に調整する。一瞬、火が消えた。舌打ちをして再び着火のために、ツマミをひねる。古い設備は、この手間が煩わしい。鍋が程よい温度になると、トマトとイワシがハーモニーを奏ではじめた。「いい湯だな〜」「ほぇ〜気持ちいい〜」。こちらの力が抜けてしまうような間の抜けた歌声に、私は思わず吹き出してしまう。煮物の最適温度は、具材が歌い出す温度。
煮詰まったところで、お玉でスープをすくう。小皿に乗せてずずっと味見した。トマトの酸味とイワシのコクが抜群に合う。小鉢で洋食を味わえると、好評の副菜だ。
「香菜ちゃん、麺ひとつ」
「は〜い。炭水化物食べていいの? おじさん」
入ってくるなり、今日のメニューも聞かずに注文する山本のおじさんに、私は軽口を叩いた。
「香菜ちゃん、それはないよ〜。みずたまで麺をすする時間が、おじさんの至福の時なのにさ」
「冗談だって」
私が焼きうどんを調理している間、山本のおじさんと小林工務店の小林さんが会話を始めた。私はうどんの焼き加減に耳をそばだてつつ、おじさんたちの会話に聞き耳を立てる。
「── え?本当に?」
「そうなんだよ。まさか、買収の話ついでに、うちに仕事持ってくる? 信じられなかったね。変な男だよあれは。『値段も相場より高く買い取ります。それに、マンション開発の発注までします』だってよ。そんな都合のいい話、あるわけないでしょ。うちみたいな小さい工務店にさ」
「で、どうしたのよ」
ただでさえ悪人面の小林さんが、意味ありげな笑みを浮かべる。
「手に持ってたノコギリ、振り上げちゃったよ」
「悪いね〜。驚いて逃げたんじゃないの?」
小林さんは、首を振った。
「それがさ、動じないの。『あ、お仕事の忙しい時間帯に申し訳ございませんでした。またお伺いいたします』って名刺置いてったわけ。稲田寿史って書いてあったかな。あんだけ肝が座ってたら、ちょっと売ってもいいかなって気になるよね。売らないけど」
「こばやっちゃん、好きだよね。そういう男」
小林さんは、首に手を当ててへへと笑った。
「お待たせしました〜。焼きうどんとアジフライです」
料理を運ぶと、おじさんたちは二人揃って私に真剣な目を向けた。
「香菜ちゃん、なんかあったらちゃんと相談してよ。狐は骨太っぽいから」
骨太の狐を想像して、楽しくなる。マッチョな狐が繰り返し「家を売れ」と言ってきたら、間違いなく売る気がする。
「わかった」
私は吹き出した。
山本のおじさんが、何かを思い出したように目をまん丸にする。
「あ、そうだ、香菜ちゃん。自転車の鍵、神社には落ちてなかったんだよ。ごめんね〜。また探してみるから。とりあえず、自転車はそのままうちに置いといていいからね」
「ありがとう、おじさん。何かあったら相談するね。自転車の鍵も自分で探してみる」
昼の時間帯は、近所の人達が食べに来るのでそれなりに忙しい。愛宕神社の山本のおじさんに工務店の小林さん。変な場所にあるコンビニの店長グエンさんや、職業も年齢も不詳、ロングヘアの女性、音無さん。みんな優しいので、お皿を下げるのを手伝ったりもしてくれる。一人でもやれている気がするけれど、母の築いてきた信頼の上に成り立っているのだと実感せざるを得ない。それがどうにも悔しい。
しかし、自転車の鍵はどこへ行ったのか。
今の私の頭のほとんどを占めているのは、達也の誕生日のことだ。素敵にお祝いしてあげたい。そして、いい感じの雰囲気に持っていって、今年こそは告白までこぎ着けたい。まさか無意識に鍵を外してしまうくらいに、達也のことを考えていたとは、自分でも驚きだけど。
スペアキーがあるから、鍵のことは問題ない。でも、鍵につけていたリボンのことが気になった。母が、着なくなった着物の生地で作ってくれたリボン。淡い青緑にピンクの花柄が気に入っていたのに。店を売ろうなんて考えた私を、母が突き放したようで、胸が痛い。絶対に見つけたい。
そんなことを考えつつも、雨の中鍵を探しに行くのが面倒で、昼の営業が終わると母屋の畳の上で寝転んだ。達也への誕生日プレゼントが決まらない。ネクタイとか財布は重たい気がする。消え物なら達也の好きなクラフトビール関連がいいだろう。でも意識はして欲しい。人気温泉宿の宿泊券で攻めてみる? いやいや、そんなの絶対に無理。
ぐだぐだしていると、夜の営業時間になっていた。
夜のみずたま亭は賑やかで、でっぷりしたお腹の綿貫さんが満腹になるまで酒を飲み、三丁目の鈴木さんがアジフライを美味しそうにかじる。町内会の根津会長は、茗荷とピクルスでちびりちびりと飲んでいた。
時計を確認した。時刻は夜八時。営業時間は九時で終了だ。夜の時間帯は、パラパラと人が帰っていく。その都度、店の外に出てお見送り。今日はしとしとと雨が降り続けていた。
厨房で、残った食材を確認する。
イワシのトマト煮の鍋を一瞥した。形の整ったイワシはそこにはなく、煮崩れた端切れがトマトの海に沈んでいるようだった。
「これはお客さんには出せないな」
口の中に唾液が広がる。私は、コンロのツマミを捻った。カチリと音がして、ぼわっと火が出る。鍋底から熱されて、沈んでいたイワシがトマトと仲良く踊り出す。陽気なイワシにつられて、料理のアイデアが頭に浮かんだ。もし店を続けていくなら、私オリジナルのメニューも増やしていきたい。
その時、誰かが戸を叩く音がした。
戸の向こう側で、人影がゆらりと揺れている。常連さんなら戸を開けて入ってくるはずだ。
誰もいない時に戸を鳴らされると、自ずと肩に力が入る。しつこく鳴る戸の音が、静かな店内の空気を、不躾に割った。
次回予告 04_大人びたラザニア
鍵が見つからないことが、どうにも心に引っかかったままで、気持ちが悪い。思いついた賄い料理を作っている時に訪れたのは、初めてのお客様で……。
