02_恋する唐揚げ
「一人分……?」
「一人分……です」
松原さんは目尻に皺を寄せて、カラッと笑う。
「量が多いから驚いちゃった。一人じゃ食べられそうにないから、香菜ちゃん、一緒に食べない?」
取り皿と瓶ビール、そしてグラスを二つ用意し、松原さんの前に座る。
「すみません。図々しく、私も呼ばれちゃって」
「こちらこそ、突然来ちゃってごめんなさいね。香菜ちゃんともっとお話ししてみたかったし、無理言っちゃって」
「今日はひどい雨で、お客さんもいなかったので、暇してたんです。お話できて嬉しいです」
「それなら、飲みませんか?」と誘ってみたところ、松原さんは二つ返事で了承した。酒の勢いで、何か聞き出せるかもしれない。
「やっぱり一杯目はビールよね」
グラスにビールを注ぐと、白い泡がぶわわとビールの気泡を包み込む。その様子を見た瞬間、ゴクリと喉が鳴った。
「じゃあ、今日という素敵な日に乾杯」
「乾杯」
私がクイッっと、ビールグラスを空にすると、「いい飲みっぷりね」と松原さんもグラスを空にした。
「この唐揚げ、もしかしてお母さんのレシピ?」
「はい」
「と言うことは、私のレシピかしら?」
「その通りです。ちょっと、緊張しちゃうな」
「ではでは」と松原さんは唐揚げを頬張った。ガリッと香ばしい音がする。松原さんは、「んー」と声にならない声をあげて、幸せそうに目を閉じた。
「これこれ!焼き肉のタレ、ちゃんと入ってる。噛んだ瞬間に鶏の肉汁が口の中に広がって、幸せに包まれる感じ。香菜ちゃん、揚げるの上手ね。タイミングが最高よ。お母さんの教え方が上手なのね」
急に褒められて、思わず笑顔がこぼれ落ちた。すごく嬉しい。心が弾ける。
こんな風に、自分の料理を「美味しい」以外の表現で褒められたことがあっただろうか。目頭が熱くなった。それと同時に、ざらりとした感情が逆立つ。もちろん母に料理は教わったけれど、“お母さんの教え方が上手なのね“の一言で、私の努力が蔑ろにされた気がした。顔の筋肉が緊張して、笑顔が徐々に引きつっていくのが分かる。無理やり口角を上げた。
「ありがとうございます。松原さんの唐揚げ、うちの定番なんです。定食は日替わりでなんですけど、それとは別に唐揚げは毎日作っていて。女将さんに食べてもらえるなんて、ちょっと感動です」
隠し味に気づくなら、間違いなく本物の女将さんだろう。これは、母のレシピである前に、松原さんのレシピなのだ。私も、唐揚げを箸で摘む。
「こちらこそ、自分のレシピがこうやって誰かに引き継がれているなんて、込み上げるものがあるわね。今日は本当に来てよかった。鈴菜ちゃんも浩介くんも、うちの唐揚げ大好きだったもの」
浩介とは、父の名だ。私は箸で摘んでいた唐揚げをポロリと落とした。生前の父の話を聞く機会など、滅多にない。思わず前のめりになる。
「そうだ!女将さんは父もご存知なんですよね。女将さんの居酒屋で、父と母は出会ったと聞きました 」
松原さんは、懐かしそうに遠くを見た。
「香菜ちゃんのお父さんとお母さん、すごく仲が良かったのよ。いつもカウンター越しに『それどうやって作るんですか』とか、『コツを教えてください』とか熱心で。どちらかと言えば、浩介くんの方が、料理が好きだったみたいだけど」
私はてっきり、母が料理好きで店を開いたと思っていた。思い返せば、店を始めた経緯は聞いたことがない。
「浩介くんって面白い子でね。たまに私が接客で忙しくしてるじゃない? そしたら、『女将さん、唐揚げが悲鳴あげてます! 早くあげてください』って大声で私を呼ぶのよ。まるで唐揚げが生きてるみたいに話してて。私、思わず吹き出しちゃった」
私は目を大きく見開いた。もしかすると父も私と同じように、食べ物の声が聞こえていたのだろうか。自分だけの特殊能力だと思っていたものに遺伝の可能性を感じ、少し残念な気持ちになる。
「浩介くんが早くに亡くなって、鈴菜ちゃんが店を始めたと聞いた時は、本当にびっくりしたのよ。うちで一緒に働かないかって声をかけたんだけど、鈴菜ちゃん、絶対に首を縦に振らなくて。二人で選んだ店で、一人でもちゃんと店をやりたいんだって言ってたわ。狐が来た時は、ちょっと大変そうだったけど」
母の想いを耳にして、鼻の奥がツンとした。朝早くから厨房に立つ母の背中を思い出す。母を厨房に立たせていたのは、母一人の想いではなかったのか。あの丸まった背中に、今なら素直に抱きつける気がした。
その時、空が轟いた。黒猫が再び私に擦り寄る。
「あら、時間みたい」
松原さんは、すっくと立ち上がる。
「え? まだ雨ひどいですよ? 唐揚げもたくさん残っているし。持って帰られませんか?」
松原さんは首を振った。
「ごめんなさい。せっかくだけど、あちらでは人の食べ物は、砂を噛むような味しかしないのよね。20年振りに、この世の食べ物が食べられて嬉しかった。これからも、唐揚げよろしくね」
松原さんは引き戸に手をかけた。
「あら、建て付けが悪いわね」
一言こぼすと、足でぽんと扉を蹴ってから、引き戸を開ける。
「あ、香菜ちゃん。忘れるところだった。もし伝えられたらって、お母さんから伝言を言付かってたの。お店のことありがとう。それと、なんだったかしら。狐には気をつけなさいって言ってたような」
── 伝言? 狐?
頭の中にいろんな言葉が渦巻き始めたその瞬間、爆音が鳴った。異様な数の稲光に、私は目と耳を塞ぐ。次にまぶたを開けた瞬間、松原さんの姿は忽然と消えていた。
「── なに、今の」
店の外に出て、辺りを見渡す。人通りの少ない夜の住宅街は、水を打ったような静けさだった。ざわつく胸を抱えながら店内に戻る。いつものように、力を込めて引き戸を閉めた。拍子抜けするほど引き戸は軽くなっていて、音もなく閉まる。
呆然としながら、がらんとした店内を見回した。空になったグラスと、泡の消えたビールグラスが一つずつ。二つとも、空だったはず。
全身が粟立った。
黒猫はまるでなにかに警戒するかのように、じっと引き戸を見つめ、シッポをピンと立てている。敵意を向けるように、黒猫はすりガラスの向こう側を威嚇した。
一瞬、誰かが通り過ぎる。松原さんより背が高い。死んだ魚のように、私の体は硬直して動かなくなった。
音もなく、戸が開いた。
心臓が跳ねる。
「香菜、まだやってる?」
「達也?!」
「何? そんなにびっくりして」
目をまん丸にした私の顔を見て、達也はぷっと吹き出した。
「いやだって……」
私の声を遮って、達也は手に持っていた四角い名刺を、私に差し出した。
「これ、店の前に落ちてたんだけど」
「秋常不動産 営業 稲田寿史? 誰これ?」
「店に来たわけじゃないんだ? 店の前に落ちてたから、てっきり最近噂になってる、不動産業者が来たのかと思った」
私はふるふると首を振った。
「来てない。でも、家の前に落ちてたってことは、うちに用事があったってことかな?」
「道路の真ん中あたりだったし、違うかもしれないけど。香菜がみずたま亭を売るわけないのにな。来ても無駄なのに。俺、こまめに食べにくるようにしようか? 心配だし。何かあったら、遠慮なく連絡していいから」
ふぅと息を吐く。硬直した体が溶けていく。
「── ありがとう。今日は何か食べてく?」
「もちろん。やっぱり唐揚げでしょ」
達也は眉毛をぴくりと動かした。
「あれ、もう用意してくれてたんだ。ビールまで置いてあるし。俺が来るの、わかってた?」
さっきまで松原さんの座っていた席に、達也はどかっと座る。
達也のスーツを一瞥し、違和感を感じた。肌触りの良さそうなスーツは、水に浸す前の生春巻きの皮みたいに、しっかり乾燥している。
「あれ? 濡れてないね」
「え? なんで?」
「だって、すごい雨だったでしょ? 雷もやばかったし」
達也は首を傾げた。
「雨? 降ってないけど……。どうした、香菜。疲れてんの?」
私の顔を覗き込む。達也が私を見つめている。
「ん。大丈夫」
いつもなら嬉しいシチュエーションなのに、女将さんの残していった言葉が、頭の隅をチラついて落ち着かない。
「なんかあったら、ちゃんと相談しろよ。ほら、唐揚げ食べよう。腹減った」
達也は泡の消えたビールを、一気に飲み干した。
「あ、香菜、もう飲んでるじゃん。仕事中に飲酒ですか?」
「もう店じまいしたし!」
いたずらっぽく笑う達也に、私は口を尖らせた。
「なんだ、元気じゃん」
達也が私の頭をポンポンっと叩く。不意な接触に、心の中で春の白魚が急に暴れだした。
「もう、子どもじゃないんだからやめてよね」
私は自分の手で頭を抑えながら、達也の手の余韻を味わう。
今から唐揚げをつまみに二人でお酒を飲むとか、最高のシチュエーション過ぎる。このまま幼馴染の距離から、一歩近づきたいところだけど。
「ビール持ってくる」
私は「秋常不動産」の名刺を手に取ると、厨房に向かう。名刺をこっそり、引き出しにしまった。音を立てないようにゆっくりと引き出しを閉める。
電気がバチッと一瞬消えて、再びついた。ため息を吐きながら、私はシミだらけの天井を見つめる。こういうところも、店を売りたくなる原因の一つだ。
罪悪感だろうか。こちらをじっと見る黒猫の視線が、痛い。右手が少し震えていた。
次回予告 03_にぎやかなイワシのトマト煮
捨てればいいだけの稲田の名刺を、私はなんでしまったんだろう。黒猫の視線が、私の気持ちを見透かしているような気がしてしまう。稲田は、みずたま亭以外にも、いろんなところに声をかけていて……。
