10_笑う煮込みハンバーグ
「一人?」
男の子は、小さく頷いた。
「お母さんか、お父さんは?」
ふるふると首を横に振る。
「お子さまランチは煮込みハンバーグだけど、大丈夫?」
私が尋ねると、「うん。だってボク、みずたまの煮込みハンバーグ、大好きだもん」と、男の子は笑った。
男の子の瞳をじっと見つめる。黒い髪によく合うイカ墨のような漆黒の瞳は、吸い込まれそうでどこか怖い。私は、ごくりと唾を呑んだ。
「お名前、聞いてもいい?」
「ユーリ」
名前を聞いてみたものの、誰かは思い出せない。
「ユーリくんね。何歳?」
「6さい」
「一人でごはん食べに来るってすごいね」
「ずっと来たかったんだ」
私はユーリくんを席に案内した。ユーリくんは、お行儀よく席に座る。終始笑顔で、私から目線を外さない。宙に浮かぶ足をぶらぶらとさせる姿は、普通の子どもと何も変わらない。
私は再び厨房に戻る。鍋のハンバーグは程よい温度に冷めていた。お子様ランチ用のハンバーグを皿に乗せる。お子様ランチはワンプレートだ。大きな平皿に、所狭しと料理を乗せていく。ごはんにグリル野菜、目玉焼きにサラダ。
「お待たせしました。おなかすいたよね」
ユーリくんは、目の前に置かれたお子様ランチに目を輝かせた。吸い込まれるような黒い瞳に、キラリと光が宿る。
「おはしとスプーン、どっちがいい?」
「ユーリ、おはし、上手に使えるよ」
ユーリくんは、小さな手で箸を握り大きな口を開けて、ハンバーグを頬張った。
「みずたまのハンバーグ、やっぱり美味しい! ぼく、大好き!」
ユーリくんは口の端にソースをつけたまま、満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
私もつられて笑顔になる。
「香菜ちゃん、料理上手になったね」
「ユーリくん、うちにきたことあるの?」
「もちろん!香菜ちゃん、ボクのこと覚えてない?」
ユーリくんは、ソースのついた唇をキュッと結ぶ。
どこかで会ったことがある気はするけれど、覚えてはいない。私が答えられずにいると、ユーリくんは瞳の奥に寂しげな影を落としたまま、二口目に取り掛かった。
「はぁ。美味しかった!」
気づくとユーリくんのお皿は綺麗に空になっている。舌で口元のソースを舐めとるユーリくんは、少し物足りなさそうに見えた。
「おかわりする?」
「え? いいの?」
「もちろん!」
私が大きな平皿を手に取ろうとすると、ユーリくんが小さな手でお皿の端をキュッと握る。
「ユーリ、お皿、運べるよ」
「じゃあ、持ってきてもらおうかな」
ユーリくんは厨房に入ると、体を弾ませた。
「珍しい?」
「ううん。懐かしい」
頭を左右に振ったユーリくんの髪の毛が、さらりとなびいた。
「ちょっとだけあっためるね」
鍋を少しだけ温める。まだ熱が残ってるから、ほんの少しだけ。やっぱりハンバーグの歌声は聞こえない。
くつくつとソースが温まったところで、残り一個だった子ども用のハンバーグをお玉ですくう。
「最後の一個だった!ラッキー!」
私が目を大きく見開くと、ユーリくんも大きく目を見開いて笑った。
「ラッキー!」
記憶のアルバムのページが開く。既視感はあるのに、鮮明には思い出せない。疑問を頭の中に残したまま、嬉しそうにお皿を抱えるユーリくんと席へ戻る。
ハンバーグのおかわりをあっという間に平らげると、ユーリくんはすっくと席を立った。
「香菜ちゃん、ごちそうさまでした!」
「いえいえ、こちらこそありがとうございました」
思い出せない罪悪感が、胸にちくりと刺さる。
ユーリくんはポケットから五百円玉を取り出すと、私の右手に握らせた。ユーリくんの手はひやりと冷たい。
たたっと入口まで走ると、くるりと振り向き、ユーリくんは大きく手を振る。
「香菜ちゃん、バイバイ!」
大きな笑顔を私に向けて、さっと戸を開けた。そのままユーリくんは、店の外に出て行った。
私は誰もいなくなった入口に向かって「バイバイ」と小さく左手を振る。首を傾げながら、少しだけ冷たさの残る右手を開いた。ユーリくんから受けとった五百円硬貨を見つめる。それは、最近はあまり目にしなくなった銀色の白銅貨だった。
「結局あの子、誰だったんだろう」
五百円硬貨をレジにしまった。ぼんやりしていると、達也のお母さんから声をかけられる。
「ねえ、香菜ちゃん」
「あ、おばちゃん、お会計?」
「いや、そうじゃなくてね」
おばちゃんは真っ直ぐに私を見つめて、小さく息を呑んだ。
「ねえ、まだ不思議なお客さん、来てるの?」
「えっ」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「── おばちゃん、何か知ってるの?」
「いや、知ってるも何も、香菜ちゃん、さっき一人で喋ってる時があったから。不思議なお客さん来てるのかなって」
尾てい骨から首元にかけて、冷たい空気が駆け抜ける。やっぱりあの子は、幽霊だったのか。
「おばちゃんには、見えてなかった?男の子」
慣れてきたとは言え、驚きを隠せない。吐き出した声が震えている。
「男の子だったの? 小さい子と話してるんだろうなって言うのは、わかったんだけど。私は全然そういうの見えないから……。実は、香菜ちゃんのお母さんも、よく不思議なお客さんがくるのよ〜って話しててね。そういうお客さんは、大抵、人が少ない時に来るみたいで。私、お客さんが来ない時間に来ることが多いから、たまに遭遇してたらしいんだけど、全く気づかなくって」
おばちゃんは、続けた。
「鈴菜の様子が何かおかしいなって思った時は、黙ってることにしてたの。鈴菜は、何かしら縁がある人も来ることが多いって話してて、不思議なお客さんのことも大事にしてたみたい」
返事をしたいけれど、うまく言葉が出ない。
不思議なお客さんも大事にする母。きっと母にとって、店を続けることは、生活やお金儲けのためだけではなかったのかもしれない。母はどんな気持ちを胸に秘め、父と選んだこの場所で、一人厨房に立っていたのだろうか。
「香菜ちゃん、どんな子だった? 私に教えてくれない? お茶でも飲みましょう」
おばちゃん優しい声が、すとんと私の中に落ちる。
私は、おばちゃんの分と自分の分のお茶を注いで、テーブルについた。
「さっきの子、六歳だって言ってた。髪は黒くてサラサラしてて。どこかで見たことがありそうな気はするんだけど」
「名前は言ってた?」
「ユーリくん。私の名前も知ってたし、煮込みハンバーグを食べに来たって」
おばちゃんは宙を見た。
「あ!悠里くん! 香菜ちゃん、覚えてない? 小さい頃、よく三人で遊んでたのよ。あなたたちの二つ下だったかな。悠里くんのお母さんと鈴菜が同級生でね、よくみずたま亭に遊びに来てたの。あなたたちはまだ小さかったから、悠里くんってちゃんと言えなくて。確か、『ゆり』って呼んでたんじゃなかったかしら」
「ゆり!」
記憶のアルバムがパッと開いた。
「── 女の子かと思ってた」
「香菜ちゃん癖っ毛だから、髪の毛がサラサラの悠里くんに、『ゆりの方が女の子みたいでずるい』ってよく言ってたものね」
おばちゃんが、軽く笑う。そしてお茶を啜る。節目がちにぽつりと、おばちゃんが言葉をこぼした。
「── 小学校に上がる前だったかな。悠里くんとご家族、お出かけ中の事故で亡くなっちゃって」
鼻の奥がツンとした。飲み込んだ温かいお茶が、鼻まで迫り上がってくるのを感じ、唇を噛んだ。
「悠里くんね、煮込みハンバーグが大好きだったのよ。それで今日は、食べに来たのかなぁ。悠里くんが遊びに来る時は、香菜ちゃんのお母さん、必ず煮込みハンバーグをたくさん作ってた。それがお子様ランチの始まりだったかなぁ。三人とも、こぞっておかわりしてて。みんなで空になったお皿を我先にって持っていっては、厨房に並んで。最後の一個の人は、『ラッキー!』って喜んでたの。可愛かったなぁ、みんな。なんか、懐かしいこと思い出しちゃった」
思わず顔を伏せる。
母の店や味を守ってきた意味を、店をやめようとした私が、語ってもいいものだろうか。
おばちゃんは立ち上がると、お盆を厨房に片付けに行った。私は手で目頭を抑えてから、テーブルを拭き上げる。
「あ、香菜ちゃんに聞きたいことがあって。もしかして今日の達也の食事の相手、香菜ちゃんじゃないの? 私、それがずっと気になってて」
おばちゃんは、キラキラした瞳を私に向けた。
私は小さく深呼吸した。
「あ、うん」
おばちゃんが嬉しそうに大きく目を見開いた。
「そうなの? やっぱり! そうじゃないかと思ったのよね。母の勘はやっぱり当たるわね。香菜ちゃん、達也をよろしくね」
おばちゃんは会計をカウンターに置くと、店の戸を開けた。
「あら、すみません!」
戸の向こう側には、長身のスーツのサラリーマンが立っていた。おばちゃんは遠慮がちに一歩、下がる。サラリーマンはおばちゃんの脇をすり抜け、ズカズカと店内に入ってきた。
私には、そのサラリーマンが誰かがすぐに分かった。秋常不動産の稲田だ。
直接見たことはないが、先日見たすりガラス越しの稲田と、背格好が一致している。
「じゃ、香菜ちゃんまた今度」
おばちゃんが手を振った。
「ありがとう」と私も手を振る。
ちらりと横目で店の時計を確認した。時刻は午後一時五十五分を回ったところだ。閉店時刻前なので、稲田が客であれば断ることはできない。
稲田は空いている席に座ると、「きつねうどんください」と低い声で注文した。
次回予告 11_動揺のきつねうどん
土曜のメニューは煮込みハンバーグ定食のみなのに、強引にきつねうどんを注文する秋常不動産の稲田。客だからぞんざいには扱えないし。きつねうどんを運んだ後の稲田の様子が、明らかにおかしい!
