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09_しらけた煮込みハンバーグ

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「あ!」

「どうした? 香菜!」
不意に叫んだ私に、菖蒲さんが声をかける。盗み食いした柿が渋柿だった時のような顔で、私は菖蒲さんを一瞥した。菖蒲さんは、テーブルを拭いていた手を止める。私の表情に合わせるかのように、菖蒲さんの顔の中心にじわじわとシワがよった。

「水玉、ひっくり返しちゃった」

小さく舌を出す。
菖蒲さんは、呆れたようにため息を吐いた。

「慌てて掃除するからだ。達也から晩飯に誘われたと言って、あまりに浮かれすぎだ。朝一番に神棚を掃除しないなんてことは、言語道断」

眉をつり上げている菖蒲さんに向かって、軽く頭を下げる。確かに、間違いなくここ最近の私は浮ついていた。火曜日に達也に食事に誘われてからというもの、土曜日までずっと。浮き足だった私の計量カップの水面はキラキラと輝いていて、私にはメモリが見えなかった。現実に水の量を間違えて、硬すぎるご飯や柔らかすぎるご飯を炊いては、チャーハンやおじやにする日々。

「……ごめんなさい」
「謝る相手が間違っている。神様たちに謝らんか」

菖蒲さんの一言に、目が覚めた。私は姿勢を正すと二度頭を下げ、手を二度叩く。最後にもう一度頭を下げて、三人の神様に深くお詫びをした。
真ん中に天照大御神アマテラスオオミカミ、右手に火産霊神ホムスビ、左手には水波能売神ミズハノメ

深く呼吸をして、倒れた水玉を手に取った。
器の半分が、ずずずと滑る。日頃の重責に耐えられず事切れたように、小さな音を立てて棚に転がった。

「あ……」

一瞬、心臓が止まる。半拍ずれて、再び私の心臓が動き出した。真っ二つに割れた白い陶器を、両手でつまむ。割れた水玉を持って椅子の上から降りた。神棚の器が割れただけなのに、なぜだか動揺が収まらない。

母はいつも、丁寧に神棚の掃除をしていた。神様がお店を守ってくれている、と言いながら。水玉の破損が、神様が私を見放したことを伝えている気がして落ち着かない。店の売却のことや、達也とのこと。店のことを蔑ろにしていた自分の軽率さに、眩暈がする。

「香菜、暗いぞ、顔が」
「水玉、割れてた」

菖蒲さんの顔色が悪くなった。
「まずいな」
「新しいの買ってこないと」
私は慌てて答える。

「いや、待て。こういうのは早い方がいい。私が照子に貰ってくる」
慌てる私と対照的に、菖蒲さんは落ち着いていた。
「照子?」
「愛宕神社の山本の妻だ」

いつの間に、菖蒲さんは山本のおばさんとそんなに仲良くなったんだろうか。
私は時計を見た。時刻は十時半を回っている。開店は十一時だ。確かに菖蒲さんの言うとおりかもしれない。私が慌ててどうこうするより、菖蒲さんに行ってもらったほうが間違いなく早い。

「菖蒲さん、よろしくお願いします」
「わかった。任せておけ。しかし香菜、私が戻るまで店は開けるな。きちんと祈祷してもらった方がいい」
「そんなに大袈裟にしなくても……」

私が口を出すと、菖蒲さんはピシャリと言い切った。
「ダメだ。絶対に、祈祷はしてもらう。狐が不穏な空気を嗅ぎつけて、何かしてこないとも限らない」

人間には感じられない空気のようなものがあるのだろうか。私には全くわからない。店はいつも通り湿っぽく、古臭いようにしか感じられない。一応、鼻を鳴らすように返事をした。菖蒲さんは、全身をぶるぶるっと震わせた。

「空気が重い。私は繊細なんだ。照子のところに行ってくる。香菜、店、開けるなよ」

菖蒲さんはそそくさと店を出た。
神棚を片付けて、とりあえず白いお猪口で代用する。念入りに頭を下げた。

まもなく営業時刻だが、いつもよりのれんが重たい。気合いを入れ直して、私はのれんを掛けた。菖蒲さんに念を押されたが、店は開けることにした。土曜日の営業は、普段は店に来ない子連れ客が多い。お客さんのお目当ては、土曜日限定の煮込みハンバーグ定食だ。楽しみにしてくれている人がたくさんいる。お客さんのがっかりした顔は、見たくない。

営業時間になると、次々にお客さんがやってきた。
四丁目の同級生の絵里や、達也と仲の良かった田中くんが子連れで食べに来てくれた。年齢・職業不詳の音無さんは、相変わらずほとんど喋ることはないけれど、目を細めて幸せそうだ。やっぱり開けて良かったと思う。お客さんの笑顔が、胸に沁みる。

午後一時半、店の戸が開いた。

「あ、おばちゃん!」
珍しい来客に思わず笑顔が溢れた。
「香菜ちゃん、元気してた?」

入ってきたのは、達也のお母さん。
「元気だよ〜!」
手を振るおばちゃんに、私も手を振り返す。

「おばちゃん一人なんて、久しぶりじゃない? 今日はどうしたの?」
「今日はお父さんが仕事に行っちゃって。午前中にいろいろ用事を済ませてたら、お昼食べ損なっちゃったのよ。だから今日は、みずたまで食べようかなって」
「ありがとう、おばちゃん!お好きな席に、どうぞ」

おばちゃんは誰もいない店内をぐるりと見回してから、端の席に座った。その様子を見た私の唇の端が持ち上がる。
「どうしたの? 香菜ちゃん。ニコニコして」
「いやね、おばちゃん。達也もいっつもおばちゃんと同じ席に座ってて。親子だなぁと思って」
「あら、なんか恥ずかしいわね。端っこって落ち着くのよね」
「そうだよね。おばちゃん、昔っからそこだもんね、席」

ふと懐かしい映像が脳裏を過ぎった。カウンター越しに楽しそうにおしゃべりする、お母さんとおばちゃんの姿が目に浮かぶ。

達也のお母さんは、今日みたいに客足が途絶えた頃にやってきては、母と二人でおしゃべりをしていた。私が幼い頃からずっと。まだ幼かった私と達也は、食後の手持ち無沙汰な時間に遊ぶようになった。それで仲良くなったのを、不意に思い出す。

頭の隅に、もう一人、小さな子どものシルエットが浮かんだ。髪がサラサラの女の子だ。くせ毛の私は、その子の髪が羨ましかった。母の友人の子で、私より年下の子だった。名前は確か、ゆりだった気がする。みずたま亭の二階の母屋で、並んで眠った記憶もある。目がなくなるくらいに屈託なく笑う子だった。一時期よく来ていたけれど急に来なくなったから、それきり忘れていたけど。

私は鍋を火にかけた。
ソースが爆発しないように、弱火でゆっくりと温めていく。湯気と一緒に、ふわんと煮込みハンバーグの匂いが鼻の周りにまとわりついた。美味しそうな匂いがするが、何かが足りない。私は首を傾げた。いつもは聞こえてくるはずの、ハンバーグたちの歌声が聞こえてこない。仕込みの時は、賑やかにハーモニーを奏でていたのに。

水玉を壊したからだろうか。
食べ物たちにも愛想を尽かされてしまったようで、胸が痛い。

「ねえ、香菜ちゃん。達也が今日、面接に行ったの知ってる?」
おばちゃんに声をかけられて、我に帰る。

「うん。聞いた」
「びっくりするわよね〜。急に転職するって言い出して。何があったの?って聞いても、教えてくれないんだもの。しかも今日は、夜遅くなるから、ご飯いらないって言って。そんなに身なりに気を使うタイプではないと思うんだけど。昨日は帰りに美容院に寄ってから帰ってくるし。なんかそわそわし過ぎだし、大丈夫なのかしらあの子」

達也がそわそわしている原因は分からないけれど、もしかして私との食事を楽しみにしてくれていたなら、こんなに嬉しいことはない。今日はとびきりおしゃれをしていこう。

小さく深呼吸して、気持ちを整える。卵を割った。満月みたいな黄身が、柔らかい透明の絨毯に包まれたままフライパンに落ちる。じゅうと焼ける音がした。いつもなら聞こえてくるはずの、「半熟となりました」の合図がない。卵の殻が、シンクの上で冷たく転がっている。

私は目視で目玉焼きが半熟になっていることを確認すると、ハンバーグの上に乗せた。グリルしておいた、ニンジンとじゃがいも、茹でたブロッコリーにカットしたトマトを気前よく添えて、目玉焼きの上から、ソースをたっぷりかけた。

「お待たせしました〜」
「わ!美味しそ〜!おなかぺっこぺこ。久しぶりにみずたまの煮込みハンバーグ、食べるわ」
「どうぞごゆっくり」

私の頬を冷たい風が撫でた。
店の戸が、開けっぱなしだったのかもしれない。振り返ると、男の子が立っている。いつ店に入ってきたのだろうか。全く気づかなかった。

「香菜ちゃん、お子さまランチください」

男の子は私をまっすぐに見つめて、目を細めて笑った。
顔に覚えは、ない。知らない人から名前を呼びかけられるのはこれで三度目だ。二度あることは三度ある。もしかしたら、この子も──。

心臓が震えるのを感じる。早鐘を打つ鼓動を抑えながら、精一杯の笑顔を私は浮かべた。



次回予告 10_笑う煮込みハンバーグ
不思議なお客様に耐性がついてきたけど、この子の目的がよくわからない。
この子一体、誰なの?

#創作大賞2025 #ファンタジー小説部門


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