19_霧のぼた餅
── ドォンッ!
乾いた衝撃音が、私の耳をつんざく。
私の前を横切っていた小狐が、その場に倒れた。指先から全身に、鳥肌が広がる。背後から、声が聞こえた。野太い男の人の声に、私は慌てて振り返る。
「俺の腕も、大したもんだろ」
「小狐相手に、偉そうなこと言って。それだから、お前は小物扱いされるんだろ」
「うっせえな」
猟師だろうか。無骨な男二人が、こちらに向かって歩いてくる。土を踏みしめる音が、ザッザッと大きくなった。力強い足音に、乱暴な言葉遣い。私の体が、強ばった。
男二人は私のすぐ横を、通り過ぎた。目は合わないし、こちらを気づいてもいない。私は空気そのもので、男たちは私を存在しないものとして扱った。恰幅の良い男たちは、舌打ちをしながら通り過ぎる。二人とも愛染の着物を羽織り、髪を結っている。まるで、時代劇だ。
男の一人が、その場に倒れた小狐の首根っこを摘むと、俺の手柄だとばかりに小狐を高々と掲げた。その瞬間、霧が急に濃くなった。遠くからポンポンポンと音がする。音に合わせて、小さな火の玉が霧の中に浮かび上がる。
「おいっ! 狐火と狸囃子じゃ!」
「お前のせいだぞ! 祟りじゃ! 逃げるぞ」
男は手に持っていた子狐を乱暴に投げ捨てた。小狐が土の上に無惨に転がる。二人の男は大慌てで踵を返すと、私の脇をすり抜けて、転がるように山道を駆け降りていった。
火の玉が近づいてくる。
男たちが投げ捨てた小狐の横で、火の玉は止まった。ポワンと火の玉が霧の中に溶けていく。溶けた火の玉の後には、男が一人、立っていた。白い着物を着た、琥珀色の長身の狐だ。私は耳をそばだてた。
「── 大丈夫か?」
優しげな声が聞こえてきた。気づくと狐の横に、紺色の着物を着た大きな狸が立っている。綿貫酒店の狸の置物にそっくりな。
「どうだ、月白」
狸は狐に声をかけた。
「まだ息はある」
狐男は小狐の口元に顔を寄せて、つぶやく。大きな狸の声に、私は聞き覚えがあった。どこで聞いたことがあるのだろうか。眉根を寄せる。
白い着物を着た白い女狐が、霧の中から息を切らして走ってきた。
「まだ生きてるなら、私がなんとかする」
この声が誰のものかが、私はすぐに分かった。琥珀だ。
夢を見ているような感覚だった。映画の方が近いかもしれない。目の前で繰り広げられる出来事はあまりにリアルで、でも、触れることはできない蜃気楼のようだ。
「琥珀、頼んだ」
月白が振り向く。どこかで見たような顔だ。狐の知り合いなんていないけれど、なんとなく雰囲気が誰かに似ている気がする。口から、声が漏れた。
── 稲田くん?
「よろしくな」
狸が振り向いた。狸に知り合いはいないけど、もしかして。
── わ、綿貫さん?
私は思わず前のめりになった。完全なる狸だけど、綿貫さんの面影がある。もしかすると、これが第二形態かもしれない。綿貫さんに声をかけようとしたその瞬間、あたりが一気に濃い霧に包まれた。
これは、現実じゃない。あまりに不可思議な状況に、私は冷静に周りを見渡した。ゆるゆると霧が溶けていき、視界が開けていく。視界が開けた後には、たくさんの着物を着た人達がいた。皆、私の体をすり抜けていく。もしかすると私は、今この場所では透明な存在なのかもしれない。琥珀が見せる幻想だろうか。
「やはり、狐と狸の祟りを鎮めるには、お稲荷さんしかなかろう」
「五穀豊穣の祈りにもなるかもしれませんしね」
着物を着た男たちは、話し合いをしているようだった。
「それだと狐の祟りは収まっても、狸の祟りは収まらないのでは?」
「狐は神の使いじゃが、狸が神の使いという話は聞いたことがない。狸を祀っておったら、他の里の笑いものじゃ。狸には酒でも置いておけばよかろう」
小柄の割に偉そうにしているヒゲの男性が、意地悪く高笑いをした。取り囲む男たちも、「そうじゃそうじゃ」と腹を抱えて笑っている。綿貫さんを馬鹿にされたようで、腹が立った。
「この里の発展のため、里の皆で、しっかりお稲荷さんを祀り上げるんじゃ」
偉そうな男性が、低い声で皆を鼓舞した。
それに呼応するように、たくさんの男性たちが、木材を運び込む。狐の形をした立派な石の像まである。
私は何も出来ず、動くことも声を出すことも許されず、ただ呆然と男たちの作業を見続けていた。時間の感覚は無い。
小さな祠が建て終わる。最後には、二体の狐の石像と、小さいながらも美しい朱色の鳥居が建てられた。男たちは完成を祝い、皆は手を合わせる。後から女たちがやってきて、杯を交わし、握られた赤飯やぼた餅を、美味しそうに頬張っていた。
宴が終わり、人々は立ち去った。
霧の中から、琥珀と月白が足音も立てず静かに近づいてくる。琥珀と月白は祠に備えられた杯に口をつけ、ぼた餅を頬張った。二人は目を細め、頬を綻ばせている。私の喉が鳴る。二人は満足そうに顔を見合わせて頷いた。霧がパチパチと音を立てる。弾けるような小さな拍手が二人を取り巻くと、琥珀と月白は石像の中に吸い込まれていった。
がさっと草の音がした。
私は音のする方に顔を向ける。そこには寂しげな表情を浮かべた綿貫さんが、呆然と立ち尽くしていた。綿貫さんは小さくため息をつくと、俯いたまま祠に背を向ける。
あたりは再び、霧が濃く、そして深くなった。
琥珀色の狐の体が、左側の石像から浮き上がった。
「月白!なんでここを出ていくの?!」
琥珀の声が、あたりに響き渡る。
月白は白い女狐を一瞥し、目を伏せる。
「俺は神の使いになんてなるつもりは、元々なかったんだ。お前や兵六と、楽しく暮らしていければ、それで良かった。お前も聞いているだろう。里で狸の祟りが増えていると。兵六だ。あいつは何も悪くない。里の人間が、狸を馬鹿にしたからだ。俺はあいつを一人にしておけない」
琥珀の頬を涙が伝う。
「じゃあ私はどうなるの? ここで私と一緒に、この里の豊穣を祈りましょう。それが私たちの仕事でしょ? 月白、帰ってきて!兵六が気になるのは分かるけれど……、私を一人にしないで……」
月白は伏せていた目を、琥珀に向けた。
「説得したら、すぐに戻るよ」
月白は琥珀の頬に手を当てて、涙をぬぐう。
「でも、ここを離れることを神様に知られたら……」
琥珀の搾り出すような声が、霧に溶けていった。
月白は着物を脱ぎ、体を屈める。月白と呼ばれる琥珀色の狐は、どこにでもいるような四本足の狐になると小さく背を丸めて、琥珀の方をちらりと振り返った。そして私の横を通り過ぎ、石の階段をゆっくりと降りていく。
その瞬間、林の中から銃声が鳴り響いた。
── ドォンッ!
乾いた衝撃音が、私の耳をつんざく。
階段を降りていた月白が、その場に倒れた。背後から、声が聞こえる。野太い男の人の声だ。
「俺の腕も、大したもんだろ」
「たかが狐相手に、偉そうなこと言って。それだから、お前は小物扱いされるんだろ」
「うっせえな」
石像から飛び出した琥珀が、私の体を貫通し、倒れた月白に歩み寄った。
琥珀は月白を抱きしめる。浅い呼吸を繰り返す月白の名を、琥珀は叫び続けた。琥珀の白い着物が、月白の血で染められていく。私を包む霧も、次第に赤みを帯びていく。
「── 大丈夫ですか? 起きてください!」
私の肩を、誰かが優しく叩いた。
重たいまぶたをゆっくりと持ち上げる。
「── 月白?」
次回予告 20_楽しげな夏野菜の豚汁
目の前にいたのは、吊り目のあの人。
不思議な体験すぎて、自分でもちょっと何が起きたのかよくわからないけど、知った顔を見ると、現実に戻ってきた感じがあってホッとする。
