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05_戸惑いのおにぎり

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蛍光灯が、バチッと一瞬だけ消えた。
店内が明るくなり、私は横を見る。

菖蒲さんの、不敵な笑み。
そして、鏡の中の、凛とした黒猫。

「まだわからんか。鈴菜の時は、全然驚いておらんかったぞ。どちらかと言えば、浩介が驚いておったな」

私は、喉から押し出すように声を出した。
「菖蒲さんが、……黒猫? 驚く驚かないの前に、いや、ちょっと意味がわかんない」
菖蒲さんは、器用に右の口角だけを上げて笑う。

「まぁ、香菜が理解しやすいように考えればいい。長く生きていると、色んなことができるんだ。それで今日は、香菜に伝えたいことがあって、この体でやってきた」
「伝えたいこと……?」
私は生唾を飲んだ。

「不動産業者、アレは狐だ。目的は私にもよく分からないが、嫌な匂いがする。お前は名刺を引き出しにしまったり、売却を考えたり、狐に対し警戒心が薄い。先日と今日、お前の様子を見ていたら、鈴菜が心配して私に伝言を頼みにきた理由が、よくわかった」

私の混乱を他所に、菖蒲さんは満足気にリボンを撫でる。椅子から降りて、その場でくるりと回転した。女の子だった菖蒲さんは、次の瞬間、黒猫に戻っている。紫のリボンは、首に巻かれていた。

「── いや、意味わかんないって」

菖蒲さんは、椅子の座布団の上に丸まった。上目遣いで私を一瞥すると、ゆっくりと目を伏せ寝息を立て始めた。狐に化け猫、そして母からの伝言。

すっと息を吸う。

喉に何かが引っかかって、息がうまく飲み込めない。母の亡霊が、足元にまとわりついている感覚。どこかで見ているなら、私がしっかり店を切り盛りしていることはわかるはずだ。いつまで私を子ども扱いするのだろうか。吸い込んだ空気以上の息を、強く吐き出した。

それより、この状況、誰に何を相談したらいいものか。足はみずたま亭に捉えられているのに、地に足がついていないみたいに思考が揺れる。うまく盛り付けられなかった四段重ねのホットケーキから、バターが滑り落ちるような。

店の戸が開く。
紺色のスーツ姿が目に入り、心臓が早鐘を打った。

「あ、達也」
「まだ、飯、食べられる? 今日残業で、何も食ってなくて」

一気に現実に引き戻される。すとんと体が地面に降りた。足の裏に体重を感じ、胸を撫で下ろす。達也はいつも、タイミングがいい。そういうところが、また私の心を引き寄せるとも知らないで。

「生姜焼きなら、すぐできるよ。…….ちょっと聞いて欲しいことがあるんだけど、時間ある? ビールおごる」
「生姜焼き、最高じゃん。飯は大盛りね」
達也はふっと笑い、私にまとわりついた神経質な空気を吹き飛ばした。
「ビールなくても、話ぐらい聞くって。まあ、奢られてやらないこともないけど」

この軽口は、夜の海に沈んでる気分の時だって、ぐいと引き上げてくれる。

「ちょっと待ってて。のれんだけ下ろしてくるから」

私はのれんを下ろしに、店の外へ出た。
いつの間にか雨は止んでいる。アスファルトの熱が湿度を帯びて、空気がモヤのようにくすんでいた。一歩踏み出すと、どこかに迷い込みそうで不安になる。空を見上げると、雲の向こうから月がこちらを覗いていた。

「あの……」

背後から声をかけられて、のれんが手から離れる。慌てて振り返り、思わず「ひっ」と声をあげた。目の前に立っていたのは、薄汚れた上下スウェットの猫背の長身男性。顔の上半分が、前髪で隠れている。口元には無精髭。ちらりと覗く、つり目が鋭い。

「もうお店、しまっちゃったんですか?」
「あ…..、はい」

いつもなら「どうぞ」と快く迎え入れるところだけど、今日は頭が混乱していて、そんな気分にはなれない。胸の内で、「ごめんなさい」と頭を下げる。

「そうですか……」
スウェット男は俯いた。その時、男の腹がぎゅるるるるっと鳴った。
「す、すみません…..」
前髪で隠れていても、恥ずかしそうなのがわかる。男の頬に赤みが差した。お腹が空いているのか。スーパーは大通りに行けばある。グエンさんのコンビニは、徒歩だと少し遠い。

私は男に向かって、手のひらを向けた。
「ちょっと待っててくださいね!」

急いで厨房へ戻る。炊飯器ジャーの蓋を開けた。手に塩をなじませて、あつあつのごはんを手に取る。あつあつだけど、いつの間にか、この熱さにも慣れてしまった。中に梅干しを詰めて、ふわっと握る。握り加減はごはんたちが教えてくれる。

「もうちょっと、こっちを強めに」
「優しすぎると崩れちゃうけど、強すぎもダメだよ」
「梅干し、スッパ!」

おにぎりを握ると楽しくなって、目尻が下がる。

もうひとつは、常備菜の昆布の佃煮を入れて握った。握ったおにぎりに、ふわっと海苔を巻く。ラップで包んで、ビニール袋に優しく入れた。慌てて、店の外に出る。

「これ…..、おにぎりなんで食べてください」

私はビニール袋を突き出した。スウェット男の前髪から覗く目が、泳いだ。
「お客さんをお腹ペコペコのまま帰したら、定食屋の恥なんで」
自分の手のビニール袋を、強引にスウェット男に握らせる。

「いや……、これ」
「うちの昆布の佃煮、めちゃくちゃ美味しいんですよ!梅干しも毎年漬けてて。絶対に美味しいんで、食べてくださいね!」

スウェット男の口元が緩んだ。吊りあがった目が、くしゃっと一文字になる。
「あの……お金は……?」
私は顔の前で手をヒラヒラと振る。
「今度、食べに来てくださればいいので。うちの定食、めちゃくちゃ美味しいんですよ!」

スウェット男は声を上げて笑うと「ありがとうございました」と深々と頭を下げて、帰っていった。
店に戻ると、達也が眉間に皺を寄せて、こちらをじっと見ている。

「何があったの? 出たり入ったり」
「お腹がすいた貧乏学生みたいな人がいたから、おにぎり渡してきた」
「また、そんなお節介を」
「おなか空かせたまんまじゃ、帰せないでしょ。定食屋のプライドがあんのよ」

達也は「香菜らしいな」と笑った。
生姜焼き定食とビールを運ぶ。つまみに小鉢をいくつか並べた。

「それで、話って?」
「いやそれがね──」

私の説明に、達也は信じられないという表情で、眉をあげたり口を開けたりを繰り返す。

「まあ、香菜がここを売って、新しい生活に期待する気持ちもわかる。俺も転職を考えたりするし。たぶん三十歳ってそういうタイミングだよな。でも、間違いなく香菜にとってはこの店は大切だと思うし、なくなったら俺も含めてみんな悲しむ。どうしても売りたいなら、こちらからアクションを起こすべきだ。怪しいと言われてる業者の話に、ほいほいと乗る必要はないと思う。幽霊とか狐、化け猫の話は、正直、自分の目で見てないからすぐに信じるのは難しいけど──」

達也はひと呼吸置いた。

「俺は、香菜を信じるよ」

その言葉が聞けただけで、話してよかったと思う。空っぽの胸が、込み上げてくる何かで満たされていく気がした。

「達也に相談してよかった。ありがとう。そうだよね、売るのはいつでもできるもんね。なんかスッキリした」

肩の力が抜けていく。
「ほら、飲むぞ」
「明日も仕事だけど」
「まあ、いいじゃん」

グラスにビールを注いで、再び乾杯した。

「あ!そうだ!達也もうすぐ誕生日でしょ? 大台の三十歳。なにか盛大にお祝いしようよ。欲しいものある?」
「三十歳かぁ。嬉しいような、緊張するようなって感じだよな。欲しいものねぇ……」

達也は小さく考え込んだ。

「まあ、欲しいものは思いついたら連絡してよ。それより、誕生日に予定がないなら、私が祝ってあげようか?」

さりげなく誘えただろうか。
達也は宙を見た。私の心臓は大きく脈打っている。

「いや、誕生日は──」



次回予告 06_骨太なスナップエンドウ
達也に誕生日を一緒に過ごす相手がいるなんて……!
まさかの展開に、ちょっと動揺が止まらない。達也の誕生日は、刻々と近づいてきて……。

#創作大賞2025 #ファンタジー小説部門



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