06_骨太なスナップエンドウ
「香菜、出ないのか? ため息ついてばっかりだけど、誰か来てるぞ」
菖蒲さんに声をかけられて、顔を上げる。私はこの世の終わりとばかりに、暗雲のようなため息をついた。憂鬱に色があるとすれば、黒混じりの灰色。
カウンターの椅子からすっくと立ち上がる。立った拍子に、百億回目の灰色の息を吐いた。それもこれも、達也の誕生日に予定が入っているせいだ。
達也の誕生日は6月21日。
今年は土曜日だ。達也の仕事は土日休みだから、仕事はないはず。それなのに、達也はその日、予定があると言っていた。理由は誤魔化されて教えてもらえなかった。私の勇気を出したお誘いは、薬味たっぷりの冷奴みたいにあっさりと断られた。多すぎる薬味のせいで、なんだか苦い。
「はぁぁ」
引き戸の前に立つ。
時計を確認した。時刻は午後三時になっていた。こんな時間に店の入り口から訪ねてくるということは、知り合いではない。
「どなた様ですか?」
私は目一杯、声色を落として声をかけた。
「秋常不動産の稲田と申します。みずたま亭さんは、売却を視野に入れていらっしゃると伺ったので、ぜひお話させていただきたいと、参りました」
思わず身構える。気のぬいたタイミングでの来訪。少し前なら、話を聞いてもいいと思っていたけれど、今は心持ちが違う。冷静に考えたら達也の言うとおりだ。わざわざ怪しい業者に、大切なみずたま亭を売る義理はない。
「お話することはありませんので」
引き戸越しでも伝わるよう、一音一音、はっきりと喋る。すりガラスが、揺れた。
「一度お話だけでも」
「お話も何もありません。うちは売りません」
沈黙が走る。ガラスの揺れがぴたりと止まった。
引き戸の隙間から、一枚の紙が差し込まれる。
私の足元に、A4サイズのカラフルな印刷物が落ちた。ゆっくりと腰を下ろし、手に取る。
「……いなりパーク?」
私のつぶやきに、稲田の声がワントーン高くなった。
「そうなんです!みずたま亭さんが売却を考えていらっしゃると聞きまして、ぜひ弊社で買わせていただければと考えております。この辺り一帯を『いなりパーク』にする計画が上がっておりまして。信心深い穂結町のみなさまに、ぜひ、お稲荷さんを大切にしていただける場所を提供させていただきたいと考えております。きっと、弊社が五穀豊穣のお役に立てることと存じております」
いなりパークとは。絶対に流行らない上に、何の公園なのかもよく分からない。思い切り胡散臭すぎる。馬鹿じゃないの? と喉元まで出かかったが、飲み込んだ。これ以上、このよくわからない稲田という男と話すのは、時間の無駄だ。
「いずれにしても、みずたま亭を売るつもりはありませんので、お引き取りください」
思わず語気が強くなる。
戸の向こうで、稲田が頭を下げたのがわかった。
「お忙しい時間帯に、大変失礼いたしました。もし、興味がおありになるようでしたら、いつでも、ご連絡ください」
次の瞬間、急に稲田の口調がゆるやかになる。
「……あなたが引き出しにこっそりとしまった名刺に、…….連絡先は書いてありますからね」
どこから声を出しているのだろうかと思うような低音の声に、鼓膜を舐められたような気持ち悪さを感じ、手が震えた。
震える拳を握り、すりガラス越しの稲田を睨みつけた。絶対に売るわけがない。よくわからない「いなりパーク」なんてものに、されてたまるか。私が母からの呪縛から逃れるのと、みずたま亭を雑に扱うのとは訳が違う。
頭を上げた稲田が去っていくのがわかり、胸を撫で下ろす。もう来ないでほしい。本当に面倒くさい。
小さくなる稲田のシルエットに違和感を感じ、私は目を見開いた。
頭には大きな耳。お尻にはふさふさの尻尾──!
私は目を擦る。すりガラスの向こう側に目を凝らす。思わず引き戸に手をかけた。
「開けるなよ、香菜。狐に気づかれるぞ」
菖蒲さんに突然話しかけられて、心臓が跳ねた。手を戸からパッと離す。
「っびっくりした〜。いつからいたの?」
菖蒲さんは、ふ、と笑った。私をポンと優しく叩く。
「今回は、毅然としていて良かった。計画を変更しながら近づいている時点で、狐の狡猾さがうかがえる。滑稽な計画なのも、狐らしい。ただ、本来の目的が見えないから、一度断ったからと言っても油断は禁物だ。しかし稲田。あれはよくわからんな。狐が化けているのか、取り憑かれているのか ── 」
菖蒲さんは眉根を寄せると、くるりと回転した。黒猫姿に戻り、いつもの定位置に座る。
「あ、菖蒲さん……」
達也のこと、相談しようと思っていたのに。私は厨房のカレンダーで日付を確認する。今日は火曜日。誕生日まで、あと四日しかない。プレゼントは、クラフトビールを用意しよう。達也の喜ぶ顔が見たい。誕生日に渡せなくても、ちゃんと想いは伝えよう。
エプロンを締め直して、夜の支度に取り掛かる。
今日は、鮭の塩焼き定食、豚しゃぶおろし定食、肉味噌うどんと、定番の唐揚げ定食のラインナップ。小鉢はスナップエンドウのベーコン炒めと、もずく酢。
ランチタイムでスナップエンドウがなくなってしまったので、まずは下処理をしていく。キッチンバサミで切り込みを入れて、すぅっと筋を取る。スナップエンドウたちが「香菜ちゃん、上手!」「ひょひょひょ〜。きもちい〜」と筋とりを褒めてくれるので、この作業は楽しくて仕方がない。
梅雨の晴れ間だからか、客足は順調。
先日、おにぎりをあげたスウェット男子も、最近はよく食べに来てくれる。
「今日は何にしますか?」
私が声をかけると、スウェット男子は手書きのメニューを一瞥する。逡巡してから、唐揚げ定食を頼む。それが彼のいつものパターン。
「毎回唐揚げだね」
私が軽く笑うと、はにかんでへへと笑った。
「他のも食べてみたいと思うんですけど、香菜さんの唐揚げ、すごく美味しくて」
そう言われるとついつい嬉しくなって、ご飯は大盛りにしてしまうし、唐揚げは一個多めにのせてしまう。唐揚げを大きな口で頬張った瞬間、洗いざらしの長い前髪の隙間から覗く吊り目が、一文字になった。つられて私の目も一文字になる。
神主の山本さんちは、珍しくご夫婦でご来店。
ふくよかな肢体でゆったりと店内に入ってくる姿を見ていると、よく似てる夫婦だなぁと毎度思う。
「いらっしゃいませ」
「香菜ちゃん、今日のメニューは何?」
山本のおじさんが私に尋ねてきた瞬間、おばさんは口をへの字にした。
「あら、お父さん。メニュー聞かなくても知ってるでしょ。昼に香菜ちゃんとこで、麺定食食べてるの、知ってるんですからね」
おじさんは視線を泳がせながら、頭をぽりぽりと掻いた。
「お父さんは魚で、私は肉でお願い」
「は〜い」
私はニヤけながら厨房に戻る。
「あ、そうだ」
思い出したように、私はおじさんとおばさんに声をかけた。
二人揃って厨房に顔を向ける。
「きたよ。例の秋常不動産の骨太狐」
「とうとう香菜ちゃんとこにも!」
「大丈夫だったかい?」
おじさんとおばさんは、心配そうに眉毛を下げた。
「大丈夫。しっかり断っておきました。高級マンションの計画は頓挫したから、今度は、信心深い穂結町のみなさんのお役に立てるいなりパークを計画してるとか言ってた。ほんと意味わかんない」
おじさんとおばさんは、顔を見合わせて、真剣な表情で頷いている。
「なんか、変よね」
「なんか、変だな」
おばさんが心配そうに口を開いた。
「……ねえ、香菜ちゃん、他に変なことなかった?」
おばさんに尋ねられて、私は思考を巡らせる。
幽霊、黒猫、狐のシルエット……?
変なことだらけだけど、いくらなんでも説明しにくい。達也とは二人きりだったから良かったけど。
一呼吸置いて、「これと言ってはないかな?」と曖昧に笑ってみせた。
「そう……。何かあったら、本当に気軽に相談してくれたらいいから」
おばさんの不安げな表情が、胸をじわりと熱くする。
「うんわかった。何かあったら、ちゃんと相談するね。ありがとう」
おじさんとおばさんはペロリと定食を平らげると、すっくと立ち上がる。
「ごちそうさま〜。今日もおいしかった!スナップエンドウ、シャキシャキしてて、味付けもバッチリ」
「こちらこそ、ありがとうございます」
会計を済ませると、おじさんとおばさんは神棚の前で立ち止まり、深々と頭を下げた。二拝二拍手一拝。
店内の空気が、一気に神聖なものに変わった。私はあまりの美しい作法に、息を呑む。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました。神棚のお手入れはしっかりね」
「はい」
神棚に頭を下げ、山本夫妻にも頭を下げる。すっと伸びた背筋のまま、厨房に戻った。
山本のおじさんが引き戸を開けた瞬間、「久しぶりだね」と声を上げた。
「おじさんも。俺は夜、毎日のようにきてるんだけど」
「俺は昼、毎日来てるよ。昼と夜だからすれ違いか」
楽しげな笑い声が、店の外から聞こえてくる。
誰が来たのかと覗き込むと、そこにはスーツ姿の達也がいた。
心臓が早鐘を打つ。誕生日の件、気になりすぎる。今すぐに、恋を成就させるレシピ本が欲しい。頭の中で、質問のさじ加減を考えた。小さじか、大さじか。
次回予告 07_揺れ動く焼鮭
達也の誕生日まであと四日。誕生日当日のことを、もう少し確認したい。いい感じに二人きりになって……
