07_揺れ動く焼鮭
「香菜。今日の魚、何?」
山本夫妻と話し終わった達也が、こちらを見て手を挙げた。
「鮭だよ」
「じゃ、それで」
店内をぐるりと見回す。達也は定位置の隅の席を一瞥した。空席だとわかると、一直線にその席に向かう。
「ご飯は大盛り? ビールは?」
「飯は大盛りで。今日はビールはいいわ」
達也がこちらに向き直る。交わる視線に、胸が跳ねた。私は努めて平静を装い、声をかける。
「珍しいね。仕事終わりに、ビール飲まないなんて」
「ああ、今はいいかな」
いつもと違う雰囲気に、弾けるのとは違う胸の動きを覚える。湿気ったポップコーンが歯にくっつくような不快感。
鮭をグリルで焼く。携帯電話を節目がちに見つめる達也を目の端で捉えた。一瞬視線が交差する。次の瞬間、さっと視線を外された。脳裏に"彼女"の二文字が浮かぶ。慌てて頭を振った。
あれは、中学二年生の夏休み前だった。その日は雨が降っていた。学年で三番目に可愛いと評判の女の子が、いとも容易く達也の隣を手に入れた。それを知ったのは、相合傘で帰る二人を見つけた時だった。一瞬あった目線を、さっきみたいにさっとかわされて、私は膝から崩れ落ちたのを思い出す。
達也の携帯電話の着信音が鳴った。テーブルに置いてあったスマートフォンを、すぐさま手に取る。達也は小さく笑って、すぐに文字を打った。繰り返される、達也と画面の向こう側にいる謎の人物とのラリー。未だかつて、こんなにスマホから目を離さない達也を私は見たことがない。
百億と一回目のため息が漏れる。
「か〜な〜ちゃんっ!焦げてる、焦げてる〜!あっちいあっちい!」
グリルから鮭の声がした。
「あ、ごめんごめん!」
私は慌ててグリルから鮭を取り出す。身はほんわりで、皮はこんがりいい感じに焼けている。
「あれ?いい感じ。焦げてないじゃん」
小さく呟くと「へへへ〜。ちょうどよく焼けました〜」と鮭が意地悪っぽく笑った。
鮭の焼き加減は良くても、恋心は焦がれてばかりだ。息を吐くと、凝りもせずまたため息が出る。
私は店の時計を見た。
夜八時。
達也は早食いだから、今日は閉店まではいないかもしれない。
その時、店の戸が開いた。酒屋の綿貫さんだ。
「お!久しぶりだねぇ、たっちゃん!」
綿貫さんは、来店と同時に達也に声をかける。頬の肉がむにっと笑った。
「綿貫のおっちゃんじゃん!久しぶり!」
達也も綿貫さんを確認すると、白い歯を見せる。
綿貫さんが、達也の前にどかっと座った。でっぷりとした腹が揺れている。
「ここ、いい?」
綿貫さんは、いつもの焼酎と肉定食を頼んだ。キープしている焼酎のボトルを、綿貫さんの前に置く。私は達也に定食を運び、「ビールいらないの?」と耳打ちした。
「おっちゃんに付き合ったら、大変なことになるから」
相手をしてくれる人がいる時の、綿貫さんの飲みっぷりはすごい。なみなみ焼酎を注いでは、ストレートで流し込んでいく。いい頃合いに頬が赤みを帯びたところで、綿貫さんは達也に突っ込んだ質問を繰り返した。
「たっちゃん、久しぶりだねぇ。みずたまで飯食ってるとか、もしや彼女いないな?」
「おっちゃん、俺、ほとんど毎日来てるよ。それにしても、飲みすぎだって」
「そろそろ、香菜ちゃんと結婚しなよ」
「そのネタ好きだよね」
「おっちゃんの腹の肉分けてやるから、髪分けてくれよ」
「いらねえよ、脂肪とか。おっちゃん、酒ばっかり飲んでないで、ワカメ食べなって」
他のお客さんをさばきながら、私は二人の会話に耳をそばだてた。綿貫のおっちゃん、ナイス質問! と思いながらも、達也から確信的な言葉は出てこない。焦れる胸を抑えながら、唐揚げだけは焦がさないように注意する。
「たっちゃん、今いくつよ」
「二十九だよ」
綿貫さんが目を見開いた。
「もうそんなになるの? 俺も老けるはずだよな」
達也は腕組みして宙を見た。
「いやいや、おっちゃん。全然変わってないよ。ほんと、俺らの小さい頃から、ずっとおっちゃん」
達也は笑う。確かにと私も宙を見た。綿貫さんの印象は私が小さい頃から、ずっと同じ。特段、老けた様子もない。太っているとシワができないのだろうか。
「なんだよ、それ。日本酒の飲み過ぎで肌ツヤがいいのかな」
「そんな訳ないでしょ」
二人の会話は、弾け始めたポップコーンのように、テンポがいい。
「そしたら、たっちゃん、もしかして今度三十路?」
ポンっとポップコーンが大きく弾けた。
「もしかしなくても、そうだよ」
「誕生日、いつだっけ」
「今週の土曜」
「そうなの?!おめでとう!乾杯!」
「ありがとう、おっちゃん」
焼酎と水で、二人は乾杯した。
「なんかお祝いするの?」
「いや、その日は──」
食べ物たちの「香菜ちゃん、こっち向いて」コールが耳を突く。今、いいところなのに、食べ物たちの声が邪魔をして肝心な達也の声が聞こえない。
「──!たっちゃんのお願いなら、なんでも聞くから、任せといてよ」
綿貫さんが、どんと胸を叩いた。
腹がぶるんと揺れる。
「本当? ありがとうね、おっちゃん。その時はまた連絡するから」
何をお願いしたのだろうか。達也の誕生日の予定については、なんと言っていたのだろうか。
一番大事なところを聴き逃して、思わず唐揚げに舌打ちした。
時刻は夜九時になっていた。
のれんを下ろす。管を巻いた綿貫さんを二人で抱え、綿貫酒店まで連れていった。綿貫さんは、千鳥足で「すまんねぇ。今日は楽しすぎて、ついつい飲みすぎちゃったよ」と店の中に入って行った。
綿貫酒店の前に鎮座する綿貫さんそっくりのたぬきの置物が、暗闇の中から私たちを見送ってくれている。
「ごめんね、手伝ってもらっちゃって」
「気にすんなって。けど、ほんとおっちゃんよく飲むよな。いっつもあんななの?」
私は首を振る。
「まさか。いつも飲んでるけど、一人だとあそこまでは飲まないよ。今日は達也に久しぶりに会えて、うれしかったんじゃない? おっちゃん、世話好きだからね。町内の祭りとかの盛上げ隊だし、子どもたちの面倒もよく見てくれるし」
「だな」
生ぬるい空気が、私の右手の横を通り過ぎた。触れそうで触れられない、達也との距離。拳にしていた右手を、パッと開く。おそるおそる達也の左手に、私の右手を近づけてみた。このまま、私の右手で達也の左手を握りしめたら、達也はどんな顔をするのだろうか。
あと五ミリの距離まで近づいた時、達也を包む空気に、一瞬、触れたような気がした。私の心臓が耳に移動する。耳元で、どくどくと血液が沸騰する音がした。
「た、達……」
「あれ? 香菜。香菜んとこの、猫じゃないの? 店の前にいるの」
私と達也の声が被る。伸ばしかけた手を、ぎゅっと引っ込めた。達也の向ける視線の先に、私も向き直る。
店の前では、黒猫姿の菖蒲さんがじっと座っていた。
二人で菖蒲さんに近づく。私たちに気づいた菖蒲さんは、こちらに顔を向けた。その口には、何かを咥えている。私は目を細めて凝視する。
「ぎゃっ!」
思わず叫び声が出た。
菖蒲さんは、得体のしれない物体を咥えている。
鼠……?
私は自分の中に浮いてきた答えに、首を振った。
これはどう見ても、小さいけれど──、鼠では、ない。
次回予告 08_整うスナップエンドウ
菖蒲さんが咥えていたものって、これ、何?
やっと二人きりになったと思ったのに、よきせぬ乱入者に戸惑う私。達也に恋人はいるの?いないの?
