17_急展開のホットケーキ
頭にはふさふさの三角の耳、お尻にはボリュームたっぷりの尻尾がついている。綿貫さんのその姿は、まさしく狸そのものだ。
── いや、どちらかと言えばコスプレっぽい。
「え?綿貫さん、人間じゃなかったの?!」
疑いつつも、私は目を瞬いた。
こんな身近に、化け狸がいたとは──!
「香菜ちゃん、驚かしてすまんな」
頭をポリポリと掻く綿貫さんは、恥ずかしそうで少しだけかわいい。
綿貫さんは下げていた目尻を、キッと釣り上げ、琥珀に向き直る。
「それより、琥珀。性懲りも無く、町に降りてきおって」
琥珀に凄む綿貫さんは、迫力があった。耳と尻尾の毛が怒りに震えている。
「そんな間抜けな格好で、人間に紛れてセコセコと生活しておるお前に言われとうないわ」
琥珀の静かな声に、店内の空気が震えた。消えていた電気がバチッと音を立ててつくと、再び大きな音を立てて消える。月が雲に覆われ、あたりは暗闇と化した。
「これは第一形態だ。お前を追い出すくらいなら、この姿で十分。お前こそ、人の弱みに漬け込んで取り憑くとは、言語道断」
「弱い人間は、稲田だけではないぞ。兵六」
暗闇の中で、琥珀の姿がゆらりと揺れた。女狐が琥珀色の気体に変わる。店内の空気がしんと冷え、重くなる。頭がぼんやりとして、モヤがかかる。
息苦しい。楽になりたい。
モヤの中でハッキリと聞こえる自分の声に従うかのように、私は鼻からすぅっと空気を吸い込んだ。
「香菜ちゃん!」
綿貫さんの声が、遠くで聞こえる。視界が歪んだ。気が遠くなる。体に異物が入り込む感覚が気持ち悪い。私の意識が、どこか端に追いやられた。意識が朦朧として、体の力が抜けていく。その時欠けた心に、艶かしいものがヌルッと埋まっていくような感覚があった。気持ちが悪いけれど、少しだけ満たされるような、そんな感覚だった。
「ほぅら、この娘、香菜もしっかりしているように見せて、実は弱い人間なのだ。空洞がある人間は、本当に入り込みやすい。しかしだ、現代の世の中で、空洞がない人間などどこにもいない。みな、幼い。誰かに甘え寄り添い、支えてもらわないと生きていけない。知っておるか、兵六。この娘は、自分のために簡単に店を売ろうと考えたのだぞ。鈴菜が大切にしてきたこの店を、だ」
(── 言わないで!)
私は心の中で叫んだ。
夢の中で叫んでいるようで、喉から声が上がってこない。
「香菜ちゃんが、そんなことするわけないだろ!」
綿貫さんの声が、胸に痛い。
「私にはこの娘の考えることが、手に取るようにわかる。寂しいのだ。自分が見当たらなくて。探しているのだ、自分を。片割れのように支え合った母親が去り、導き支えてくれる者がいなくなった。だから、間違う」
「琥珀、それは自分のことか──」
「鈴菜は優しい女だった。山の木々のざわめきも聞き逃さない女だった。だから、私は心を許したのだ。鈴菜の作るものは丁寧で、私を癒してくれた。しかし、香菜は違う。香菜の料理は、自分のための料理だ。食べる者のための料理ではない。兵六、お前と一緒だ。自分本位で月白を巻き込んで……」
琥珀の悲しみ、そして怒りが私の中に流れ込んでくる。知らぬ間に、頬を涙が伝っていた。
「あれは、儂のせいではない。事故だ。とにかく香菜ちゃんから出るんだ、琥珀!」
綿貫さんの髪が、次第に逆立った。綿貫さんは、三度腹を叩く。店の空気が、おどろおどろしいものに変わっていった。遠くから笛や太鼓の音が聞こえてくる。
「ち……、狸囃子か!」
琥珀の警戒が、体の中にビリビリと伝わってきた。店内を見回す。目が泳いだ。
ガタッと大きな音がして、店の引き戸や窓が一斉に開く。
雲の隙間から月明かりが差した。電気が切れていた店内が明るくなる。窓の外ではバサバサと大きな羽音がした。木々もざわついている。ガァガァと耳障りな鳴き声が近づいてきた。意識が窓に移る。たくさんのカラスが窓からこちらを睨んでいる。
全身に鳥肌が立った。
私のではない。琥珀のだ。
野太い猫の呻き声は、一匹ではないことがすぐに分かるぐらいに大きい。一体、どのぐらいの猫がいるのだろうか。店を取り囲むように、鳴き声が四方から聞こえてくる。
戸が開いた。
暗闇の中から、無数の瞳がこちらを睨んでいる。
「くそっ」
琥珀の声が頭に響いた次の瞬間、目の前が暗くなった。
***
「おい! おいっ!香菜!起きろ!」
私の頬を、誰かが優しく叩く。それが、小さくて冷たい手だと分かった。重たい瞼を押し上げる。私の目の前には、黒髪の可愛らしい女の子が、心配そうな表情を浮かべて立っていた。
「あ、菖蒲さん……」
「あ、起きたか! 香菜!」
菖蒲さんはその場にへたりこんだ。
「心配させるな」
「ご、ごめんなさい……」
「いや、いい。無事ならよかった」
菖蒲さんは立ち上がると、私の手を引っぱった。
「でも、どうしてここに?」
私の質問に、菖蒲さんは不服そうに視線を逸らす。
「タヌキに呼ばれた」
「タヌキ?── 綿貫さん?」
私は綿貫さんを一瞥した。肩をすくめてとぼけた顔をしている綿貫さんは、耳と尻尾がある以外は、いつもと全く同じに見えた。
「そう、そいつが狸囃子を鳴らして、この辺りのカラスと猫を呼び寄せたんだ。私もそれでみずたま亭まで引っ張られた」
思わず綿貫さんを二度見する。ぽんぽんとお腹の音が聞こえてきたと思っていたが、あれが狸囃子だったとは。
「すまんな。狐を退治するには、あれが一番だったんでな。まさか香菜ちゃんのとこの猫ちゃんが、化け猫だったとは」
くっくっと綿貫さんは楽しそうに笑った。
菖蒲さんは舌打ちをする。気の強い菖蒲さんのことだ。きっと綿貫さんに食ってかかるに違いない。
私が身構えていると、店の戸がガラッと開いた。
「香菜、何かあったか? すごい数のカラスと猫が、みずたまから飛んできたけど」
「あ、達也!」
達也は店の中に入るなり、目を見開いた。
「お、おっちゃん?」
「おう、たっちゃん」
「何? 今日、コスプレパーティー?」
間の抜けたやり取りに、私は膝から崩れ落ちる。誰も達也の質問に答えないでいると、達也は綿貫さんを指さした。
「これだよコレ」
達也は綿貫さんのそばによると、耳を引っ張った。
「いてっ!」
「は?」
「ダメだって達也。それ、本物だから」
「は?」
私は達也に経緯を説明する。
何度目かわからないまん丸の目と口に、肩の力が抜けた。
「大丈夫なのか?」
心配そうに達也は私をじっと見た。頭はぼんやりしているが、体は普通に動く。
「多分……。それより、何か食べにきたの? 作ろうか?」
達也は首を振った。
「今日はいいや。顔見にきただけだし。まあ、無事ならよかったよ。あぁ、そうだ。香菜、コレ」
達也は手に持っていたビニールを、私の前に突き出した。
「何?」
「香菜、ホットケーキ好きだろ。出先で見つけて好きそうだったから」
両手でビニール袋を受け取る。
「見ていい?」
一言添えて、白いビニール袋から小さな箱を取り出した。箱を止めているテープを爪先で剥がす。蓋を開けると分厚いホットケーキの間に、たっぷりのクリームとカラフルな果物が挟まっているのが見えた。
「え? 何これ! めちゃくちゃ美味しそう! ありがとう!」
「後でゆっくり食べなよ。で、こいつ誰?」
達也はテーブルに突っ伏したままの稲田くんの方へ、視線を移した。
「あ!稲田くん!」
完全に稲田くんの存在を忘れていて、思わず大きな声が出た。
「んんん」
稲田くんは、寝起きのような声を出し、ぐうっと伸びをした。
「大丈夫?」
「──多分?」
間の抜けた返事に心配になるが、自分が体験してみるとよくわかる。賞味期限が書いていない得体の知れない食材を食べて、「お腹を壊すと思うか」と尋ねられて答えられないくらいに、自分の状況がよくわからない。「大丈夫?」と聞かれたら「多分」としか答えられない。
「なんかよくわかんないけど、俺、車で来てるから送るよ。おっちゃんも送ってく」
達也が口を開いた。
「すまんなぁ、たっちゃん。久しぶりにちょっと疲れたわ」
綿貫さんがポンっと腹を叩くと、耳としっぽが引っ込んだ。第二形態も見てみたい気がするけど、さすがにこの空気では口に出せない。
稲田くんも疲れた様子で「俺まですみません」と頭を下げた。三人はみずたま亭を後にした。軒先で達也の車を見送る。
車が角を曲がって見えなくなったところで、大きく伸びをした。
「なんか、大変だったね」
隣にいる菖蒲さんに、声をかけた。背骨がぼきぼきと音を立てる。
テーブルにつき、達也が買ってきてくれたホットケーキの箱を開ける。どら焼きぐらいの大きさの厚めのホットケーキに、たっぷりの生クリームとイチゴが挟まっていた。見ただけで、口の中に唾液が広がっていく。菖蒲さんに一つ渡して、もう一つを両手で持った。大きく口を開ける。ガブリとかぶりつく。
ふわりとしたホットケーキは口どけがよく、シュワシュワと溶けていくようだった。生クリームも軽くて甘さ控えめ。たっぷりの甘さの中から、イチゴの爽やかな酸味が鼻を抜ける。
「うわぁ、美味しい」
思わず唸った。食べ物って人を幸せにする。そんな当たり前のことが、不意に込み上げてきた。
明日は、どうしよう。
店を開けるか開けまいか。
── 香菜の料理は、自分のための料理だ。食べる者のための料理ではない。
静かな店内に、琥珀の言葉が響いた気がした。
次回予告 18_真面目ないなり寿司
珍しく店は臨時休業にした。体に疲れと琥珀の哀しみが残ったままだ。
それでも私は料理を作る。届けたいあなたのために。
