16_信じられない味噌汁
綿貫さんの真剣な瞳に、緊張感が走る。
「── 味、変えた?」
私は首を振る。
「そうかぁ。毎日飲んでるから、違いに気付けたんだと思ったんだけどなぁ」
綿貫さんは、首を傾げた。
「美味しくなかった?」
前のめりに尋ねる私に、「そんなこと、全然ない」と綿貫さんは慌てた様子で、味噌汁を飲み干した。
厨房に戻って、味噌汁を啜る。
確かに味噌の味が薄い気がする。まずいとまではいかないけれど、後を引くコクがない。さっきはしっかり出汁がとれたと思ったのに、自分の舌が信じられない。慌てて冷蔵庫から味噌と鰹節を取り出した。湯を沸かして鰹節をたっぷり入れる。いりこが悪い訳ではないけれど、今は自信がない。濃いめの鰹出汁をとって、油揚と玉ねぎを入れた。柔らかくなったところで、味噌を足す。小皿に移してずずっと啜った。大丈夫な気がするけれど、どうだろうか。いつもは食べ物たちが、タイミングも量も教えてくれていた。静かな銀色のシンクが、余計に冷たく感じる。シンクに落ちたため息が、白く濁った。
店内に、風が吹いた。ため息が散る。顔を上げて入口に目をやった。その時、戸が開いて入ってきたのは、稲田くんだった。
「いらっしゃいませ」
稲田くんは私に気づき、目を細めて微笑んだ。小さく会釈して、空いている席に腰を掛ける。今日のメニューを一瞥してから、「唐揚げ定食ひとつ」といつものように注文した。
「は〜い。唐揚げ定食ですね〜」
声が高くなる。稲田くんは、いつ食べにきても唐揚げ定食だ。なんだか面白い。本音を言えば、他の料理も食べて欲しいけれど。少しだけ母に嫉妬した。
唐揚げ定食をお盆にのせる。唐揚げの色が少し“まだら“な気がした。いつもならどれも綺麗な狐色だけど、油から上げるタイミングを間違ったのかもしれない。ところどころ、たぬき色になっている。作ったばかりの味噌汁も、盆にのせた。
「お待たせしました〜」
稲田くんは小さく頭を下げると、箸を握り、嬉しそうに唐揚げに微笑みかけた。
「そういえば、お祓い、大丈夫だった?」
「ふぁい。ふぁいじょうぶでした」
唐揚げを頬張りながら、稲田くんは熱そうに眉根を寄せる。
「あ、ごめんね。食べてる時に」
頭を振って、「大丈夫です。あれから変なことも起きてないんで。ご迷惑おかけしました」と、稲田くんは頭を下げた。
「稲田くんは、何にも悪くないでしょ。気にしないでよ」
私が稲田くんに声をかけた時、背後から大きな声が飛んできた。
「え?! 稲田?!」
綿貫さんの声だ。
「綿貫さん、どうしました?」
私は振り返る。
「香菜ちゃん、今、稲田って言わなかった?」
綿貫さんの額に皺が寄った。心なしか髪の毛も逆立っているように見える。いつもより低い綿貫さんの声が、店内に響いた。
「あ、うん。稲田くんです」
「例の不動産屋の?」
店の空気が震えている。
急な緊張感に、鼓動が早くなった。私は顔の前で手をヒラヒラと振る。
「いやいや、綿貫さん、安心して。稲田くんはもう買収とかしないから。あれはちょっと気の迷いっていうか……」
綿貫さんは、お猪口に入っていた日本酒をキュッと飲み干した。
「いや、香菜ちゃん、そう簡単に信じちゃいけない。人ってのは、騙す生き物なんだよ。いい人間もいるが、悪い人間もいる。しかも私利私欲のために。この男だって、仕事だろ? 香菜ちゃんに取り入った後、何か別の話を持ってくるかもしれない」
綿貫さんは稲田くんを睨みつけた。まるで大好きだった牡蠣にあたってから二度と食べられなくなったのに、それを知っている知人が目の前で美味しそうに牡蠣に舌鼓打っているのを見ながら、「オマエモ、アタレ」と呪っているかのようだ。
綿貫さんの目が泳いだ。
「げ、月白......?」
一言漏らすと、綿貫さんはその場で静かに立ち上がる。「まさかな」と呟いて、稲田くんの向かいの席にでんっと座った。スラリと細身の稲田くんに対して、恰幅のいい綿貫さんは迫力がある。
「なぁ、兄ちゃん。お前の目的はなんだ」
いつもは気さくなおじちゃんな綿貫さんが、ヤクザのような剣幕で凄む。同一人物とは、とても思えない。まるで、噴火直前のカレーのように、綿貫さんの周りの空気が、ぐつぐつと煮えている。
「ん? なんですか? 突然。僕がなにかしましたか? 不動産を売りたい人がいれば、もちろん買いますけど、無理やりに穂結町の買収をしたりはしません」
今度は、稲田くんが綿貫さんを睨みつけた。グラスの水を飲み干して、不躾にテーブルに置く。
「あんただって営業成績を上げないといけないんだろ。みずたま亭で香菜ちゃんと仲良くなれば、町の様子だってわかるようになる。ここには色んな人が来るからな。最初は一軒でも、そこから敷地を広げることだって可能だ」
綿貫さんの鼻息が荒い。
「そんなの、あなたの妄想じゃないですか。僕はそんなことはしません。第一、営業苦手だし。もう、会社を辞めようかと思ってるくらいなんです」
私は慌てて間に入った。
お客さんが綿貫さんと稲田くんしかいないとはいえ、店で喧嘩をされたら堪らない。
「綿貫さん、大丈夫だって。私はここを売るつもりはないし。稲田くんもこう言ってるし」
綿貫さんは右手を拳にして、勢いよくテーブルを叩きつけた。
「綿貫さんっ!」
私は思わず声が大きくなる。
「香菜ちゃん、お母さんの時も狐はすぐに一回手を引いたんだよ。とにかく執念深いやつなんだよ、琥珀は。何度も何度も、俺たちをココから追い出そうと企んでるんだ。火産霊神と水波能売神に気に入られているみずたまも鬱陶しいし、……俺のことも追い出したいんだろ?」
「── 綿貫さん、何の話?」
私は綿貫さんをじっと見た。綿貫さんの視線は、稲田くんを通り過ぎて、その後ろに焦点があっているように見える。
稲田くんの頭がゆらりと揺れた。
稲田くんの目は虚ろで、焦点があっていない。倒れそうになる稲田くんを支えようと、私は体を乗り出す。
その瞬間、電球がバチッと音を立てた。店の中が暗転する。空気がずんと重くなった。頭がチリっと痛みを感じる。喉がグッと押されるような息苦しさを感じ、足元から蛇が這うような気持ちの悪さが広がった。店内は月明かりで照らされている。
「── もしかして、お前、兵六か?」
稲田くんの背後に、琥珀色のモヤが現れた。目を凝らすと、そこには白い肌で赤い着物を着た琥珀が、蜃気楼のように浮かび上がっている。
琥珀の視線は、完全に綿貫さんを捉えていた。
綿貫さんが鼻で笑う。
「やっと気づいたか。いつ、俺のところに来るのかと、待っていたよ」
私は、声を詰まらせて二人の様子を見つめることしかできなかった。綿貫さんは、でっぷりとした腹をポンと叩き、日本酒の酒瓶をそのまま口につける。綿貫さんは口の端にこぼれた日本酒を、手の甲でぐっと拭った。
「兵六、この町から出ていったんじゃなかったのか」
琥珀の声が怒りに満ちて、震えている。
「狐と狸が話し合いをして、そのまま『はい、わかりました』と、町を出ていくと思ったのか。ここは、儂の町でもあるのだ。そう簡単に、出ていくはずがあるわけがない。お前が儂に逆恨みしたせいで、気のいい人間たちに迷惑をかける訳にはいかん。儂は姿を変えながら、ずっとお前の動向を見張っておったのだ」
綿貫さんが腹を叩いた。
ぽんっと軽快な音がする。
「え? 綿貫さん──!」
綿貫さんの変容に、思わず息を飲む。笑っていいのかどうかも、よく分からない。気のいいおじちゃんだと思っていた綿貫さんが、まさか、──人間じゃないなんて。
次回予告 17_急展開のホットケーキ
気のいい酒好きのおじちゃんだと思っていた綿貫さんは、まさかの人間じゃなかった!マジでびっくり!綿貫さんVS琥珀!一体、どうなる……!
