最終話_悟る卵
── 初めての料理教室、うまくいかなかったらどうしよう。
頭の片隅で、声が響く。声を打ち消すように、胸の内で大きく願い事を唱えた。
(初めての料理教室、失敗しませんように!)
本坪鈴の音が、秋の高い空に溶ける。ざっと風が吹いた。少し冷えた風が、肌にまとわりつく。半袖の季節はもう終わりか。私は空を見つめた。焦茶色のポニーテールと、黒いエプロンがふわりと揺れる。
今日は、初めての料理教室だ。
メニューは、いなり寿司と香菜特製、秋野菜の豚汁にした。豚汁の具材は、セロリとさつまいも、それに、たっぷりのきのこ。セロリは攻めすぎかなと思ったけれど、いなり寿司に派手さがない分、何かインパクトを残したい。
愛宕神社に参った後、お稲荷さんにも顔を出す。
最初はちょっと着慣れていない感じがあった赤い前かけも、いい感じに狐の石像に馴染んできた。
琥珀と月白に頭を下げる。
帰りしな、背中から爽やかな風が吹いた。まるで琥珀と月白が背中を押してくれているようで、なんだか嬉しい。思わず振り返り、笑顔を向ける。
帰宅後、神棚に頭を下げた。
エプロンを締め直し、すぐに仕込みに入る。
土曜の昼営業の後に、料理教室を始めることにした。今日は料理教室もあるので、準備に忙しい。
風間さんが産休に入るのに合わせて、料理を教える約束をした。どういう形がいいかとやり取りをしていたところ、料理教室にしようという話になった。その初回が、今日だ。風間さんの友達や、私の友達も習いたいと言ってくれて、初回なのに狭い厨房に四人もやってくる。人に料理を教えたことはないので、うまく教えられるか、正直自信がない。
とはいえ、食べ物の声を聞きながら料理をしていた時だったら、誰かに料理を教えるなんて、確実に無理だったと、今は思う。
「ゆで卵の茹で時間は、卵に聞いてみてください」
「ほうれん草に合う調理法は、ほうれん草が教えてくれます」
なんてことを、言えるわけがない。
声が聞こえなくなってからというもの、感覚的じゃなく、考えて料理をするようになった。それが、こんなところで役に立つとは。数ヶ月前の私には、全く想像ができなかったことだ。
携帯電話が鳴った。画面を見る。達也だ。
── おつかれ。明日の日曜、予定ある?見たい映画があるんだけど、一緒に行かない?
すぐに返信する。
── おつかれ。特に予定ないよ。行く〜。何の映画? まさか、ホラーじゃないよね。
── え? そのまさかだけど笑
── 無理だって!無理!ホラーとかない!
── 幽霊見ても平気な奴が、ホラー無理って笑 嘘だって笑 最近始まったアクション映画。終わったら、飯食いに行こうぜ
── 了解
真っ暗になった携帯電話の画面に映る、私の顔がにやけている。
「ニャア」
厨房の隅の椅子に座っていた菖蒲さんが、私を一瞥して、鳴いた。
「いいでしょ」
私は口を尖らせる。菖蒲さんは、そのまま丸まって、寝息を立てて寝始めた。
名前のない私たちの関係は、案外、居心地がいい。
絶対にこの日に会う、という約束はないけれど、いつだって会える、という安心感はある。自分の道をダッシュし始めた二人には、ちょうどいい距離感なのかもしれない。
ぐぅと腹の虫が鳴いた。
仕込みも大事だけど、まずは腹ごしらえだ。
私は卵を取り出した。すぐにできるホットケーキ。菖蒲さんも大好物の。
冷たいシンクに、かんかんと卵を叩きつけた。
ひび割れたところに、親指を当てて割る。
中から卵が、──出てこない。
「ゆで卵だった?」
そんなはずは、ない。卵は間違いなく、真っ二つに割れている。
私は、手の中に収まっている殻を見た。
── 中身が、空だ。
どこからかケタケタと、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
菖蒲さん?
私は菖蒲さんを一瞥した。
まだ丸まって、眠ったまま。
「くくくくくっ」
声の方向に目をやる。卵の殻から、聞こえてくる。
「あ! 笑ってる?」
「あ! バレた?」
「あ! 喋った!」
久しぶりの卵の声に、私の声が高くなった。
「え? 聞こえてるんだけど! ねえ、なんで、中身が空っぽなの?!」
卵の殻は、不服そうな声色を出した。
「だってさ〜、香菜ちゃん、僕たちの声、無視するんだもん。ずっと喋ってるのに、聞こえないとか言っちゃってさ。いじわるしたくなっちゃうよね」
「いや、ほんとに聞こえなかったんだって!」
「聞く気がなかっただけでしょ。悲しかったな〜」
私は頭を振った。
「ごめん! 本当にごめん!」
「まあ、いいよ。最近、いい顔してるしね」
頬が緩む。いつもの調子が、心地いい。
「ねえ、空っぽの僕、どう思う?」
私は笑う。
「いいと思う。かっこいい」
「え〜。ほんと?」
卵の殻は嬉しそうだ。
「どんなところが、かっこいいと思う?」
「そうだなぁ」
私は、宙を仰いだ。
「可能性が無限にあるところじゃない? なんでも詰められそうだし。そうだ。何か詰めてあげようか」
「え? 楽しそう! どんなの詰めてくれるの?」
「そうだなぁ。プリンとか、茶碗蒸し?」
卵の殻のテンションが、一気に下がるのがわかった。
「そんなありきたりなの、つまんないんだけど。ぜんっぜん、かっこよくない。やり直し。可能性が無限にあるのに、自分で可能性を狭めるのはよくないよ。まずはさ、その固定概念を破った方がいいね。僕みたいにね」
私の腹の虫が、返事をする。
卵が笑って、私も笑う。
「じゃあ、まずは腹ごしらえからかな」
私は、新しい卵を手に取った。
この卵には、中身があるのだろうか。全ては開けてみるまで分からない。もしかしたら、ひよこが出てくる可能性だってある。可能性は無限大。まさか、そんなことを卵に教えられる日がくるなんて──。
私は、ふっと笑う。
今日は、賑やかになりそうだ。
おしまい
