見出し画像

25_颯爽とした素麺

<前を読む      はじめから      次を読む>


エプロンの結び目が、いつもよりキツい。

気合いが入りすぎでしょ、と笑いながら自分で突っ込んだ。土鍋で出される真っ赤な麻婆豆腐みたいに、嫉妬心が燃えている。こんな感情が私のどこに眠っていたのだろうか。淡い桃色に茹で上がった鶏胸肉を、力強く素手で割いた。

夜の営業時間が始まっても、達也と風間さんは顔を見せなかった。
私の声は、いつもより大きくなる。

「香菜ちゃん、今日は元気だねぇ」
綿貫さんが、日本酒を煽った。
「そう?いつもと同じだけど」
誤魔化すように、笑顔を向ける。

「そういえば、お稲荷さん、いい感じに進んでたよ」
綿貫さんは、お猪口に日本酒をこぼれそうなほど注いだ。日本酒の湖面が波打っている。
「ほんと、ありがとうね。香菜ちゃん」
「全然。私、何にもしてないし」
綿貫さんは、お猪口の表面に視線を落としたまま、小さく首を振った。

「でもさ、綿貫さんがまさか、ねぇ」
「ちょ、香菜ちゃん。それは言わないお約束!」
綿貫さんが、顔をあげた。焦った顔が、たぬきみたいで思わず吹き出した。
「言わないって」
「焦らせないでよ〜」

「ちょっと聞いてもいい?」
「いいけど。答えられることなら」
「綿貫さん、ずっとここに住んでるの?」
「そうだね」
綿貫さんはにっこりと笑う。

「寂しい思い出とかさ、あるでしょ? 出て行きたいとか、思ったことなかった?」
笑った顔が、少しだけ寂しそうに見えた。

「もちろんあるよ。それもひっくるめて、穂結町が好きなんだよね。出て行こうかと思ったこともあったけど、出ていかなくて良かったって思ってる。こうして毎日、香菜ちゃんの美味しいご飯が食べられるしね」

綿貫さんはお猪口の日本酒を、一口で飲んだ。

「飲み過ぎじゃない?」
「まあ、こんな夜はいいじゃないの」
「そうだね」

お客さんが、ぽつりぽつりと帰っていく。
時刻は夜七時四十五分近くになっていて、いつの間にやら麻婆豆腐の熱も冷めていた。

すっと戸が開く。
私は入り口に視線を向けた。

「いらっしゃいませ」
「おう、香菜」
手を挙げて入ってくる達也と、その後ろには風間さんがいた。近くで見る風間さんの面影はそのままで、むしろ綺麗になっている。学年で三本指に入る可愛さなだけある。店に入ってきた瞬間、くすんだ店が華やかになった。

綺麗に巻かれた艶のある髪に、ドレープが美しいベージュのワンピース。思わず自分の服を一瞥する。洗いざらしの白いシャツに、動きやすさ優先のジーンズ。それに油の跳ねた、黒いエプロン。

「風間さん、久しぶり」
「水守さん、全然変わってないね!久しぶり!」

はきはきとした口調も、変わっていない。明るくてよく通る声だ。風間さんの、“変わっていない“の一言が、急に飛び跳ねた油みたいに、私の皮膚をチリリと焦がす。

「風間さんは、さらに綺麗になっててびっくりした」
私はお世辞に見せかけた牽制をしてみたが、爽やかな笑顔で、「ありがとう。嬉しい」と返された。はぁと小さくため息を吐く。
勝てる気がしない。

今日のメニューを手渡す。
「何これ。新メニュー? めっちゃ美味しそう。俺は、にんにく味噌豚バラ焼き定食ね。風間さん、どうする?」

付き合っていた時は下の名前で呼んでいた気がするけど、今は名字で呼んでいるのか。仕事中に呼び捨てはありえないから、外では名字で呼んでいるのかもしれない。風間さんは、真剣な顔でメニューを見つめる。

「この鶏胸肉とカボスの素麺が美味しそう。これにする」

「はい。かしこまりました」
私は、厨房に戻る。豚バラをフライパンで焼いている間に、大きな鍋で素麺を茹でる。素麺は作り置きもできるけど、やっぱり茹でたてに限る。こんがりと焼けた豚バラに、ニンニク味噌のタレを回しかけた。じゅうっと湯気がのぼる。大きな鍋からもモワモワと湯気が立ち上った。二つの湯気が絡まって、換気扇に吸い込まれていく。仲良さげな湯気に嫉妬した。こんなことにまで嫉妬するって、もしかして私って病気なのかもしれない。

「お待たせしました〜」
「うわ、うまそう!」
「こっちも美味しそう!」
「どうぞ、ごゆっくり」

私が厨房に戻ろうとすると、風間さんが私を呼び止めた。
「せっかくだから、水守さんとお話ししたかったのに。今、お客さんもちょうどいないし」
上目遣いが可愛らしい。
私は眉根を寄せた。

「じゃあ、ちょっと片付けてから。せっかくだからゆっくり食べてて」

厨房に戻って、腕まくりする。溜まった洗い物を端から片付けていく。もちろん後でもできるけれど、今しておきたい。いつもより丁寧に洗い、時間稼ぎをする自分に、笑いが込み上げてくる。

「香菜、これめっちゃうまい!」
「水守さん、このお素麺、すごく美味しいんだけど」

「ありがとう」
二人が美味しそうに目を細める様子を、厨房から覗いた。思わず口角が上がる。素直に嬉しい。今日のは、どちらも私考案のメニューだ。ガッツリ系の豚バラに、さっぱりしてるけど、しっかりタンパク質も取れる素麺。

「まだ終わらない? 香菜、ちょっと来れない?」
達也に呼ばれて、私は手を拭いた。
「── 何?」

二人のテーブルのそばに立つ。
「ほら」
達也が、風間さんを肘で小突く。
「ちょっと頼み事があって──」
風間さんが恥ずかしそうに、目を伏せた。

嫌な予感がする。心拍が速くなった。

「あのね、水守さんに料理を教えてもらいたいんだけど!」
「え? 料理?」
想像していない言葉に、サビ抜きを頼んだのに大量にわさびが入っていたお寿司を食べたみたいに、私は目を見開いた。

「前田くんが、水守さんの料理をいっつも褒めてて。私、料理が壊滅的に下手くそで。でも、そろそろ料理を覚えないとなって思ってたんだけど、前田くんが水守さんに習えば?って提案してくれて」

私は達也を睨む。結婚するから、婚約者に料理を教えろってことだろうか。

「ごめんって、香菜。勝手なこと言って。でも、風間さんも、ほんとに真剣なんだよ」
私は無神経な達也の顔を一瞥すると、唇を閉じたまま舌で上顎を弾く。

風間さんが「お願いっ!」と両手を合わせた。

「── えぇ?」
あまりに真剣な顔をしている風間さんを見て、私は思わず目を白黒させた。戸惑う私をよそ目に、風間さんは続ける。
「あのね、私、今、お腹に赤ちゃんがいて」
「── えぇっ?!」
「料理が苦手だから、仕事が忙しいのを理由に、デリバリーとか外食で済ませてたんだけど、流石に赤ちゃんが産まれたら、料理できたほうがいいかなって」
「確かに……」
「夫も料理が苦手で、どうしようもなくて」

「── お、夫?!」
「そんな時、前田くんが入社してきて、水守さんの話を聞いて。お願いします! 時間がある時でいいので、料理教えてください!」

必死に訴える風間さんに、私は呆気に取られた。
「え? 風間さん、結婚してるの?」
風間さんは、左手の甲を私に向けた。
「そうなの。昨年結婚して、今、妊娠五ヶ月なんだ。職場ではまだ風間のままだけど。今は、望月って言います」
はにかんだ風間さんが、いつもの二割増で可愛い。

「お、おめでとう!」
動揺で声が震えた。

「前田くん、本当にいいタイミングで入社してきてくれて。心から助かってる。私、事務でHOMUSUBI CRAFTに入社したんだけど、営業みたいなこともやってて。妊婦には厳しいなって思ってたから。前田くんはこれから、大変だと思うけど」
風間さんが達也に向き直った。
「任せとけって」
「ほんと頼りになる。安心して産休に入れるよ」

急に肩の力が抜ける。
「料理教える話、考えとくね」
「ありがと〜」
風間さんは、私の両手を握りしめた。

「つわりが終わったら、食欲が増してきて」
風間さんはそう言うと、ペロリと素麺を平らげた。
「ごちそうさまでした。すごく美味しかった! 料理、教えてもらうの、楽しみにしてるね!」

風間さんは、すっくと立ち上がると「連絡先、交換して」と携帯電話を取り出した。私も携帯電話を取り出して連絡先の交換をする。ライバルでもないし、普通にいい人で膝から崩れ落ちそうになった。

「送ろうか?」
達也が声をかけると、風間さんは首を振った。

「ありがとう。夫が迎えにきてくれてるから、大丈夫。前田くんも、入社してからずっと忙しかったから、水守さんのところに来るの、久しぶりでしょ? 私のことは気にせず、どうぞごゆっくり」

風間さんは、ワンピースの裾をひらりと翻して、風のように去っていった。

「風間さん、結婚してたんだね」
「そうだよ。言ってなかったっけ?」
「聞いてない」
「妊娠までしてたんだね」
「そうだよ。言ってなかったっけ?」
「聞いてない」

私は口を尖らせた。

「香菜、何怒ってんの?」
「怒ってない」
「それより、久しぶりだし、今から飲まない? 話したいことがあるんだ」

私も、とぼけた達也に言いたいことは、皿に載せきれないくらいにたくさんある。



次回予告 26_込み上げるクラフトビール
達也の話ってなんだろう。少しだけ緊張する。
私の言いたいことは、絶対に、今日伝えるんだ。

#創作大賞2025 #ファンタジー小説部門


いいなと思ったら応援しよう!