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「また明日ね」と言えることについて



「また明日ね」と言える関係と、自分のためが誰かのためになるということ

「時すでにおスシ」というドラマを見ていて、ふと気づいたことがあります。

劇中で交わされる「また明日ね」という言葉。

何気ないあいさつのはずなのに、よく考えると、この一言には「明日もあなたに会える」という確信が静かに宿っています。

疑いも、確認も、保留もない。

ただそれが当たり前のこととして、軽やかに交わされる。

学生の頃を思い返すと、そういう言葉を自然に使っていたような気がします。「また明日ね」「またね」「じゃあね」。そこには、明日という時間の存在を疑う余地がありませんでした。

大人になるにつれて、「また連絡するね」「都合が合ったら」という言い方に変わっていく。

悪いことではないけれど、あの頃の無邪気な確信ごと誰かとつながれていた感覚は、なんだか懐かしくて、少しだけ羨ましい。

同じドラマの中で、もうひとつ心に残った話がありました。

自分のために始めたことが、気づけば誰かのためになっていた。逆に、誰かのために始めたことが、気づいたら自分を支えていた。

そういうエピソードが描かれていて、見ながら「これは仏教っぽいな」とぼんやり思いました。

仏教には「縁起」という考え方があります。すべてのものはつながり合い、関係の中でのみ存在している、という見方です。自分と他者は切り離された別々の存在ではなく、互いに影響を与え合いながら成り立っている。

「自分のため」と「誰かのため」が最終的に溶け合っていくのは、そもそも境界線が曖昧だからかもしれません。

思えば、このnoteもそうかもしれません。最初は自分の考えを整理したくて書き始めました。

誰かに読んでもらいたいという気持ちもあったけれど、根っこにあったのは「書かずにはいられない」という感覚でした。

それがいつの間にか、読んでくれた誰かの朝のコーヒーのお供になっていたり、「自分もこんなこと考えてました」と共鳴してもらえたりする。

自分のためが、誰かのためになっている。

そのことに気づいたとき、少し不思議な気持ちになります。「ありがとう」と言いたいのか、言われているのか、わからなくなるような感覚。

でも、それがちょうどいいのかもしれません。与える側と受け取る側がきっぱりと分かれていない関係。

そこに「また明日ね」と言い合えるような、あたたかい何かがある気がするのです。

ドラマ一本から、思いのほか遠くまで来てしまいました。でも、日常のふとした言葉や場面が、こんなふうに思考の入り口になることが、私はけっこう好きです。

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