飛躍舞台:躍動するポップスターたち 【香港カントポップ概論:1980年代②】
【一代一聲音〜時代の声、時代の詞〜:香港カントポップ概論】
1980年代編: ”今夜星光燦爛" スターたちの時代 ②
ダニー・チャンが主演した2作の青春映画で、傍らで引き立て役をしている青年がいた。ダニー演じる純朴でまっすぐな印象の役とは対象的に、彼が演じるのはちょっとやんちゃで嫉妬深い、ようするにヤなやつで、つまりは青春ドラマの典型的な噛ませ犬役だった。
当時ダニー目当てで映画館に足をはこんだ客は、あるいは「へー、この子もカワイイじゃん」とは思ったかもしれないけれども、後に彼がダニーはるかに凌駕する香港芸能界最大のスターになるとはきっと想像もしなかっただろう。
彼の名は張國榮。英語名はLeslie。日本では「レスリー・チャン」として知られている。

(私が持っている彼のCDの一部。彼のアルバムはオリジナルも、ベスト盤もジャケットのクオリティが高くてついつい集めてしまう。)
日本のファンも多いこの人については、日本語でもいくつも本が出版されている。
なかでも松岡環さんの『レスリー・チャンの香港』(平凡社、2008年)はリアルタイムで彼に接したファンとしての情熱と、丹念な取材で得た豊富な資料がバランスよく組み合わさった良書。残念ながらAmazonでも新品では手に入らないみたいだけど、レスリーを通して戦後香港芸能史も概観されているから、カントポップの歴史を知るにも現在ある日本語の資料としては最良のものになっていると思う。ぜひ中古で入手したり、図書館で読んだりしてみてほしい。
そんな風に香港はもちろん日本でも愛されたレスリーはダニーとほぼ同世代の1956年生まれ。1977年、TVBの唯一のライバルだったテレビ局RTV(麗的電視、のちのATV 亞洲電視)の開催する歌唱コンテストで準優勝して同局との専属契約を勝ち取り、芸能界入りを果たす。
1978年、ポリドールから英語アルバム『Daydreamin'』をリリース。1979年には広東語アルバムの『情人箭』もリリースしている。
ようするに1979年にデビューしたダニーとはほぼ同期なんだけど、レスリーの方はしばらくは鳴かず飛ばずだったらしい。完全に私の主観だけど、一見地味なダニーとは違って、レスリーの方は当時のアルバムジャケットやら写真やらをみても「絶対売れるでしょ」というくらいのキラキラしたイケメンなんだから人気がでなかった理由がわからないのだが、とにかく彼にはまだまだ下積み時代が続く。
このレスリー下積み時代、というのは香港芸能史においては半ば故事成句と化していて、「レスリーですら10年我慢したのよ!」(連張國榮都要熬十年!)と言うのはある種の諺になっているともされる(何言『夜話港樂2』香港中和、2015年、310頁)。たぶん「才能があってもすぐ評価されるとは限らないから頑張れ」みたいな意味だ。
といってもデビューから数えれば「10年」というのはさすがに大げさで、1982年RTVとの契約を打ち切り、TVBの関連会社だったキャピタル(華星)との契約を勝ち取ったことで転機が訪れる。デビュー5年目の年、1983年にリリースしたアルバム『風繼續吹』から、山口百恵の『さよならの向こう側』の広東語カバーである表題曲がヒットした。
我勸妳早點歸去 妳說妳不想歸去
(早く帰れよと言う僕に 君は帰りたくないという)
衹叫我抱著妳
(ただ抱きしめてよ と)
悠悠海風輕輕吹 冷卻了野火堆
(悠然と海風がそよぎ 焚き火を冷やしていった)
我看見傷心的妳 妳叫我怎捨得去
(傷ついた君を見る僕に 見捨てないでと君は言う)
哭態也絕美 如何止哭
(泣く姿すら美しい どうにか涙をとめようと)
衹得輕吻妳髮邊
(ただ君の髪にそっと口づけをした)
1980年リリースの原曲は、すでに結婚・引退を発表していた山口百恵の、少しサバサバした印象のお別れソングだったわけだけど、鄭國江作詞のレスリー版の歌詞はそれとは違って別れを拒むようなロマンチックな歌になっている。
讓風繼續吹 不忍遠離
(風よ吹き続けてくれ 離れるのはいやだ)
心裡極渴望 希望留下伴著妳
(心の中ではこんなにも このまま君といたいのに)
風繼續吹 不忍遠離
(風は吹き続ける 離れるのはいやだ)
心裡亦有淚 不願流淚望著妳
(心では泣いていたけど 君に涙は見せたくない)
レスリー版のリリース当時、山口百恵の劇的な引退からすでに3年がたっていたけど、香港では彼女出演のドラマ「赤いシリーズ」がTVBで放映されたりしていて、少し遅れて人気になっていたらしい。彼女の歌は、レスリーの他にもこの時代のもう一人のスターにして香港芸能史上最大の歌姫を世に送りだすことになる。
さらに翌年1984年には吉川晃司のデビュー曲『モニカ』の広東語カバー(『Monica』)をリリースして大ヒットとなり、一躍トップスターの座に上り詰めた。
(うん、そうなんだ、MVがどうしようもなくダサいんだ。でも本人はそれでもカッコいいでしょ、すごくないですか?)
吉川晃司のオリジナルの印象的なサビの英語は広東語詞でもそのまま残されている。
Thanks Thanks Thanks Thanks Monica
誰 能 代 替 妳地位
(誰 も いない 君の 代わり)
『Monica』は、どちらかというと演歌長のバラード(かサム・ホイ風のちょっとコミカルなロックンロール)が中心だったカントポップ界に、アップテンポな踊れるラブソングという新ジャンルをもたらした。
この新潮流は、翌1985年に譚詠麟(アラン・タム)が歌いヒットさせた『愛情陷阱』(恋の罠)で決定的になる。レスリーもアランも特別歌が上手いわけではなく、圧倒的なルックスと華やかなステージパフォーマンスで「魅せる」タイプのシンガーだったから、こういう曲調があっていたのだろう。1980年代後半の香港歌謡界は彼ら2人がリード、というより「支配」する時代になる。
我墮入情網
(恋の網にかかった僕を)
你卻在網外看
(君は網の外から見ていて)
始終不釋放
(ずっと放してくれない)
你笑笑看看我
(ただ笑って見てるだけ)
是望著獵物
(獲物でも見るように)
我心已傷
(心はボロボロさ)
アラン・タムはレスリーのような新人とは違い、1970年代初頭、英語バンドThe Wynners(溫拿樂隊)のメインボーカルの一人としてすでに活躍し、名前を知られていた。
(その時代のヒット曲『LOVE』。この曲のメインボーカルは、このグループからもう一人ソロで売れた鍾鎮濤。5人で肩を組んでるとき一番右にいるのがアラン。ちなみに英語曲なのに作詞はジェームズ・ウォン。ジョセフ・クーとこの人の名前は本当に「またお前か」状態でどこにでもあらわれる。)
(このインタビューでも、アルバート・アウが、The Wynnersのアランといえばすでに香港中で知られたアイドルだった、と振り返っている。)
でもソロでのブレイクのきっかけが日本語楽曲のカバーだったのはレスリーと同じだ。The Wynnersが事実上解散した1978年以降、一時は台湾に戻って映画に出演したりもした後に、1981年に五輪真弓『恋人よ』のカバー『忘不了您』が大ヒットしたことで再び香港歌謡界に返り咲く。
1984年に、H2Oの『想い出がいっぱい』のカバーを収録した『霧之戀』、安全地帯の『ワインレッドの心』、Alfeeの『メリーアン』を収録した『愛的根源』と、2枚のアルバムを立て続けにヒットさせる。「愛」3部作の3枚目にあたる『愛情陷阱』も、『カントポップ簡史』によればまさに「飛ぶように売れた」という。
タイトルトラックは、カバーではないもののチェッカーズへの曲提供などで有名な日本の作曲家・芹澤廣明が曲を書いている。なお同曲は、日本では若干一部異なるアレンジがされ、宮里久美という歌手が歌う『背中ごしにセンチメンタル』としてリリースされている(香港では『愛情陷阱』の原曲として扱われることも多いけど、厳密には別曲扱いらしい)。
残念ながら私はこの歌手もこの曲もまったく聴いたことがなかったのだけど、アラン・タムの歌った広東語版は世代を問わず知らない人はいないであろう大名曲になっている。ヒット曲を産むのは単純に曲のクオリティだけではない、という一つの例だろう。
そんなわけで、1980年代半ば以降のカントポップは返り咲いたスーパースター、アラン・タムと、期待の新星レスリー・チャンが賞レースを争う人呼んで「譚張爭霸」時代に突入する(『夜話港樂2』)。
TVBが1984年から放送している香港のレコ大的な『勁歌金曲頒獎典禮』の80年代の「最受歡迎男歌星」(最優秀男性シンガー)賞受賞者は以下の通り。
1984年度:アラン・タム
1985年度:アラン・タム
1986年度:アラン・タム
1987年度:アラン・タム
1988年度:レスリー・チャン
1989年度:レスリー・チャン
どんどん過熱する注目に耐えかねてかアラン・タムは1988年に賞レース引退を発表(だから以降レスリーが最優秀男性歌手賞を取っている)。レスリーも翌年に歌手活動引退を宣言して2人の時代は終わりをつげる。
(レスリーのさよならコンサートのライブ盤。山口百恵さながらマイクをステージの中央に置くパフォーマンスを行ったという)
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同じ時期、女性歌手で覇権をとったのが、1984年の映画『綠份』(邦題『君が好きだから』)でレスリーと共演した梅艷芳(アニタ・ムイ)だった。
1963年生まれのアニタは父親を早くに亡くしており、家計を助けるために幼い頃から姉とともにステージで歌っていた経歴を持つ。そんな経験もあってか1982年、TVBが主催したタレント発掘コンテストである第1回「新秀歌唱比賽」に出演した際には若干18歳ながら堂々たるパフォーマンスを見せて、審査員のジェームズ・ウォンとジョセフ・クーが、それぞれ100点と99点を与えたという伝説も残っている(クーは満点を与えない主義だったようなので99点は事実上の最高評価である)。
そんなわけで、鳴り物入りで歌謡界デビューを果たしたはずの彼女だったけど、レスリー同様にはじめは不遇の時代をすごす。
1982年に出したアルバム『心債』は、B面には彼女の歌ではなく同じコンテストに出場した別歌手の歌が収録された不完全なデビューアルバムだった。
翌年1983年には、深みのある低音に特徴があり同様のスタイルを持つ先輩歌手のポーラ・チョイ(徐小鳳)にも例えられていた(先述のコンテストで披露したのも彼女の曲『風的季節』だった)アニタとしては意外なことに、なぜか『ドクタースランプ』主題歌の広東語版(『IQ博士』;香港ではTVBが放送)を歌わされており、皮肉にもこれが彼女の最初のヒット曲となる(歌手の名前なんて意識されてなかっただろうけど)。
同年、同じくTVBが広東語版を放送していた山口百恵主演ドラマ『赤い疑惑』、『赤い衝撃』の主題歌を含む『赤色梅艷芳』で、ようやくまともなソロアルバムデビューを果たすとこれがヒットして期待の新星として注目されるようになった。
翌年の1984年にリリースされたアルバムのタイトル『飛躍舞台』にまさにあらわれているように、アニタは、レスリー・チャン、アラン・タムが作り出した煌びやかなステージパフォーマンスのブームにのってステージで躍動し、「張譚時代」の歌姫として君臨する。
先述の香港のレコ大『勁歌金曲頒獎典禮』、最終週女性歌手賞の歴代受賞者は以下の通り。
1984年度:ジェニー・ツェン
1985年度:アニタ・ムイ
1986年度:アニタ・ムイ
1987年度:アニタ・ムイ
1988年度:アニタ・ムイ
1989年度:アニタ・ムイ
彼女の魅力はどんな曲調の歌でもその世界観に合わせてしっかり演じて歌いきるパフォーマンス力で、1985年には『似水流年』のようなしっとりした大人のバラードを歌ったかと思えば、ジョージ・マイケル『Careless Whisper』のカバー『夢幻的擁抱』ではミュージックビデオで宝塚バリ(とは香港の人は思わなかっただろうが)の男装を披露している。
(どことなく玉置浩二風な気もする)
I'll never gonna dance again
(もうダンスは踊らない)
那段快樂一世紀念
(あの幸せな人生の記念に)
雖可假裝輕鬆點
(フリでもできれば楽だけど)
怎麼忍將心再欺騙
(これ以上どう心を騙せるだろう)
與你跳舞我自願
(君とは心の底から踊れた)
快樂會是緊貼你面
(君の顔に幸せが張り付いて)
So I'll never gonna dance again
(だからもうダンスは踊らない)
和別人沒法跳得自然
(他の人とは自然に踊れないから)
その後も1986年のシーナ・イーストンのカバー『壞女孩』では(非常に1980年代感の濃厚な)「バッドガール」を演じたり、1987年の『烈焰紅唇』ではセクシーなパフォーマンスを披露したりと、まさに変幻自在の活躍で、「樂壇女王」、「東洋のマドンナ」そして「百變天后」(百変化の歌姫)というもはやモンスターさながらの(実際『妖女』という歌も歌っている)称号を与えられている。
(うん、Monicaほどじゃないけど、MVダサいよね。
でも本人カッコいいでしょ、すごくないですか?)
紅唇 烈燄 極待撫慰
(赤い唇が 燃え上がり 慰めを待っている)
柔情 慾望 迷失得徹底
(心が 欲望が もうまったく制御できない)
香港歌謡界のスターの慣例通り、彼女も俳優としても活躍した。特に先述の『緣份』をはじめレスリー・チャンとの共演で印象的な作品を残していて、1987年の名作映画『胭脂扣』(邦題『ルージュ』)では、現代に蘇った1930年代の幽霊という難しそうな役柄を見事に演じている。
(おばけ映画だけど怖くないからぜひ見てほしい)
そして、そんな盟友レスリー・チャンの「引退」の後を追うように、1991年アニタも引退を宣言し、カントポップの歌姫の座もしばらく空位となる。
2003年、レスリー・チャンが飛び降り自殺をした8ヶ月後の12月30日、アニタは再び後を追うようにして子宮頸癌によりこの世を去ってしまう。
黄金時代をささえた2人の早すぎる死はカントポップの時代の終わりを人々に強く感じさせることになるが、それはまだ先の話。
1990年代のカントポップは新たなスター、歌姫が覇権を争う二度目の黄金期を迎える。「引退」した2人もカムバックを果たし、またしばらく活躍する姿をみせてくれることになる。
→ (3)日本娃娃:カントポップとニッポン
