それでも僕は「グレート・ギャツビー」を読む
僕の悪い癖は、自分を卑下しすぎてしまうこと。それを抜きに話すというのは、僕にとって実はとても大変なことなのであるが、やってみようと思う。しかし思うに、僕には謙遜と傲慢のふたつの切り替えスイッチしか内蔵されてないように感じる。だから大変なのだ。そこで今回はあの子供のころにやったように、スイッチをなるべく平均を保って話をしたい。
四十人ほどがひしめき合う教室の中で、まんま僕と同じ感性の人間はいない。それどころか、八十億を巡っても、そんな人間に出会えるかなんてわからない。友だちがいないわけではないのだ。しかし彼らと僕は「違う考え」を持っている。断っておくが、これに上下を振りたいわけではない。全ては尊重されるべき考え方の一つで成り立っているのだ。さらに言えば僕はその部分において、他には得られまい価値を感じているのだ。人と交流する素晴らしさというのは、そこにあると思う。考えてみれば、僕だって真に自分と全く同じ考えの人間と接したいわけではない。それはドッペルゲンガーだろう。もし会えば僕は砂状になって消えてしまう。僕があってみたい人は、まさに「ノルウェイの森」の主人公、ワタナベだ。
さて彼の評価は人によってまちまちだが(否が目立つように感じるのは勘違いだろうか)、僕にとっては魅力的な人物に見えた。彼の紹介については、今回は省こう。未読の方は是非読んでみてほしい。
彼は読書家で、僕の年齢ほどでもたくさんの本を読んでいる。彼はそのお眼鏡にかなった小説を繰り返して読むタイプで、その点で僕も合致し、より彼への興味を深める点となった。一冊の小説が人に与える影響というのは計り知れないほど大きいのだ。その向き合い方に共感した。そんな彼が愛読書として挙げてるのが、フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」だ。作中でもこの本きっかけで、ワタナベは新たな交友関係を気づくことになる。
こういってしまえば実に身も蓋もない話だが、僕はワタナベに影響されて、ついに「グレート・ギャツビー」を買ってしまったのだ。ミーハーである。ところで前段でああは言ったものの、僕自身は大した読書家ではないのだ。どうだろう、もしワタナベが現実世界に存在していて、何かのつながりで僕と出逢い、この事実を知ったなら。彼は僕を軽蔑するだろうか。この答えは知る由もないので、考えても答えは出ないが、僕がスッキリしていないことが、なによりも問題に感じる。これは自分自身の問題に帰結した。
そう、別にワタナベは現実世界に存在しないのだ。彼に「媚び」を売ろうが無意味な話だ。では僕は、五九〇円(税抜き)の文庫本を捨てるか?答えは、否。もちろん読む。単なるもったいない精神でこう話しているのではない。僕は、この作品が、きっと人生に作用してくれることを確信している。こういった体験を通して、人の心に触れることを学ぶ機会に思っているのだ。
「グレート・ギャツビー」という一例を出したが、万物に共通して言えることでもあると思う。何かに影響されるというのは、ミーハーなんて呼ばれ方をして、どうも好く思われない節が未だにある。しかし僕は、むしろ激励したい!ウェルカム、ミーハー(自己擁護である)!いろんな文化に触れられるだけ触れて、自分の中に吸収すればいいではないか。少なくとも僕は積極的にそうしたい。もちろん、死ぬまで。
