まちが、まるで人間みたいに歳を取る
大学の同窓会の用事で、久しぶりに金沢に行った。
ふるさとではあるが、今さら「帰った」という感じはしない。
就職で上京してからもう40年以上経っているわけで、
そりゃそうだよな、と思う。
それでもだいたいの地理は体に染み付いている。
そもそもそれほど大きなまちではないから、どちらに向かえばどこに行くかはわかる。
街並みは、変わっているようで変わっていない。
来るたびに少し奇妙な感覚になる。
古い城下町だから、ということなのだろうか。
その中でも変わるところはかなり変わっている。
観光地だから、外から来る人のために、常に新しいお店や施設が出来ていく。そういう意味での新陳代謝は続いているはずだ。
しかし、ベースは変わらない。
古さをキープしないと良さがなくなるから、
伝統を守りつつ新しくする必要があって、その結果
どんどん「新しいものが、古さを演出するためにつくられていく」という変なことが起きる。
結果的に変わってるようで変わらない、不思議なまちが出来上がる。
そんな感じを楽しむような気分で、ぶらぶら歩く。
街中の移動はバスがメインなので、待ってるくらいなら歩いた方が早い、と思うことも多い。
天気も良くて最適だ、と言いたいところだが、暑かった。
歩き出して100mで、もう後悔する。
石川門下から大手堀方向へと続く「白鳥路(はくちょうろ)」という道がある。
整備された遊歩道というよりは、昔からある抜け道みたいな小道で、街中にいきなり森がある、みたいな気分になる。

今回初めて気づいたんだが、案内板の表記が「お堀通り(白鳥路)」となっていた。もともとただの「白鳥路」だったはずで、いい名前なのになぜわざわざ、あまり風情を感じない名前を乗っけなければいけないんだろう、と思った。
たぶん、初めて訪れた観光客にも「わかりやすい」からだろう。外国の方も多いから、粋な名前より、平易な名前が喜ばれるのかもしれない。
白鳥路を抜け、広い通りに出ると「百万石通り」と表示されていた。
昔はそんな名前じゃなかったと思う。
一見、歴史を感じるようだが、たぶん地元の人からするとあまりにも当たり前な名前だと思う。何も示していないどこか大雑把な感じがする。
これも古さを守りながら、変えていく「新しい部分」なのかもしれない。
どこか、うまくハマっていないレゴブロックみたいに感じてしまった。
東京のように、どこもかしこも再開発、根こそぎぶっ壊して作り直すから、もうここがどこだかわからない、みたいなものとは全く違う。
金沢のきっと8割9割は昔のままで、それらはやっぱり劣化していくから、街全体の印象も大きくは劣化していっているように見えた。
裏通りのビルは夏の日差しに焼かれて色を失っているようだ。
小さなヒビが入り、このまま時間が経てば、いつの間にか砂になってしまう。そんなイメージが頭をよぎった。(そんなわけはないんだけれど)
古さを守り続けるまちは、根こそぎの再開発ができないまちでもある。
少しづつ、少しづつ、変わっていくしかない。
うまくいってると感じる部分も多い。
長町の、用水に面して続く武家屋敷のエリアは、ちゃんと風情を伝えながらすごく綺麗になっていた。
そして、そのぶん、表通りの片町、香林坊はかなり色褪せているように見えた。どうやら、あっちもこっちも、というわけにはいかないらしい。
その感じが、本当に人間の新陳代謝みたいだと思った。
だとすると東京はサイボーグかアンドロイドだな。
変わることは難しい。
変わらないことも難しい。
