「散歩道」を「さんぽどう」と読んだ瞬間、修行が始まる
「散歩道」という言葉がある。
「散歩みち」と読む。
車道や歩道みたいに、道を「どう」と読むときと、
「散歩道」や「並木道」のように「みち」と読む場合があって、
きっと何かが違うんだろうとは思う。
ニュアンスとして「どう」は硬くて、「みち」は柔らかい。
「どう」は人がどう思おうと(洒落ではなく)そこにあるもので、いつ誰が通ろうと関係がない。
一方で「みち」は「人」が歩いている雰囲気がある。
車で「近道」をすることもなくはないが、「寄り道」するのはやっぱり人っぽい。
「けものみち」はケモノが通る道だが、そこを人が使っているからこそのネーミングではある。
「散歩道」などはもう、人にだけ許される道である。
なんとなく当てもなくブラブラする。目的はあるようでないようで、「道」そのものよりは、そこを歩いてる「こと」込みの言葉だと感じる。
「並木道」は雰囲気は似ているが、そこに並木がある、という事実の方を優先している。並木道を散歩することもあるが、その場合は、「並木道を散歩道にした」ということになる。ちょっとレイヤーが違う。
「味の散歩道」と呼ばれるものが、デパ地下なんかにあったりする。
「プロムナード」などという呼び方もある。
真面目に考えれば、建物の中に道があるのか、とも思うが、「通り道」は別にデパートにも、駅の構内にもある。人が歩けばそれは道と言える。しかしその場合「どう」は使わない。
例外は「地下道」か。
あれは人が歩いても「どう」である。
なぜだろう。あまり地下をうろうろ散歩する人はいないから(危ない人だ)だろうか。しかし、札幌の地下みたいに地下そのものが街になっているような地下道もあるから、一概には言えない。
その辺が曖昧だから「地下通路」なんていう別の呼び方があるのかもしれない。
散歩道を無理やり「散歩どう」と読んでみるとどうなるか。
こうなると「散歩道」の散歩が、急に修行に思えてくる。
京都の「哲学の道」みたいに、散歩は思いを巡らせながら歩くことも多いから、無くはないんではないかと思う。
しかしこれだと、目的もなくブラブラする散歩とは別の、何か自分を高めるためのものに見えてくる。
「散歩道の極意その一、散歩に出る時は、まず右に行くか左に行くか決めておかなければならない」みたいなことになりかねない。
別にそれでもいいのかもしれないが、やっぱり散歩は何も考えないのがいいような気はする。
「何も考えない」もそれはそれで突き詰めると「禅」みたいになる可能性があるからそこは注意が必要だ。
「散歩道の極意その二、歩き続ける中で、すべての雑念は排除されなければならない」になってしまうと、これはもう散歩ではない。
「どう」は場所だが、「みち」は生き方っぽい。
これはこれで正しいのだろう。
散歩に目的は必要ないが、曲がり角に来ればどちらに行くかを考えないわけにはいかない。それこそ人生だと言ってしまえば言える話ではある。
人生という道があるとして、人は目的を持って歩いているのか、と聞かれたら、「それはカッコいいけど、なかなかそんなふうにはできないよね」と答えるしかない。結局は行き当たりばったりで、散歩みたいなもんだよな。と思ってしまう。
そういえば、道は「未知」と同じ音だ。
偶然だろうけど、よくできてるな、と思った。
