僕がツナマヨおにぎりを二つ買えない理由
「同じおにぎりを二つ買ってもいいんだよ」という名言がある。
昔、ネットでバズった言葉らしい。
なるほど、言われてみればそのとおり。まったく気づかなかった。そんな決まりはないのに、なぜか人はそう思い込んでいる。ツナマヨが好きならツナマヨふたつ買えばいい。
と、思いつつ、実際にはなかなかできないものだ。
理由は簡単である。レジで「この人、よっぽどツナマヨ好きなんだな」と思われるのが嫌だからだ。個性的な行動をとると、いろいろ想像されてしまう気がする。ホントに思われるかどうかはわからないが、されるかもな、と、勝手に恥ずかしがってしまう。
好きなもの、には何となくヤバめのものが多い。「え、これ二つ、いっちゃうんですか?」なものほど、本当は買いたいものだったりする。そんな姿を人には見せたくない。密かに毎日ラーメン食べてるんだけど、それを人には言えないのと同じだと思う。
じゃあ健康的な「梅干しおにぎり二つ」ならいいのか。というとこれもまた想像力を掻き立てる。渋い趣味だな、とか、高いのは買えないのかな、とか。
ほとんど被害妄想だと思う。レジの人だって、いちいち客が何買うかなんて、チェックするほど暇じゃない。なーんにも思ってないだろう。しかし自分では考えてしまう。大袈裟だが、自分との戦いだ。
そんな戦いに力を使うくらいなら、違う種類を2個買えばいい。だいたいの人は、そうやってうまくやっている。だからあの名言は、いいこと言うな、ではあるものの、現実ではあまり機能しない。
同じものを二つ買わないのも、派手すぎる組み合わせを避けるのも、健康っぽいものを一つ混ぜてバランスを取るのも、“見えない誰か”に気を遣っているからだ。僕らは、おにぎりを選ぶつもりで、「自分のイメージ」を選んで、それをレジに持っていく。
だから、「同じおにぎりを二つ買ってもいい」というのは、実は行動の話ではなくて、「他人の視線から自由になってもいい」という宣言だったりする。なんかいいこと言うな、と思う理由はその辺にありそうだ。
人は「選んでいるようで、選ばされている」。
これって、おにぎりだけの話じゃない。何気ない言葉を発するときも、人生の岐路に立たされたときだって、僕らは“自由に選んでいるつもり”でいるが、実は、「どう思われるか」という、見えない誰かの視線に誘導されている。
自分の中にいる“もう一人の客”をどう扱うか、という問題だ。
そしてそいつは、だいたい余計なことしか言わない。
解決策として、いっそのこと「ツナマヨを5個買う」という手がある。
二つだから一人で食べると思われるわけで、いっそ五つ買ってしまえば、みんなの分も買ってるんだな、になる。
問題は、好きでも5個食べるのは、さすがに無理。ということだ。
人はそこまでツナマヨに人生を賭けられない。
