茶道や華道があるなら、あ道があってもいいじゃないか
日本人は、何にでも「道」を作りたがる。
たとえば「茶道」って、よく考えるとかなり不思議だ。
今でこそ世界に誇る文化みたいになっているが、出発点は「お茶を点てる」という、ただそれだけの行為である。
それを突き詰め、思想を乗せ、哲学を乗せ、ついには宇宙にまでしてしまった。
冷静に考えると、かなり凄い。
というか、ちょっと異様ですらある。
発端はただのお茶だった。
それを好きになりすぎて、考えすぎて、深めすぎて、ついには「道」にしてしまった。
言ってみれば、マニアがその先に真理を見つけてしまったようなものだ。
でも、そこでふと思う。
別に、お茶じゃなくてもよくないか。
何だって、突き詰めていけば「道」になる。
柔道は、もともとは柔術だった。
格闘技術を、精神修養を含む「道」にまで昇華した。
剣道も、書道も、華道もたぶん同じだ。
技術を磨くだけではない。
その行為を通して、自分そのものを深めようとした瞬間、そこに「道」が生まれる。
たぶん日本人は、そこが好きなのだ。
海外にもスポーツマンシップや騎士道精神はある。
だけど日本人は、そこでわざわざ別レイヤーを作る。
ただ上手いだけじゃない。
ただ強いだけじゃない。
その先に、終わりなき修行としての“道”を置く。
ここがちょっと怖しい。
なぜなら「道」には終わりがないからだ。
勝ったら終わり、習得したら終了、ではない。
むしろ、極めようとすればするほど、その先が遠のく。
普通なら面倒だ。
だが日本人は、その終わらなさにこそ価値を見出す。
ゴールすることより、深まり続けること。
勝つことより、求め続けること。
なかなか執念深い。
でも、その執念深さはちょっと素敵でもある。
外へ広げるより、内へ深める。
ひとつのことを、とことん掘る。
そう考えると、「華道」を flower arrangement と訳されると、少し惜しい気がする。
間違ってはいない。
でも「花を並べること」と、「花を通して自分を深めること」では、だいぶ違う。
書道だってそうだ。
字を書くことが、なぜ精神修養になるのか。
でも実際、そこまで深めた文字には、なぜか人を感動させる何かが宿ったりする。
やはり「道」には、妙な力がある。
そうなると、もっといろんなものを「道」にしてもいい気がしてくる。
最近だと「サ道」なんてものもある。
極アツのサウナに入り、冷たい水風呂に耐え、整う。
あれだって、見方によっては立派な修行である。
つまり日本人は、たぶん何でも修行にしたいのだ。
だったら、もっと根源的なものでもいい。
たとえば、「あ道」。
「あ」は深い。
驚きの「あ」。
納得の「あ」。
絶望の「あ」。
労りの「あ」。
人間の感情表現は、案外「あ」から始まっている。
その発声、間、響き、感情の込め方を極める。
「あ」の中に宇宙を見出す。
……もう立派な道である。
ここまで来ると、何でもいいのかもしれない。
でも、たぶんそれでいいのだ。
どんな行為でも、深め方次第で「道」になる。
全ての道はローマに続く、と言う。
しかし日本人の「道」は、ローマに着いても終わらない。
着いたあとも、たぶんその先を目指す。
