「凪のように穏やかに」(3巻・終)
(7)
〇治一 (故郷への想い)
それにしても「春眠暁を覚えず」とはよく言ったもんだ。春が過ぎ夏が過ぎもう秋だというのに、今日俺は30分寝坊した。そのせいで豊洲市場ではいい感じの魚は売り切れてしまっていて、イオンクラスの魚しか残っていなかった。うちの数少ない常連は目が利く客が多い。いい魚が出てないと客に叱られる。ついでに友さんにも叱られる。つまり、うちがいい魚を出さなかったら客はイオンに持って行かれる。
そんなイオンクラスの魚しか仕入れられなかった俺は、友さんにぶっ飛ばされる覚悟で店に戻ると、友さんはせっせと店先にトロ箱を並べていた。どうやら石巻からの直送便が届いたらしい。「ありがとう石巻!」俺は心の中でガッツポーズをしながら白々しく友さんに近づく。
「あれ~!もしかして石巻からですか?」
「おう、大将からの直送だ。今日は特にすげえぞ」
見ると最高にキレイな金華サバちゃんが大量に届いていた。こんなに良質なサバは東京中探してもなかなかないだろう。さすが大将、俺の師匠だけのことはある。
「こんなサバ、イオンには絶対ないですよ。なーにがお客様感謝デーだ。う
ちは毎日お客様に感謝してるっつーの」
「で、豊洲はどうだった?何かいいの仕入れたか?」
「すいません」
「あんな時間に行ったらそうなるわな・・・ハルちゃん」
「はい・・・」
「大将に救われたな」
そう言って友さんは、小さくなった俺の肩をグッと掴んだ。その握力は中年になった今もえげつない。友さんは人の好さそうな顔立ちをしている。俺と友さんが並んだらきっと俺の方が怖がられる顔だろう。しかし現実はそうではない。俺は永遠に友さんの舎弟だ。
この店は、俺が漁師の頃からずっと石巻から直接仕入れた新鮮で最高品質の魚がウリだ。今は俺の師匠の大将や仲間たちが引き継いでくれて、この店に魚を仕入れてくれている。こんなにいい店なのに、新規の客が来ないのには理由がある。常連さんのお目当ての石巻の魚は仕入れ数に限りがあることを知ってるから誰にも宣伝してくれない。何度かチラシを撒いたことがあるが、シャッター商店街の奥にあるこの店に新規のお客が来ることはほとんどない。友さんがポツリと言った。
「いつぞやのブリッブリの若妻、また来てくれないかなあ・・・」
「え?原田さんのことですか?」
「原田さん?」
「ブリッブリの若妻の原田さん、もうすっかり常連ですよ」
「うそ?」
「魚はうちでしか買わないっていってくれてます。何かSNSにもあげてく
れてるって」
「俺、あれ以来一回もあったことないぞ」
「え?俺が店番のときはよく来てくれてますよ。アレ?なんでですかね~」
「単なる偶然だろ」
「そうですよねえ~。単なる偶然ですよねえ~」
友さんは「ハッハッハ」乾いた声で笑った。これ以上虐めるとゲンコツが飛んできそうだ。俺は話題を変えた。
「そういえば、典ちゃんは?」
「買い物。スタバでナントカペペロンチーノ買って来るってよ」
「ペペロンチーノって何でしたっけ?」
「コーヒーだろ」
「そうでしたっけ?」
「とにかくイオンに行ったってことだよ」
言いながら友さんは店先に出ると「うーん」と大きな伸びをして、思い出したように言った。
「ありがとな、カケルのこと」
「あれは俺がカケルを付き合わせたようなもんですから。友さんこそ急に船
を手配してくれて。ありがとうございました」
「それにしても、あいつはどうなりたいのかねえ」
「とりあえず、長い目で見てやるしかないんじゃないすか」
「俺も親だからな。やっぱり心配しちまうんだよ」
珍しく友さんは俺に弱音を吐いた。親ってのは子供のことになると友さんでさえ俺みたいな奴にも弱音を吐く。改めて親子の絆ってのは子供がいくつになっても変わらないもんだなと思う。友さんは放任主義なフリをしながら、どこかでカケルに店を継いでほしいと思っているのかもしれない。でもそれが親のエゴだってことも友さんは分かってる。
「友さん、友さんと俺が初めて会ったときのこと覚えてますか?」
「ああ、上野の中華屋でお前が食い逃げしたんだよな」
「ええ。俺はあっという間に友さんに取っ捕まって、あのときはマジで腕を
折られると思いましたよ」
「ハルは小生意気なくせに弱かったからな」
「友さんが強すぎなんですよ。でも何で俺を店で働かせてくれたんです?」
「お前と一緒に働いたら面白そうだと思ったんだよ。あの頃はこの店を継い
だばっかりで全然仕事が楽しいと思えなくてな。お前と会ったときに思っ
たんだ。こいつと仕事したら面白くなるかもって」
「俺は矢沢や長渕みたいにでっかい夢を掴もうと思って石巻から出てきたん
ですけどね」
「歌も下手だしギターも弾けないくせにな」
「何になりたいとか決まってなかったんです。とりあえずビッグになりたい
って思ってただけで」
「それにしても、まさかこんなに長い付き合いになるとはな・・・」
「あのときの俺が、丁度カケルと同じくらいの歳です」
友さんは思わず俺の方を振り返った。
「カケルに将来何になりたいか聞くほうが間違ってたかな」
「さあ。ただ、カケルはちゃんといい奴に育ってますよ」
「その言葉信じることにするわ」
俺たち大人は自分が子供だった時のことを忘れてしまうことがよくある。子供が間違った方向へ行きそうになると、良かれと思ってすぐに手を出してしまう。だけど自分が子供の頃は、間違ってたとしても自分で間違いだと思うまで好き勝手にやらせてもらってた。俺と友さんが出会ったのも俺がムチャして東京に出てきたからだ。もしあの頃俺が野垂れ死んでいたとしたら、親は悲しんだかもしれない。でも意外とそうはならないものだ。食い逃げという犯罪に手を染めかけたのは事実だが・・・。親以外の誰かが助けてくれることを覚えたから俺はちゃんと大人になれた気がする。カケルにとって俺がそういう存在になれたら、それは友さんへの恩返しになると思う。
「・・・それはそうとハル、石巻にはもう戻らないのか」
友さんはいきなり聞いてきた。前触れナシだ。
「どうなんですかね、俺もわかんねっす。でも友さんや典ちゃんに迷惑かけ
てるなら言ってください。いつでも出ていきますから」
心の準備ができていなかったので思わず上っ面の返事をしてしまった。10年以上海に行ってなかった俺が久しぶりに見た海は、あの日の荒れ狂った海ではなく、どこまでも穏やかで優しい海だった。カケルを勇気づけようと行った海だったが、俺は自分も変わらなくちゃいけないと思い始めていた。だが変わることを許せない自分もいる。
友さんは俺の心の中を察しているように一通の手紙を俺に渡した。
「大将からだ。今日届いた金華サバと一緒に入ってた」
大将から手紙とは珍しい。そもそも大将が手紙を書いてるところなんて想像すらできない。俺は丁寧にその便箋を開いた。そこには想像通り、幼稚園児が書いたような汚い字が並んでいた。
ハルへ
震災からもう10年以上経った
お前の墓を建てるから、それまでに戻ってこい
ふざけた手紙だが大将の精一杯の愛情が伝わって来た。でも俺は石巻には二度と帰ることはできないと思っている。大将たちと一緒に生活することはもうできない。 俺は石巻を見捨てたんだから。
俺が読み終わるのを見計らって、友さんが言った。
「そろそろ一度、石巻に戻ったらどうだ?船もまだ残ってるんだろ」
「友さん、俺は石巻が波に呑まれて行くのを、船の上から見てたんです。何
もできないまま・・・。もし戻るんなら、俺はあの頃に戻りたいす。何も
起こらなかった石巻に・・・。船に乗って、仲間たちと酒を飲んで、少し
酔っぱらって京子ちゃんと未来のいる家に帰りたい。でも、もうあの頃に
は戻れないんす。俺はここで友さんの手伝いをしながら生きていくこと、
それだけで精一杯なんです」
あれから何年経とうが、俺の時間は2011年3月11日15時30分で止まっている。その朝は家族三人でごはんを食べた。前日の夜は少し遅くに帰ったが、まだ未来がハーモニカの練習をしていた。何でもない日常、永遠に続く凪のような生活。金持ちになりたいとか、偉くなりたいなんて思ったこともない。俺が欲しいのはただひとつ、あの日の何でもない日常だ。京子ちゃんと未来が幸せそうに歌っている風景。怒る京子ちゃんをなだめている未来。俺はあの二人に生かされていたと、今ならはっきりと分かる。大将の気持ちを汲んであげたいとは思うが、石巻に残されているのは俺の地獄の記憶だ。
ダンダンダンと、二階からカケルが階段を下りてくる音がした。俺は急いで友さんにぶつけてしまった感情を隠す。友さんも何もなかったような顔をしてくれた。カケルは扉を開けると煮詰まった顔で「親父!」と友さんを呼んだ。
「俺、石巻に行こうと思う。いや、行かなくちゃいけないんだ」
「どういうことだ?」
「俺はずっとモヤモヤしてる。あの震災を思い出すたび、思ってしまうん
だ。夢を見ることになんの意味があるのかって。そして気づいたらこんな
歳になってしまった。親父、言ってくれたよね。俺の将来は俺が決めてい
いって」
「ああ、お前の将来はお前自身で決めたらいい」
「俺、自分の未来に希望が見えないのは漠然と震災のせいだと思ってた。で
もこないだハルさんと海に行ったとき、それは違うような気がした。やっ
と気づいたんだ。俺は俺の中であの震災を自分勝手に想像して悲しいスト
ーリーを作り上げていたんだって。俺にとって東日本大震災はテレビで見
た映像と情報だけがすべてなのに。それだけで分かったような気になって
た。ハルさんの気持ちを知ったような気になってた。でも俺は何も分かっ
てなかったんだ」
友さんと俺はカケルの言っていることを黙って聞いていた。カケルは石巻から逃げてきた俺を、震災のニュースから飛び出してきた被災者だと思って接してきたのだろう。俺が決して見せなかった弱さをニュースの情報で補うことで、カケルの中に「虚像の東日本大震災」を作り上げたということだろうか。
「たぶん俺は震災にちゃんと向き合わないと何も始められない。俺が自分の
将来から目を背けてるのは、東日本大震災を映画か小説か何かと勘違いし
て、そこにハッピーエンドは何ひとつないと決めつけてるからだと思うん
だ。実際にハッピーエンドなんてないかもしれない。でも絶望だけじゃな
い何かがあるのかもしれないだろ。俺は知りたいんだ。あのとき何があっ
たのかちゃんと。それに・・・俺はハルさんを助けてあげたい!ハルさん
を石巻に連れて行ってあげたいんだ」
じっとカケルの想いを聞いていた友さんは、目線をカケルに向け、怒りを鎮めるように静かに言った。
「お前が石巻に行きたい気持ちは分かった。でもハルを助けたいのは関係な
い話だ。ハルはお前に助けられたいなんて思ってない」
「でも、二人とも生きてるかもしれないだろ!」
「カケル!」
友さんはカケルを強く止めた。友さんは震災が起きてから、とにかく俺の思うようにしたらいいと、ずっと隣にいてくれた。友さんにしてみれば、カケルの思いは自分勝手に感じたのだろう。
「ハルさんが家族のことを諦めてたとしても、俺は会わせてあげたいんだ。
俺はハルさんに、もう一度生き甲斐を持ってほしいんだ」
カケルにしてみれば、10年が経過した今も見つかっていない京子ちゃんと未来に何が起こったのかを、そして俺に何が起こったのかをハッキリさせたいのだろう。その気持ちも分かる。
「それはハルが決めることだ」
「親父、頼む」
「・・・俺は10年前、ハルと汗まみれになって二人を探し回ったんだ。ハ
ルがどんな想いでここに来たのか。お前は分かってないからそんなことが
言えるんだ。お前の出る幕じゃない」
「俺はやっとそのことを考えられるようになったんだよ。俺自身のことも、
ハルさんのことも」
「お前が石巻に行くのは構わない。それで何かが変わると思うならお前の好
きにしたらいい。ただハルを巻き込むな」
友さんは俺のことを心の底から考えてくれている。それだけで涙が出そうなほど嬉しい。そしてカケルも俺のことを考えてくれているのが分かる。どちらが正しいのかは張本人の俺だって分からない。ただ俺は自分が誰かの枷になっていることだけは許せなかった。俺は決めた。
「カケル。お前は本当に面倒くさい奴に育っちまったな」
「ハルさんに言われなくても分かってるよ」
「カケルが面倒くさい奴になったのは、俺がカッコ悪い大人だからだ」
「そうじゃないよ」
「友さん、俺も行きますわ。石巻に」
「え?」
「行かなくていい。カケルのためにお前が無理することじゃねえ」
俺は自分の考えていることが伝わるように、ゆっくり話した。
「カケルのためじゃないんです。やっぱ無理なんすよ。いくら逃げても追っ
てくるんです。石巻のいい思い出も、そうじゃない思い出も。どんなに逃
げても逃げきれないんです・・・それと、カケルは小さい頃から俺が逃げ
てるのを感じてたんだと思います。超カッコ悪いんすよ俺・・・俺はカケ
ルにカッコ悪い姿をこれ以上見せたくないんです。俺、逃げられないって
本当は分かってて10年も逃げてたんすよ・・・逃げるのをやめるとした
ら、もう向かっていくしか他に道がないじゃないすか」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「ハルの好きにしたらいい」
友さんは、それだけ言って俺から視線を外した。
「カケルありがとな。お前のおかげで気付かせてもらった」
「そんなこと・・・」
「ハル・・・カケルを頼むな」
「はい」
そういう友さんはどこか淋しそうに見えた。そんな友さんを見て、俺は何十年か前に東京に向かうときの親父の顔をぼんやりと思い出したような気がした。
風向きが変わったからか、駅前の方から救急車の音が聞こえてきた。その救急車でこれから典ちゃんが病院に運ばれていくなんて、万に一つも考えていなかった。
(8)
〇典子 (醜悪なこころ)
砂浜には穏やかに白い波が打ち寄せている。どこまでも澄み切った海。そして真っ青で夜だか昼だかも分からないような美しい空。カモメが遠くで啼いている。すべての平穏がここにあるようだ。なんて美しい場所だろうか。でも初めて来たとは思えない。とても懐かしい風景。ここに来たのはいつのことだろう。
という前にここはどこだ?沖縄?ハワイ?アメリカ西海岸?いや、考えてみたら私は生まれてこのかたそんなところに行ったことがない。懐かしいとか言っていたが、何だか急に迷子にでもなったような気がして心配になってきた・・・そもそもなんで私はこんなところにひとりでいるの?
「誰かー!誰かいませんか?」
すると遠くの方に人影が見えた。こちらを見ているようだ。とにかくあの人が頼りだと思った私は大きく大きく手を振った。「すいませーん!すいませーん!」するとその人も私に向かって手を振っている。私はホッとして、その人のところに向かって急いだ・・・あれ?あの人は確か治一さんのことが好きなおばあちゃんじゃないか。
「おばあちゃん!」
「おお、あんたは魚屋の!でもあんた、こんなとこで何をしてんだい?」
「何をって・・・知らない間にここにいたんです」
「あんたはこんなとこに来ちゃいけないね」
「あの、ここは?」
「ここは三途の川だよ」
「え?三途の川?海みたいですね・・・」
三途の川って確か六文銭を持って舟であの世に連れて行かれる場所だったっけ?でもここは川というにはサマーバケーション感のある海岸にしか見えない。おばあちゃんがまたボケちゃってそんなことを言ってるのかな。とはいえここが三途の川じゃないという保証もないけど。おばあちゃんはボケた様子もなく、遠くの方を何かあるかのようにじっと見ている。
「ああそうか、あんた車に轢かれたんだ」
「誰がですか?」
「あんただよ」
「いやいやいやいや」
「あんた、アタシを助けようとして車に飛び込んだんだ」
「私が?・・・いやいやいやいや」
「あんたちっとも覚えてないのかい?」
「だって私がそんな・・・人のためにそんなことをするなんて、そんなドラ
マみたいなこと、ねえ」
おばあちゃんは呆れた顔をして「自分のことは分からないもんなんだね」と言うと「こっちへおいで」と私を砂浜の水溜まりへ連れて行った。「見てごらん」とおばあちゃんが言うので、私は水溜まりを覗き込んだ。
その瞬間、無機質な電子音が聞こえてきて、あたりが暗くなった。水溜まりの向こう側には傷だらけの私の身体があり、医者らしき人と看護師らしき人が右往左往しているのが見えた。おそらくあそこは病院の集中治療室だ。その廊下にはお父さんとカケル、そして治一さんがいた。
「私、本当に事故に遭ったんですか」
「だからそう言ってるじゃないか」
待合の椅子に黙って座っていたお父さんとカケルを治一さんは静かに二人の肩に手を置いた。今にも泣きそうなカケルを治一さんが元気付けていた。
「大丈夫・・・典ちゃんは絶対に大丈夫だ」
「ハルさん、ハルさん何とかしてよ」
「カケル・・・」
治一さんにはどうすることもできないことはカケルだって分かっているに違いない。治一さんはそんなカケルに寄り添おうと一生懸命に笑顔を作っていた。それまで唇を震わせていたお父さんも一生懸命に強がった。
「母さんはこんなことでくたばるようなタマじゃない。そうだよなハル」
「ああ、典ちゃんは人一倍体が丈夫にできてるからな」
「カケルも知ってるだろ。あいつは丈夫で明るいのが取り柄なんだ」
「親父・・・」
三人は今にも泣きそうな顔をしながら笑っていた。それも私のために。私は不謹慎ながらそんな辛そうな顔の三人が愛おしく感じた。
「私、どうなっちゃってるんですか?」
「あんたは今、あの世とこの世を彷徨っているんだ。魂だけはこっち側に来
ちゃったみたいだけど」
「てことは、もしかして私死んじゃうんですか?」
「それは、あんた次第だよ」
「私次第って?」
「あんたの身体はあそこで生きているだろ。まだ戻ることもできる」
「戻れるんですか!」
「ただ、戻ってもあの身体だ。すごく痛くて大変だろうね」
確かに私の身体は瀕死の状態だ。あの身体に戻ることは、あの身体の怪我の痛みを引き受けなくてはならないということだろう。私の身体は傍から見ていても痛そうだ。できることならあの痛みは引き受けたくない。
「ちなみに・・・戻らなかったら」
「そんなの決まってるだろ。戻れなくなるだけだ」
「戻れなくなるということは・・・」
「そういうことだよ」
「ですよね・・・」
初めての経験だから分からないけど、たぶん私は痛みに耐えかねてあの身体から逃げてきたんじゃないかと思う。それでここ、三途の川に来た。まだ身体はあそこにあるから戻れるけど・・・。戻らなかったらもうお父さんにもカケルにも会えなくなるのだろうか。死ぬということは、少なくともお父さんやカケルにとっては会えない人になってしまうんだ。
あれ?確かおばあちゃんは、おばあちゃんが轢かれそうだったのを私が助けたって・・・。それなのにおばあちゃんがここにいるってことは・・・。
「あの・・・おばあちゃんは結局死んじゃったんですか?」
「いや。アタシはちょっと前からあっちとこっちを行ったり来たりできるよ
うになったんだ」
「え?行ったり来たりできる?よく分からないんですけど」
「言うなれば三途の川はアタシのもうひとつの場所さ」
「えーと、ますます分からないんですけど」
「あんた、あっちではアタシがボケちゃってるって思ってるだろ?」
「え?そんなストレートに聞かれても」
そうですね、なんて言う訳にもいかないので私はそう答えた。おばあちゃんは私の心中を見透かすような目をした。
「アタシはボケたおかげであっちに行ったりこっちに来たりできるようにな
ったってわけ。だから、あっちでボケてるときは大体この川に来てジーサ
ンを探してる」
「ああ、だから現世ではあんな感じに・・・なるほど分かりました」
「ただ、近々アタシはこの川の先に行かなくちゃいけないみたいだ」
「え?おばあちゃんいなくなっちゃうんですか」
「アタシは十分過ぎるほど生きたし。それにジーサンがこの川の先にいるか
もしれないしな。もしもいなかったとしても、待ってればそのうち来るだ
ろうし」
あちらの世界ではただの認知症のおばあちゃんだと思ってた私は、おばあちゃんが人生の終わりに何を大切にしたいのかが分かるような気がした。おばあちゃんの身体はもう使い古されてしまってクタクタだ。だから三途の川の先の世界へ行かなくてはいけないんだ。でもおじいちゃんに会えないままあちらに行かなくてはならないのは切ないだろうな。
「それで?あんたはどうするんだい?」
私にはまだ戻る身体がある。けれど私はおばあちゃんの問いに答えられなかった。私はもう一度、家族たちを見た。お父さんもカケルも私が戻ってくることを信じて祈ってくれている。二人が心から私のことを愛してくれているのを感じた。死んでしまったら悲しむに違いない。でもだからと言って私はホイホイと戻って行っていいのだろうか。だって・・・。
「私は・・・戻れません」
「なんでだい?」
「お父さんもカケルも私にはもったいないくらいステキな家族です。それな
のに私はバカでいっつも二人に迷惑ばっかりかけてて。カケルの辛かった
気持ちにも全然気付いてあげられなかったし、お父さんには甘えてばっか
りで、戻ったとしてもきっと何もしてあげられない。だから・・・」
私の言葉を聞いたおばあちゃんは、私から離れて海岸のような川面をみつめながら強い声で言った。
「あんたの好きにしたらいい・・・でもね、あんたは悔いはないのかい?あ
んたの一生を生き抜いたって言い切れるかい?」
「え?」
「あんたは父ちゃんにもっと甘えたいって思わないのかい?」
「・・・」
「アタシだってずーっとジーサンに迷惑ばっかりかけてた。本当に何もして
やれないダメな女だよ。それでもね、アタシはもっともっとジーサンに甘
えたい。娘や孫の将来だって見届けたいよ。だけどアタシのイレモノはも
うガタガタだ。先は知れてる。でもあんたにはまだ戻れる身体がある。も
ったいないねえ。代われるもんなら私が代わりに戻りたいくらいだよ」
私だってお父さんにまだまだ甘えたい。カケルの将来だっていつまでも見届けたい。でも私が戻っても二人に何かしてあげられるとは思えない。私は自分のことを見つめ直すことをしてこなかった。今、初めて私は自分がこれまでしてきたことを思った。情けない生き方だ。私には戻るという選択肢はいまさら選べない。
「私には生きる権利がないから事故に遭ったんじゃないかと思うんです。私
はいつも誰かに甘えてばかりで・・・でも本当は優しさのかけらもない人
間だから」
おばあちゃんは私に向き直って「どういうことだい」と聞いてきた。私はこれまで自分でも気付かないようにしていた、本当の私のことに気付いてしまった。
「私は・・・本当はあの震災の時、治一さんが来たことを迷惑だと思ったん
です。表向きには心配そうな顔をしてたつもりだったし、心配をしていた
つもりだった。だけど、カケルはずっと私の冷たい心の奥を感じてた。気
付かれてたんです。それなのに私は自分の心の奥にある自分勝手な気持ち
に気付こうとすらしなかった・・・私は本当は醜い人間なんです。もしあ
ちらの世界に戻っても、きっとまた綺麗ごとに身を任せてしまう。それが
怖いんです。だったらいっそこのままのほうが・・・」
黙って私の言葉を聞いていたおばあちゃんは、私の頭を撫でて言った。
「あんたは優しいな」
私はおばあちゃんの手から逃げるように離れた。
「話、聞いてました?ボケてます?」
「ボケちゃいないよ。あんたは優しい」
「私のどこが優しいんですか?私は優しい振りをしてただけです」
「でも気付いたんだろ?自分の中にある冷たい心に」
「え?」
「確かにアタシはね、あの震災で被災者と呼ばれるようになった。だけど、
被災者になる前はあんたと同じ、冷たい人間だったんだよ。テレビでどん
なに悲しいニュースを見ても、残虐な殺人事件のニュースを見ても、被害
者の気持ちなんてこれっぽっちも分かってあげようなんて思わなかった。
悲しいニュースの後に芸能ニュースが始まれば、そっちに夢中になっちま
う。マツケンサンバのコマーシャルが流れれば鼻歌を歌ってたもんだよ。
世の中の人なんてそんなもんだ。だって他人の痛みなんて分かるはずがな
いだろ。でも、みんな分かったふりをする。ニュースキャスターも芸能人
も、テレビをみた人たちも、みんな自分の冷たい心にはふたをするんだ」
「・・・」
「でも悪意があるわけじゃない。分かったふりをすることで自分が優しい人
間だと思いたいんだ」
おばあちゃんは、私が隠し続けていた一番のコンプレックスを当たり前の
ように受け入れてくれる。私は涙も鼻水も止められないまま、口をへの字にしながら震えた声で「おばあちゃん・・・」と言うのが精いっぱいだった。
「でも、あんたは冷たい自分の心に向き合おうとしてる。優しくなりたいん
だ。アタシはあんたはもう十分に優しいと思うけどね」
おばあちゃんの言葉が私の心の奥に沁み込んでいく。そのとき集中治療室の計器がビーッと大きな音を立てた。どうやら私の身体が悲鳴をあげているようだ。私の戻る場所はもうすぐなくなってしまうかもしれない。迷っている時間はなかった。私はあちらの世界に向かって叫んだ。
「お父さん!カケル!私、戻ってもいいの?こんな私とまだ家族でいてくれ
るの?」
その声が届いたかのように治一さんが二人を元気付けた。
「典ちゃんは絶対に戻ってくる。何なら俺が連れ戻しに行ってきます」
「ハル、お前は行くな。だったら俺が行く」
「じゃあ一緒に行きましょう!でもどうやって?」
「どうやって?」
「いい大人が二人で何バカなこと言ってんだよ。おふくろに笑われるぞ」
「いや典ちゃんは真に受けると思う」
「そうだ。典子は素直なとこだけが取り柄だからな」
「おふくろはバカ正直なんだよ・・・ホントバカ正直一直線」
「大丈夫!典ちゃんは絶対に大丈夫」
「おふくろ・・・勝手にどっか行ったら許さねえからな・・・」
聞いてないと思って私のこと散々けなしてる。誰がバカ正直一直線よ。こっちはこんなに悩んでるっていうのに・・・でも、私もその会話に入りたい、一緒におしゃべりがしたい。何でもない毎日を怒ったり笑ったりしながらお父さんとカケルと過ごしていきたい。みんなにとって自分が必要なのかどうかなんて私が決めることじゃない。私は家族と一緒にいたい・・・。
「・・・おばあちゃん。戻ったら、痛いんですよね」
「麻酔も効いてるし、痛み止めだってもらえる」
「そうですよね」
「いいから早く戻っておやり」
私は深く一礼をして、自分の身体がある集中治療室のほうへゆっくりと歩み出した。三途の川と集中治療室の境目はとても曖昧だが、何故か私はどうやったら戻れるかも分かっている。
後ろから「ちょっと待っとくれ!」とおばあちゃんが私を引き留める声がした。振り返るとおばあちゃんが必死の形相で私に向かって走って来た。
「どうしたんですか?」
「もし戻った後に覚えていられたら伝えてやってくれ」
「何をですか?」
「ハルのことだよ」
「治一さん?」
おばあちゃんは私にゆっくりと耳打ちした。それは聞いたこともない場所の住所だった。私は何度か聞き返して必死でその住所を覚えようとした。
目が覚めると集中治療室の中に私はいた。私の大切なお父さんとカケル、そして治一さんが涙を流しながら私を見ていた。戻れたんだ・・・。その喜びを伝えたかったのに、残念なくらい私の第一声はあまりにも私らしいものだった。
「痛い痛い痛い痛いっ!!痛み止めを!くっださーーいっ!!」
(9)
〇カケル (典子の変化)
おふくろが事故に遭ってから3週間が経った。死線を彷徨ったとは思えないほどおふくろは驚異的な早さで回復し、担当の医者も驚いていた。俺も親父もあんなに心配する必要があったのかと思うほどだ。と同時に心から思ってしまうことがある。おふくろが生きていてくれて良かった。
俺はあのとき初めて家族を失うことの怖さに直面した。おふくろがいなくなるなんてそれまで考えたこともなかった。自分でもびっくりするくらい狼狽した。おふくろは俺にとっていて当たり前の存在だと思っていたことは間違いだったと気付いたからだ。今という時間が決して永遠ではないことが少し分かった気がした。同時に未来や将来に怯えていた自分がいかに子供だったのかを痛感した。石巻で何かを見つけることは、俺にとって大切なことだと、どんどん思うようになっていた。
ハルさんは俺と親父がおふくろの見舞いをしている間、ずっと店を守ってくれていた。一日たりとも寝坊をせず豊洲で鮮度抜群の魚を仕入れて、店先でうたた寝するようなこともない。そんな頑張るハルさんを見て、親父は自分が仕事をするからちゃんと休め、と言うがハルさんは聞かない。
「家族孝行は家族がいるうちにしなくちゃダメです」
確かにそれは今回のことで良くわかったが、その言葉をハルさんに言われると本当に胸が痛む。家族を失うことの辛さをハルさんは身を持って知っている。その笑顔の奥にある悲しみは、俺の胸の奥を揺さぶってくる。
親父は業を煮やしたある早朝、豊洲に行こうとするハルさんに言った。俺が小便に起きると二人が話をしていたのだ。
「ハルが来ないって典子が淋しがってるぞ」
「俺が行ったら、家族水入らずじゃなくなっちゃうじゃないですか」
「そうじゃねえよ。典子はお前が来ないのは、お前が俺たちの家族だと思っ
てないことを淋しがってるんだよ」
「だって俺、家族じゃないですよ」
「知らねえよ。典子がそう言ってるんだ。俺が典子とケンカになってもいい
って言うのかお前は。せっかくの仲良し家族を台無しにするつもりなのか
って聞いてるんだ」
いいオッサン二人が殴り合いのケンカになる前にハルさんは折れた。
「分かりましたよ。行きますよ」
「おう。じゃあ支度しとけ。豊洲じゃねえぞ。病院だぞ」
まだ夜も明けてない時間だ。見舞いはそんなに朝っぱらから行くもんじゃない。あと6時間もある。小便をし終えた俺は、見舞いの時間までもう一度寝ることにした。
〇治一 (真実への手がかり)
想像していたよりも、典ちゃんが元気そうだったので安心した。お見舞いに行くのを拒んでいたのは、もちろん家族三人の時間を沢山作るべきだと思ったからだが、典ちゃんが辛そうにしているのを見たくなかったからでもあった。友さんの家族にお世話になって10年が過ぎ、彼らと一緒にいることは居心地がいい。まるで自分も家族の一員になったような気持ちになることもある。だが俺には本当の家族がいる。友さんの家族とは一定の距離を取らないと、優しさに溺れてしまいそうで、自分がどんどんその優しさに押しつぶされていくのだ。
そんなわけで、俺は見舞いに行っても三人から少し離れたところに居心地悪そうな感じでいることになった。
「ハルさん」
「え?典ちゃん今俺のこと呼んだ?」
「他にいないでしょ」
「だって俺のことハルさんって呼んだよね」
「イヤだった?」
「いやいや全然イヤじゃないです」
「ハルさん、石巻に門脇小学校ってある?」
「門脇小学校?未来が通ってた学校だ」
「おふくろ、何で門脇小学校なんて知ってるの?」
「おばあちゃんが夢の中で言ってたの」
「おばあちゃんって?」
「ハルさんのことが大好きなおばあちゃん。私が身代わりになって助けたっ
ていう」
「真子さんのおばあちゃんのことか」
「そう。おばあちゃんが門脇小学校の渡り廊下の角にハルさんの大切なもの
があるって」
「大切なもの?それって死んじゃった人が夢枕に立つってやつだよね」
「カケル、キヨコを勝手に殺すんじゃないよ。昨日も店に来たよ」
俺はそう言いながらも胸がざわざわし始めた。俺が何よりも大切なもの、そして今もなお見つかっていないのは、俺の家族・京子ちゃんと未来だ。しかし門脇小は早い段階から自衛隊が土砂からの救出作業をしていたし、俺も幾度となく二人を探し回った場所だ。そんな場所に何か残されている可能性はあるとは考えにくい。
「私、石巻に行ったこともないし、当たり前だけど門脇小学校なんて全然知
らない。でもそのワードだけすごく覚えてて・・・それに、何故だか分か
らないんだけど、ものすごく大事なことだって思えて仕方ないの。ハルさ
んが京子さんと未来ちゃんに会えるかもしれない。だから私、行って確か
めたい」
ギョッとした。俺の部屋には京子ちゃんと未来のために花が供えてある。でも二人の亡骸は発見されていないんだから、二人がこの世からいないとは言い切れない。ただそのまま10年が経っただけだ。そうではないことを俺はハッキリさせたくないのだ。でも、もし二人の亡骸があるのなら俺は一刻も早く二人を見つけ出してあげたい。いずれにせよ、典ちゃんがここまで言う門脇小学校に俺は行かないわけにはいかない。俺は震災後に二人を探し回ったあの夏を思い出していた。
それまで黙って話を聞いていた友さんが口を開いた。
「ハル、お前が行くなら俺も付き合うから」
「いや。これは俺の問題なんで」
「たしか門脇小のあたりは今、津波復興祈念公園になってる。自治体が管理
してる公園を勝手に掘り起こしたら、面倒なことになるだろうな」
「・・・なりますね」
「でも・・・掘るしかないだろ」
「はい。掘ります」
「そんな状態だ。ハル一人じゃさすがに無理があるよな」
「友さん、ありがとうございます」
「カケル、お前も行くか?」
友さんはサラリと自分の息子を犯罪に巻き込むような発言をした。本来なら「お前は来るな」というべきだと思うが、そういうとこが友さんの独特の正義感でもある。自分の息子が世の中に立ち向かっていかねばならない中、友さんは自分の中になる正直をカケルに伝えようとしているんだ。
「当たり前だろ。石巻に行きたいって言ったのは俺が最初だ」
「そうか。ちゃんと働いてくれよ」
「親父には負けねえよ」
「ちょっと待って!私も一緒に行くんだよね」
「おふくろはケガを治すことに専念しないと」
「ウソでしょ!」
「典ちゃんごめん。俺、一刻も早く石巻に行ってやりたいんだ。だから明日
には出たいと思ってる」
「うーーー。それは止められない・・・じゃあ、私は大人しく入院してるか
ら、無事にミッションを終えたらお土産に【萩の月】買ってきて」
「萩の月は仙台土産だけどな」
俺は今すぐにでも石巻に飛んでいきたい。門脇小に何があるのかは分からないが、何かを確かめなくてはならない。そこに京子ちゃんと未来の亡骸が埋まっていたとしても、俺がその先に進むために。
「とにかく!ハルさんは絶対に大丈夫だから!」
典ちゃんの優しい目に引き込まれそうになった。そういえば典ちゃんがこんなにしっかりと俺の目を見てくれたことって今まであったっけ?俺が気付かなかっただけかもしれないが。でも今まで「治一さん」だったのが「ハルさん」になったし・・・。ただ典ちゃんが俺のことを真正面から本気で心配してくれているのが分かってグッときた。ちょっと照れ臭くなった俺は、勝手に言葉が出てきた。
「今日までありがとう。これからもよろしくお願いします」
部屋の空気がキョトンで埋め尽くされた。友さんが「なんだ今さら他人行儀な」と笑い出した。それを聞いてみんながどっと笑う。笑顔に包まれ、家族の一員になっていることに何故だか俺は妙な違和感を感じた。
俺には本物の家族がいた。京子ちゃんがいて未来がいた。三人でいっぱい笑った。幸せという名前の山を一歩一歩、三人で登っていた・・・。でも今ここに俺の家族はいない。家族のような空気を作ってくれる友さん、典ちゃん、カケル。三人は俺を家族のように思ってくれている。だから今、四人で笑えている。俺はその空気が心地よければ心地いいほど、違和感で胸が締め付けられていく。俺は三人と一緒に笑いながら涙が溢れてくるのを必死でごまかした。
(10)
〇友蔵 (石巻へ)
門脇小学校は、すでに石巻南浜津波復興祈念公園の震災遺構として解体工事を終えていた。今さら門脇小の一部を掘り起こすなんてことは行政から許可を得ること自体不可能だ。しかも掘り返したからと言って何かが出てくる保証もない。つまり俺たちはどう考えても頭がおかしい、犯罪と言われても仕方ないことをしようとしている。でも、それをしないことには次に進めない奴がいる。俺・カケル・ハルの三人はそんなことをするために石巻に向かっている。
車での道中、ミラー越しに映ったハルは、ずっと何も言わずただ淡々と流れる景色を見ていた。10年前俺は、自分を見失ったハルを見ていられず、半ば強引に石巻から東京へ連れてきた。その選択が正しかったのかどうかは分からない。ただ当時ハルは錯乱状態で、自分が置かれている状況も把握することができていなかったことを考えれば、他に選択肢はなかったとは思う。「時間は心の傷を癒す」とよく言うが、この10年ハルを見ていると、その言葉がいい意味だけではないと感じる。ハルは心の傷が癒えていくことを拒み続けていた。元気そうに振舞いながらも本心では時間に抗おうとするハルの姿を、俺は痛々しく感じていた。だから俺はハルが石巻に戻らないという選択肢もあると思っていた。
だからハルが、カケルのためにとはいえ石巻に戻る決意をしたことに、何かあっけなさのようなものを感じた。ただ、今はこの選択が良い方に進めばいいなと願うばかりだ。カーラジオから流れる米米クラブの「浪漫飛行」を聞きながら、車は東北道を北へ向かっていく。
逢いたいと思うことが何よりも大切だよ
苦しさの裏側にあることに眼を向けて
夢を見てよどんな時でもすべてはそこから始まるはずさ
これまで何十回聞いたか分からないが、何故だかいきなりこの曲の歌詞が心にしみわたって来た。まるでカケルとハルのための応援歌だ。この先に何が起こるかなんて誰も知らない。それでも俺たちは始めて行かなくてはならないんだ。気付いたらラジオに合わせて口ずさんでいた。
君と出逢ってから~いく~つもの夜を語~り明かした
はちきれる~ほどマイドリーム
トランクひ~と~つ~だけで浪漫飛行へインザスカイ
飛び回~れこのマイハート
おお、おお、おうおうお~~~
ああ、歌が上手くなりたい。
〇カケル(知りたくない真実)
門脇小学校の渡り廊下の角。まさかこんな場所を掘る奴がいるとは誰も思わないようで、夕暮れ前にはこの辺りは誰もいなくなっていた。そして遺構の観点からかコンクリートで舗装されているということもなかった。
陽が暮れると同時に俺と親父とハルさんでこの場所を掘り返し始めた。作業は基本的に二人でスコップで掘り進めて、残りの一人は懐中電灯で穴を照らす。良きところで役割を交代することで効率よく作業を進めていくのだ。当然のことながらちょっと掘ったくらいで何も出てくるわけもなく、気が付けば深夜になっていた。東京だったらすぐに見つかってしまいそうだが、街灯はぽつぽつとしかない。さらにこのポイントは月の光の影にもなっていて、懐中電灯がなければ本当に真っ暗で何も見えなくなる。実際、夜になってコンビニに食料を買い出しに行ったときには場所が分からなくなり迷子になりそうだった。
それにしても自衛隊の重機で一度は探し尽くしたであろうこの場所から、ハルさんの大切なものなんて本当に出てくるのだろうか。気が付けば、穴は縦に1メートルをゆうに超えている。硬かった表面の土はしばらく掘っていくうちに少し柔らかくなっていった。作業はどんどん進んでいき、掘り返した土をみるとマンガのように山盛りになっていた。この山のような土、やっぱり戻さなくてはいけないのだろうな・・・もし何も見つからなかったら何のためにこんなに穴を掘ってるんだろう。などと考えている自分に気付き、弱気になってる自分に気合いを入れ直した。もう後には引けない。
誰もいない深夜の公園なのだが、悪いことをしている意識があるからか、俺は暗がりの中に何かが動く気配を感じた。気のせいかと思いつつ懐中電灯を向けると、ぼんやりと二つの影が見えた。
「うわっ!」
思わず声をあげてしまった。そこには亡霊のように二人の女性が立っていたのだ。親父とハルさんも作業を止めて「どうした?」と懐中電灯が照らしたあたりを見た。改めてよく見るとそれは幽霊ではなく、地元の方のようだった。親父が小さく会釈をすると、二人は深々とお辞儀をした。ハルさんはそれが見えないらしく「カケル、誰かいるのか?」と聞いてきた。だが僕が答える前に親父は「いや大丈夫。気のせいだ」と言って、何事もなかったかのように作業に戻った。え?と僕は親父を見ると、親父は僕を見てかぶりを振った。二人の女性は何も言わず、暗がりに立ちすくんでいた。僕はピンときた。そして何が何でも今夜、俺たちはハルさんの大切なものを探さなければならないと思った。
ハルさんは「土が変わって来たから丁寧に掘ってくれ」と言うと俺と交代した。俺はハルさんに懐中電灯を渡した。
夜の空気が湿ったものに変わってきた。同じ夜なのに、浅い時間から深夜に代わるとき、空気がピンと張りつめることがある。丁度、神社の鳥居をくぐるときに空気が何となく変わったような感じがする感覚と似ている。ハルさんはこの10年を噛みしめているかのように黙り込んでいた。二人の女性がそんなハルさんをじっと見ているのを感じるが、ハルさんは何も感じていないようだ。ハルさんはポツリと言った。
「何も出てこないといいな・・・」
俺は掘る手を止めた。確かに俺たちは何かを探すために、具体的にはハルさんの大切な人の亡骸を見つけるために土を掘り返している。だがそれは、ハルさんの僅かな希望を消し去る作業でもあるのだ。
「カケル、丁寧に掘ってくれよ」
「分かってる」
「おう!」
確かに今掘り進めている箇所は今までとは手応えが違うようだ。俺はここからはゆっくりと丁寧に掘るように心がけた。ハルさんはしばらくその様子を見ていたが、一つため息をついてから親父に話しかけた。
「友さん・・・俺言ってましたよね。俺より大変な人たちのために俺が頑張
らなくちゃいけないって」
「ああ」
「あれ、ウソなんす・・・あんなのただの偽善です」
「俺はあのときのお前を見てたんだぞ。お前はずっと被災した人たちのため
に泥まみれになりながらムチャクチャ働いてた。あのときのお前の頑張り
があったから助かった人もいっぱいいた」
「あんなの全部、俺自身のためです。善意とかそういうのじゃない。俺、気
づいたんですよ。自分がどれだけ卑劣な人間なのかって」
「卑劣って・・・」
「みんなが大変な状況のときに、俺は被災者を演じてたんです。あの震災が
映画やドラマで、自分が見てる側だったとしたら、傍観者側だったらどう
演じたら感動してもらえるか、自分はどう演じたらいいのか。そんなこと
ばっかり。俺は悲劇のヒーロー気取ってただけです」
ハルさんがこんなに震災のときのことを話したのを、俺は初めて聞いた。あのとき流れていたニュースを思い出した。そこに出ていたのはハルさんのいうヒーローたちだ。取材されていた人たちはみんな自分の心を押し殺すようにして話をしていた。中には話をしながら感極まって涙を流す人もいた。これから先に何があるのか政治家にも誰にも分からない。テレビは何を放送しても不謹慎に思えてしまい、ACジャパンのCMとニュースだけが流れ続けていた。そんなとき、被災地ではハルさんのように大切な人を失って生きる意味を失ってしまった人もいただろう。自責の念にかられてしまって動けなくなってしまった人もいただろう。
そして今、ハルさんはあのときの自分の行動を全否定している。自分の存在を呪っているかのようにハルさんは続けた。
「怖かったんです。悲しいだとか、絶望だとか、将来だとか、そういうこと
を考えることが怖かった。何とかして自分の気持ちと向き合わない方法ば
かりを探してた。だから頑張らなくちゃって言い続けた。京子と未来がい
なくなったことなんて考えたくもなかったから。京子と未来があのときど
うなったのか、どんな気持ちで津波に流されたのか・・・そういうのを全
部なかったことにしたくて・・・だから、石巻を離れたんです。俺は人情
に厚い振りをして、京子と未来の存在を頭の中から消した。俺、あいつら
を見捨てたんです・・・とんだクソ野郎ですよ」
俺は言葉が出なかった。東日本大震災が起こって津波で多くの人の命が奪われてしまったことは、信じられないくらい悲しい出来事だ。でも、それはハルさんのせいじゃない。それなのに被害者なはずのハルさんは自分が悪いと思わずにはいられない。俺はハルさんを励ますことも、言葉を否定することさえできなかった。ハルさんの言葉を聞いてない振りをしながら、ただただ土を丁寧に掘っていた。ハルさんを見かねた親父は、手を止めて顔を上げた。
「ハル、お前がクソ野郎かどうか俺には分からねえよ。お前がどんな想いで
俺のとこに来たかなんて想像もつかねえ、考えようにもそんなこと想像で
きるはずねえ。ただ俺は、俺にできることをお前にしてやりたかった。俺
にできることしか俺にはできなかったからな。もしお前がクソ野郎だった
としても俺は同じことをしてたよ」
「友さん。俺は、どこで大地震が起きたって、津波でいくら人が死んだって
構わない。富士山が噴火して東京が焼野原になろうが、コロナで全世界の
人間が死のうが本当はどうでもいい。どんな大事件が起こっても、どんな
大変なことが起こっても、自分が当事者じゃなければいい。世界がどんな
に不幸でも構わない。俺はただ京子と未来と三人でメシを食いながら、そ
んなニュースを他人事として見られるだけで、それだけでいいんす」
「俺だって典子が事故に遭ったとき、同じことを思ったよ。もし世界が滅亡
しても家族だけは守りたいってな。俺たちは聖人君子じゃねえ。家族だけ
で精いっぱいだ」
図らずも俺は親父の言葉に感動してしまった。親父とハルさんの言っていることは綺麗ごとじゃない。でも、俺もそうだと思う。正義や綺麗ごとは安全な場所からしか語れない。これは被災地に限らず、戦地でも、学校でも、会社でも、社会のすべての場所で当てはまるんじゃないか。自分の大切な人が幸せであることが、生きる意味のすべてなのかもしれない。
ハルさんがポツリと言った。
「俺は家族三人で穏やかなな日々を過ごしたかった。友さん、俺、京子ちゃ
んに言ったんです。凪のように穏やかな毎日を作ろうって・・・ははは」
ハルさんが小さく笑いだすと、親父も一緒になって笑い出した。全然面白くない。二人の笑い声を聞きながら俺は何を思ったらいいか分からなくなりただただ手を動かし続けた。
「あっ!」
人工物っぽいものがピラっと俺の手にまとわりついてくる感じがした。「なんだろこれ?」俺はそのピラピラしたものを丁寧に掘り返して丁寧に取り出してみた。それは泥にまみれて良く分からない。
「これ、ボロボロだけど、定期入れか何かかな」
「見せてくれ」
そういうとハルさんは俺の横まで来て、ピラピラのものをまじまじと見るとボロボロと崩れないように泥をふき取ると
「間違いない。漁協の組合員証だ」
「組合員証・・・」
「でもボロボロで誰のか分かんねえ。もう少し掘れば、また何かあるかもし
れない」
「うん・・・」
ハルさんは目の色が変わったかのように一心不乱に小さなシャベルで掘り返していく。俺は視線を感じてふと振り向いた。さっきの二人の女性が近づいてきていた。暗がりでよく見えないが、一人は俺と同じくらい、もう一人はその母親のようだ。二人とも固唾を飲んで俺たちの様子を見ている。
それから10分も経たないうちに、土の中から白いものが見えた。ハルさんは振り返って俺と親父を見た。それが「骨」だということは直感的に感じた。俺は呟いた。
「これ、骨・・・?」
「多分な」
ハルさんはその骨を壊さないように、骨に沿って手を使って掘り始めた。その姿を見て、俺はもう何もできなかった。愛おしそうに、大切な人を救い出すために一心不乱に掘り進めていくハルさんに掛ける言葉は見つからなかった。その骨はきれいな手の形を残していた。ハルさんは息を吞むようにして大きなため息をついた。
そのすぐ近くで指輪が見つかった。その指輪を取り上げたハルさんは確信したように強い口調で言った。
「これ・・・京子ちゃんがつけてたのと同じだ」
ハルさんはその泥だらけになっていた指輪を自分のシャツでゴシゴシと磨き始めた。「指輪の内側に刻印があるはずだ」そう言いながら指輪を磨いているハルさんがどんな気持ちでいるのかを考えたら、息苦しくなった。その様子を見かねたのか、女性の一人が突然大声を出した。
「それ、お父ちゃんの、お父ちゃんの指輪だよ!」
ハルさんがその言葉にまったく反応しないので、親父が言った。
「ハル!その指輪、はめて見ろ」
「え?」
ハルさんは変な顔をしながらその指輪をはめてみた。
「あれ、これ。俺のですね・・・え?これって・・・何で?」
「お父ちゃん!!」
それまで女性の声にまったく反応していなかったハルさんが驚いたように振り返った。
「京子ちゃん・・・」
〇治一 (愛する人よ)
この10年、石巻のことは意識から遠ざけ続けてきた。大将から届く魚だけが唯一石巻との繋がりだったが、その連絡もずっと友さんがやってくれていたし、俺は、俺の命が尽きるまでの残りの時間がなくなるまでただ屍のように過ごすだけだと思っていた。それを許さないのが時間というものなのだろうか。
小学生だったカケルが就職試験を受けるような年齢になっていて、当時は小さかった彼の胸の中にあったカサブタが10年をかけて疼きだし、その原因が東日本大震災にあったことを知る。時間は俺を許してはくれなかった。
石巻に戻ることは怖かったが、カケルは俺に戻るきっかけをくれたとも思った。今、石巻という町が俺にとってどう映るのかは分からないが、カケルのために行くという言い訳は俺にとって好都合な免罪符だった。恐らく友さんは俺が自分を見つめることを望んでいたのだろう。だが俺にそんな自信はなかった。ただ俺が生きていることでカケルが迷惑をこうむっているのであれば、あってはならないことだ。
そんな折、典ちゃんが事故に遭った。誰も典ちゃんが事故に遭うなんて想像していない。突然友さんとカケルは絶望を感じたことだろう。人が生きていくときに絶対なんてことはない。ある日突然大切な人が死んでしまうことがある。これは他人事のように見えて常に自分事だ。だがそんなことは知らない方がいい。気付かない方がいい。みんなささやかな家族の幸せというものを当たり前のように守ること、それこそが幸せだなんてこと、自分が死ぬときに噛みしめるくらいがいい。俺は友さん、典ちゃん、カケルの家族が幸せなまま過ごしてほしいと思っていた。典ちゃんに何かあったら友さんもカケルも大きな傷を残すことは俺は知っているから。
俺は京子ちゃんと未来と過ごした日々を記憶から消し去りたいとずっと思っていた。幸せな日々は戻ってこない。ささやかでとびきり輝いていた日々は、ある日突然失われた。友さんとカケルの心からあたたかな日々が失われることがあってはならない。だから典ちゃんが無事だったと聞いたとき、俺は心から嬉しかった。同時に、京子ちゃんと未来に会いたくて仕方なくなった・・・そして俺は石巻で土に埋まっている京子ちゃんと未来を探すことになった。それは必然であるかのようで、偶然の積み重ねのようで。俺は運命というものを受け入れなければならないと思ったのかもしれない。
そして俺は今、土の中から京子ちゃんの身体を見つけたと確信した。京子ちゃんの指にはめられていたはずの結婚指輪、しかしその指輪は俺の指にぴったりとはまった。その瞬間、俺はずっとずっと聞きたくてたまらなかった声、忘れたくても忘れられなかった声が聞こえた。
「お父ちゃん!!」
その声に振り向くと、石巻の現代の風景の中に京子ちゃんがいた。理由はまったく分からないが、俺のすぐ近くで俺の奥さんの京子ちゃんが叫んでいる。俺は嬉しい顔をすることも忘れて京子ちゃんを見ていたと思う。永遠のように感じた4秒後、京子ちゃんの横に若い女の子が目を見開いたまま俺を見ているのに気付いた。その女の子は誰かに似ていた・・・。まさかそんなはずはない。
「もしかして、未来か?」
「そうだよ、未来だよ・・・お父ちゃん!私たち、ずっとお父ちゃんの傍に
いたんだよ。それなのにお父ちゃん、全然気付いてくれないから」
「未来・・・大きくなったな・・・でも・・・何で・・・」
頭の中が混乱している。感動の再会なのに涙が一粒も出てこない。この10年、俺がどんなに探し回っても会えなかった二人が目の前にいるのに。諦めていた京子ちゃんと未来が生きていたというのに・・・。
俺は騙されていたんじゃないか。何故今日まで京子ちゃんと未来は俺に会いに来てくれなかったのか?俺が石巻に戻ってくるまで会わないと決めていたのか。感動よりもドッキリにでもあったような不快感が俺を素直に泣かせてくれない。でももし誰かが俺を騙していたとして、それが何のためになるというんだ。
そんな俺に友さんが近づいてきた。
「ハル、あの日のことをもう一度思い出してみろ」
「あの日のこと?」
「2011年3月11日のことだ」
「お父ちゃん、思い出して。目をそらさないでちゃんと思い出して」
京子ちゃんが友さんと同じことを言う。目をそらすも何も、地震があったとき、俺は船の上にいて、船の上から津波に飲み込まれていく石巻の町を為すすべもなく見ていた。船を下りたらすぐに家のほうへ行こうとしたが、そこは跡形もなくなっていた。慌てて俺は避難所になっていた体育館へ行ったが、そこには知り合いが誰もいなくて・・・。
黙り込んでいる俺に我慢できなくなったのか、未来が言った。
「お父ちゃんは、皆が止めるのを聞かずに港に戻ったの!私たちを探しにう
ちに戻ったの!船を下りたの!」
「俺が船を下りた・・・?違う!!俺は船の上から津波に吞まれていく石巻
を何もできないで見てたんだ。お前たちを助けたかったのに・・・」
京子ちゃんが怒ったような顔で、静かに言った。
「じゃあ、お父ちゃんはどうやって船を港に着けたの?」
「どうやってって・・・」
「港はね、津波の後しばらく使えなかったんだよ」
「え?」
「お父ちゃん・・・ひとつずつ、ひとつずつ思い出してみて」
「・・・・・・」
俺は目を閉じた。
俺は大将たちと金華山沖の養殖場にいた。海の上にいたにも関わらず地響きのような音が聞こえてきた。海の上からでも陸地が揺れているのが分かった。地震というよりも空気そのものが大きく揺れたような感覚だった。その直後、漁協の無線から地震の報せが届いた。俺はこれまで嫌な予感なんてしたことがなかったが、このとき初めて胸騒ぎが止まらなくなった。京子ちゃんの携帯電話に連絡をしたが繋がらない。何度リダイアルをしても「ただいま電話が大変込み合っているためかかりません。しばらく経ってから、お掛け直しください」となってしまう。俺は一刻も早く京子ちゃんと未来のもとに帰って助けなくちゃいけないと思った。
「それで?」
大将に無線で伝えたんだ。「俺は陸に戻る」って。大将は無線で怒鳴ってきた。「今はダメだ。みんなが一気にもどったら港がパンクする」だが俺はそんな悠長な気持ちになれなかった。漁協からも今は戻ってはいけないと連絡が来ていた。俺はイライラとしながら船の上にいた。だが、しばらくすると津波警報が石巻に出たのを聞いた。俺は大将に頼んだんだ・・・。だが大将は「待て」としか言わない。それで・・・。
「それで?」
それで・・・俺は無線をブチ切って・・・漁港へ戻った・・・。あれ?記憶が違ってる・・・。俺は港に戻ったのか?じゃあ俺の脳裏にある記憶はなんだ?海から見た津波に呑まれる石巻は・・・?
「お父ちゃんが着岸したとき港は使えてたんだよね?」
漁港の岸壁は地震で地割れがしていたが俺は着岸した。そのときはまだ津波は来ていなかった・・・。とにかく俺は家の方へ向かって走ったんだ。町の人たちが揺れの大きさに動揺しているのを感じていた。大津波警報の放送とサイレンが響き渡っていた。「石巻市からお報せします。沿岸に大津波警報が出されています。予想される津波の高さは6メートル。沿岸部の方はすぐに高台などに避難すること。十分注意してください」
「そのときの石巻の町並みは覚えてる?」
「ああ、覚えてる」
「それは津波が来る前の町並みだった?」
「・・・・・・!!」
胸を抉られるような痛みと共に、記憶を鮮明に思い出した。不穏な風、地響きのような音、慌てて転ぶ人、おじいちゃんを背負って高台に向かおうとしている女性、先生に引率されている子供たち、市の職員らしき人の声、俺は家に向かって走った。「ヤバイぞ!」「急げ!」「逃げろ!」色々な大声が飛び交う中、俺はようやく家に着いた。
しかし家の中には二人ともいなかった。避難したのかもしれない。だがそうじゃなかったら・・・俺は外に出て二人を探した。何度も何度も叫んだ。
「京子ちゃーん!!未来ー!!京子ちゃーん!!未来ーー!!」
小路から大通りへの十字路に出て海の方角を見ると、黒い海が瓦礫や自動車、ありとあらゆるものを飲み込みながら、ものすごい速さで俺の方へ向かって来るのが見えた。俺は足元を海に掬われて転んだ。このまま流されたらヤバイと思った俺は、流されそうになりながら電柱にしがみついていた。それから・・・。
「何日かして大将が避難所に来てくれたの。止めるのを聞かずにお父ちゃん
は急いで陸に戻って行ったって。津波に呑まれたかもしれないって・・・
お父ちゃん・・・がんばったんだね」
京子ちゃんはそういうと大粒の涙をぽろぽろと流した。未来は目を真っ赤にしながら一生懸命笑顔を作って京子ちゃんを抱きかかえていた。友さんが口を開いた。
「俺が石巻に行ってすぐ、避難所で京子さんと未来ちゃんに会えたんだ。話
を聞いたらお前も避難所にいるんだけどおかしいって。それでお前に会っ
たんだけど、そのとき俺の隣に京子さんと未来ちゃんがいるって気付かな
かっただろ?お前からは京子さんと未来ちゃんが見えない、だけど俺たち
からはお前が見えるって・・・良く分からないけどそんな感じだった。そ
れからずっとそのままだったから、お前が思い出すまでお前の思うままで
いいやって」
「そうか・・・京子ちゃんと未来が俺から見えなかったのは、俺が見なかっ
たから・・・。いや、友さんちょっと待って!じゃあここに埋まってるの
って・・・俺?」
「だって、その指輪お前のだろ」
俺は左の薬指にぴったりとはまった結婚指輪を見た。さっきまで地中深くに埋まっていた結婚指輪。それが俺のものだったということは。
「ここに埋まってるのは、俺だったんだ・・・」
俺は愕然とした。そりゃそうだ。俺はこの10年もの間、何の疑問もなく自分が生きていると思っていたのだから。寝たり、食ったり、働いたり、悲しんだり、他人を励ましたり、とても幽霊だったとは思えない。生きてる人たちにこんなに馴染んでいたら、自分が幽霊だなんて気付けるわけはない。ただひとつ俺と生きている人との違いは、俺が京子ちゃんと未来の存在を無視していたことだけだ。
それでも現実はここにある。俺が10年前に津波に呑まれて死んだこと、そして俺の亡骸がまさに今、発見されたのは紛れもない事実だ。友さんがいきなり「ドッキリでした~!」と言う感じは一切ない。そもそも10年もの間、俺を騙し続けるようなドッキリなんて誰もやるはずがない。ただ、ひとつだけ疑問が残っていた。
「友さん、何で俺が死んでるって分かったんですか。俺、ずっと普通に暮ら
してたじゃないですか」
「ああ・・・お前が気付かないから言わなかったけど、お前寝てるとき以外
はずっと2センチ浮いてるんだ」
「2センチ浮いてる?マジすか?」
思わず俺は自分の足元を触ってみた。・・・本当だった。驚くべきことに俺の足元は地面についていなかった。地面を踏んでいる感覚はあるのに確かに俺は浮いていた。こんなこと気にしなければ気付くはずもない。
と、同時に俺は京子ちゃんと未来の足元に目が行ってしまった。よくよく見たが二人の足はしっかりと地面を踏みしめていた。
「じゃあ、お前たちは?」
「生きてるよ。未来も私も生きてるんだよ」
「無事だったのか・・・」
「うん。みんなに助けてもらったおかげで・・・でもお父ちゃんは・・・」
「俺は・・・俺は・・・あの日に死んだんだな」
京子ちゃんはいたたまれなくなったのか、俺から顔をそむけた。その代わり未来が俺のことを真っすぐに見つめてくれていた。目を背けたい現実から逃げない若さで踏ん張っているようにも見えた。
そんな二人を見ているうちに全身から力が抜けていくのを感じた。俺はそのまま倒れ込んでしまった。死んだのは俺だった。京子ちゃんと未来は生きていたが、俺は死んでしまっていた。あの日から10年もの間思い込んでいたことが全部間違いだったことに俺は狼狽したのだろうか。京子ちゃんはしゃくりあげながらこちらを見て言った。
「ごめんねお父ちゃん、ごめんね・・・私たちを・・・助けようとしてくれ
たのに・・・お父ちゃんだけがこんな・・・ことに・・・」
「私は、お父ちゃんが死んじゃうなんて、許してないからね!」
未来は真剣に俺の方を見て怒っていた。俺の中ではずっと小学生だった未来がこんなに大きくなって、京子ちゃんを守るようにしてこちらを見ていること・・・こんな日が来るとは思ってもみなかった。
「良かった」
その言葉しか出てこなかった・・・。あの日から今まで、俺が望んでいたことだった。俺が悔やんで悔やんで、自分の不甲斐なさを怒り続けていたあの日から、大切にしていた何もかもを捨て去ってしまいたかった気持ちから解放されたこと。いや、言葉では表現できない嬉しさが俺の全身に流れ込んでくるようだった。
「京子ちゃんは生きてる!!」
「はい」
「未来も生きてる!!」
「うん!」
俺はむしゃぶりつくように二人を抱きしめた。
「お父ちゃん!!お父ちゃん!!お父ちゃん!!」
未来が気持ちが爆発したように泣きながら俺に抱きついてきた。大きくなっても未来の匂いは変わってないと感じた。ああ未来が生きている、京子ちゃんが生きている。二人の生きている匂いが俺にとって何よりの宝物だってことを思い出していた。俺はこのまま幽霊のままずっと一緒にいられるならそれでもいいと思っていた。ただただこの幸せが、何でもない家族の何でもないような幸せが永遠に続けばいいと思っていた。
そのとき、今までに感じたことがない懐かしい景色が待っていることに気付いてしまった。それは俺が本来いるべき場所、生まれる前の場所の景色だということに、否応なく気付いてしまった。そして、何故俺が今までここに残っていたのかも。俺は二人から身を離して言った。
「京子ちゃん!」
「はい」
「未来!」
「はい」
「あまり時間はないみたいだ」
「どういうこと?」
「さよならだ・・・」
「え?」
「今分かったんだ・・・俺は何で幽霊になったのか」
そうなのだ。東日本大震災だからじゃない。さよならを言えずに死ななくてはならない人たちは、これまでも、きっとこれからも沢山いる。そう、みんな死ぬ前にはさよならを言いたいんだ。自分の大切な人にさよならをちゃんと伝えたいんだ。死ぬことが辛いんじゃない。愛する人にさよならを伝えられないことが辛いんだ。だから生き残った人たちよ、覚えておいてください。死にゆく俺たちは、「自分がやり残したこと」なんてどうでもいいんです。ただ「あなたたちの今後」が心配なだけなんです。不慮の事故などで死んだとき、あなたに「さよなら」「ありがとう」「応援してる」その3つを言ってあげたい。みんなそれだけなんです。だから自分を責めないでください。堂々と生きてください。俺は時間はかかったが、こんな幸せな終わり方をすることができる。
「未来、さよなら。ありがとう。ずっと応援してるぞ」
「待って。さよならなんてやだよ」
未来が俺をギュッと抱きしめてくる。
「幽霊でも何でもいいよ。お父ちゃん!ずっと一緒にいて!」
「未来・・・」
「いやだ!さよならなんていやだ!!いやだったらいやだ!」
未来は小学生の頃のようにかぶりを振ってわがままを俺にぶつけてくる。京子ちゃんはそんな俺と未来のやりとりを懐かしそうに見つめている。俺はずっとずっと京子ちゃんが大好きだった。京子ちゃんはそんな俺気持ちを分かってると言わんばかりに大きく頷いてクスッと小さく笑った。
「俺だってお別れなんて嫌だよ。ずっと一緒にいたいよ。でもお父ちゃんは
もう死んじゃってるんだ」
「・・・・・・」
「未来、大きくなったなあ・・・天国でみんなに自慢してやる。俺の娘は世
界一かわいいんだって。世界一幸せになるんだって」
「ダメだよ!お父ちゃんがいないと私、幸せじゃない!」
「未来!お父ちゃんを困らせない!」
「約束してくれ未来、世界一幸せになるって」
未来は顔を上げて俺をじっと見つめた。俺は未来に大きく頷く。未来が京子ちゃんに振り返ると、京子ちゃんも未来に大きく頷いた。それを見て、未来はもう一度俺の顔を見て、真面目な顔になった。
「私、幸せになる。世界一幸せになるよ」
未来はそう言うとニッコリと笑った。俺が未来の頭をくしゃくしゃに撫でると、京子ちゃんも一緒になって未来の頭を撫でる。あの頃よくこうやって三人で笑っていた。
「ありがとう京子、生きててくれて。未来を守ってくれて」
「お父ちゃん、私を誰だと思ってるの?」
「え?」
「お父ちゃんの奥さんだよ」
京子ちゃんの言葉に俺と未来は別れを忘れて笑った。俺の人生は素晴らしい人生だった。心からそう思える。教科書に載るような偉人になれなかったけど、長渕みたいなスターにはなれなかったけど、俺の人生には京子ちゃんと未来と一緒に家族を作った。家族はあるだけで幸せなわけじゃない。協力して、努力して作り上げて幸せになったのだ。どこにでもあるような幸せな家族だけど、京子ちゃんと未来と一緒に作れたことを俺は誇りに思う。
そう思ったと同時に、俺の幽霊としての時間が終わるのを感じた。俺は信心深くないから、天国の階段を昇って成仏することになる。ゆくゆくは千の風になるのかもしれない。いよいよ時間がない。とにかくこの世とはお別れだ。
俺は友さんとカケルに向き直って深くお辞儀をし「長い間、ありがとうございました」と言った。カケルは俺にお辞儀を返して「ありがとう、ハルさん」と言ってくれた。友さんは表情を変えずに言った。
「大将が作ってくれる墓にお前の骨、きれいに入れておくからな」
「最後までご迷惑をかけます」
「バーカ・・・またな、兄弟」
そういうと俺に向かってニヤッと笑って古臭いピースサインをした。そのダサさが俺と友さんの関係だ。俺はこんなにも恵まれていた。不意に未来が言った。
「お父ちゃん、約束、覚えてる?」
「約束?」
未来は持っていたハーモニカを取り出した。俺が買ってあげたハーモニカだ。未来が奏でたのは「アニー・ローリー」だった。未来がハーモニカを吹いて俺と京子ちゃんで歌う約束をした曲だ。未来と京子ちゃんは俺が歌詞を覚えていないだろうと思っているようだった。そうはいくか!俺はちゃんと覚えたんだ。
懐かし 川辺に 露は あれど
いとしの アニーローリー 今や いずこ
君に会いし 時は行けど 愛しのアニーローリー
夢 忘れじ
未来は時々、嗚咽でハーモニカの音を出すことができなかったが、懸命に吹いた。京子ちゃんは楽しそうに歌ってくれた。そうだ。この歌は俺がプロポーズしたときに、ラジオから流れていた歌だったんだ。未来にハーモニカを買ってあげた日に京子ちゃんが怒っていた理由がようやくわかった。
歌いながら俺の命のともし火がどんどん消えていくのを感じていた。歌の最後に、俺は自分の結婚指輪を京子ちゃんの左手の薬指にはめてあげた。その瞬間、空と海とが一つになった。遠ざかる石巻、遠ざかる命たち。俺は両手を大きく振って別れを告げた。
(11)
〇友蔵 (日常とハル)
「毎度ありがとうございました~!」
ついに俺は原田さんに魚を売った。ブリッブリの若妻・原田さん。やっぱり人生に目の保養は大事だなと心から思う。俺が去っていく原田さんのお尻を見ていると、俺の尻にタイキックが繰り出された。振り返ると鬼の形相をした典子が立っていた。
「今度そんなフニャケた顔でお客さんを見たら、前をキックするからね」
「は、はい」
そんなやりとりをしていたら、すっかり常連の仲間入りをした二人がやってきた。真子ちゃんとキヨコバーサンだ。特にキヨコバーサンと典子はすっかり意気投合して、時には二人で飲みに行ってるくらいだ。ただ、二人の会話にはまったくついていけない。
「典ちゃん!ハルがジーサンに会わせてくれたんだよ!」
「え!すごい。川まで連れてきてもらったってことですか」
「え?女川がどうしたって?」
「よかったじゃないですか」
「全然良くないよ。ジーサンったらまだこっちに来るなって言うんだ。アタ
シは今すぐにでも行きたいっていうのに」
「すいません典子さん。キヨコちゃんはココがコレなんで」
「真子ちゃん。キヨコちゃんまだしばらく真子ちゃんの世話になりたいって
言ってるわよ」
「まあ、いいんですけどね。ただキヨコちゃんここの魚以外食べなくなっち
ゃったんで・・・今日も半額セール品お願いします」
「オッケーオッケー」
「カケルくんは元気ですか?」
「ああ、今日はメジに挑戦するって言ってたぞ」
「石巻か・・・」
その後、カケルはカケルなりに考えたのだろう。就職活動をやめて石巻に行った。大将の下で漁師の修業を始めたのだ。カケルはいつかハルの船を買い取って、メジを獲ることが夢だって言うようになった。
〇未来 (次世代へのバトン)
お母ちゃんはカケルに甘い。カケルが石巻に来てからというもの、晩ごはんは毎日カケルと一緒だ。来たばかりのころは東京っぽくてイヤな奴だと思ってたけど、大将の下で働いているからか、あっという間に石巻に馴染んでしまった。そんなカケルの口癖は「生きがいなんて何でもいいんだよ」だ。
「何でもいいから一所懸命やったことが生きがいになる。だから未来ちゃん
もがんばりな」
「それ、お父ちゃんが言ってたんでしょ」
「だから何だよ」
「カケルがお父ちゃんみたいな漁師になれるはずないじゃん」
「いいんだよ。生きがいなんだから!」
「生きがいねえ・・・」
「未来にとってお父ちゃんはヒーローだからね。カケルくんの人生なんだか
ら。カケルくんの好きなように生きればいいのよ」
「ありがとうございます。京子さん、お代わりお願いします!!」
「はいはい」
確かにカケルは大将の下で一生懸命働いている。そんな姿がカッコいいと感じる瞬間がある。もしかしたらお母ちゃんはお父ちゃんのそんな姿に惚れたのかな、なんて思ったりもする。
私はお父ちゃんの遺影を見た。買ったばかりの船の前で法被姿のお父ちゃ
んが今日は特に笑っているように見えた。カケルのサブスクからオーイシマサヨシの「浪漫飛行」が流れている。
そこから逃げ出すことは 誰にでもできることさ
あきらめという名の傘じゃ 雨はしのげない
何もかもが 知らないうちに 形をかえてしまう前に
「凪のように穏やかに」3巻 おわり
各巻はこちらから
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