適量で快適な暮らしの哲学#3|ただシンプルを目指すのは、違うような?
こちらの続きです。
「ミニマリストであること」に執着していたことに気付きました。
では、並列で考えていた「シンプルな生活」についてはどうでしょうか。
ノイズの少ない生活にこそ安らぎがあると思っていたけれど、「シンプルであること」を追求するだけの生活になってきているのではないだろうか…?
「ただシンプルなだけ」は違う気がしてきた
「ミニマルでシンプルに生きよう」と何度も自分に言い聞かせてきました。
モノを減らし、予定を詰め込みすぎず、人間関係もすっきりさせよう、と。
まるで「ミニマルでシンプルであること」そのものが、幸せの証明のように思っていたのです。幸せの証明ってなんなのよ。
「ミニマリストでいなくては」という考えからは抜け出した。
けれど、その先にはまだ「シンプルでいなくては」という凝り固まった思考が漂っていました。
SNSを開けば、白基調で整理整頓され尽くした部屋の写真が山ほど目に入ってくる。
グレーとベージュの服、無印良品の棚、綺麗に揃えられた本棚。
これこそが「目指すべき理想の暮らし」なのだと信じていました。
実際、持ち物を減らすと心は軽くなり、選択も楽になる。
いろいろな本を読んだり、素敵な生活を送っている人々を見て「シンプルライフこそ、自分の求める到達点なのでは?」と思った。
シンプルを追求した生活に「快適さ」はありました。
モノが多過ぎる生活から極端なミニマリストになり、紆余曲折を経て、「シンプルな生活」に落ち着いた、と本気で思っていました。
けれど、ある時ふと気付いたのです。
「わたしが求めてたのって、本当にこの生活なのか?」と。
「シンプルな暮らし」って、目標なのか?
シンプルな暮らしに憧れていたはずなのに、いつの間にか
「もっと削ぎ落とさなきゃ」
「まだ持ちすぎている」
「これではシンプルとは言えない」
と、「シンプル」そのものが義務に変わっていました。
「モノが多過ぎて疲れる」状態から自由になりたくて始めたのに、気付けばまた別の「縛り」を作っていた。
シンプルな暮らし、という目標。
シンプルにしなければ、という縛り。
いくら部屋が綺麗でも、なんだか息が詰まる。疲れる。
選択が楽になったと思ったけれど「これはシンプルじゃないからダメ」と、一度は良いなと思ったものを断念する。
白とグレーばかりのクローゼットは好みの色調だけれど、退屈さを感じる。
あれ?なんか、おかしくない?
可愛いと思って手に取ったド派手なカーディガンを、「これはシンプルじゃないからやめておこう」とラックにかけ直した瞬間、思ったのです。
私が本当に求めていたのは「シンプルな暮らし」ではなく、「心が落ち着く暮らし」だったんじゃない?
「シンプル」は目的ではなく、土台
「考える人」で有名な彫刻家・ロダンの言葉で、好きなものが二つあります。まずはその一つ。
シンプルになればなるほど、わたしたちはより完全になる。
シンプルな生活を極めることでより自分の内面が分かり、したいことができる、完全な人生になると思っていました。
だってロダンもこう言っているし、と。
けれどシンプルな暮らしを目標にしていたら、暮らしそのものが不自由になっていきました。
心が落ち着くどころか、「正解を出さなければ」と躍起になって苦しくなってしまった。
そもそも生活に「正解」や「完全」なんて、あるのでしょうか。
ロダンの言葉は好きです。
けれど、生活や暮らしに正解がないのと同じで、わたしたちの人生に「完全」はないのではないだろうか、とも思います。
わたしの人生は彫刻や芸術品ではないのだから、完全になろうとする必要はないのではないか、と。
勝手にロダンの言葉に縛られていただけなんですけどね。
シンプルとは、簡素な状態のこと。余分なものがない状態。
でも、人生は「余分」な部分にこそ、色や味わいがある。
無駄こそ人生に彩りを添えてくれるもの。
私は派手な柄も好きだし、ノームコアも好きです。
仕事モードの日もあれば、何もしたくない日もある。
誰かと話したい日もあれば、一人で静かに過ごしたい日もある。
よく喋る自分も、口数の少ない自分も、楽観的な自分も、悲観的な自分も、スポーツが好きな自分も、読書が好きな自分も、全部わたしの一部に過ぎない。
人間って、多面的な生き物ですよね。
多面性を否定してまで「シンプルでいよう」と頑張るのは、自分の奥行きを削ってしまうようなもの。
だから今のわたしは、「シンプルでありたい」とはあまり思っていません。
そもそも、シンプルは土台であるべきだと思うのです。
多種多様な好みを反映させるための土台を、シンプルにしておく。
そうすることで、好みがより際立ち、人生が彩りを持つようになる。
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