小説【まだ嗅いだことのない花の香り】30
エピローグ
『世界で1000万再生突破!』
ネットにそんな見出しの記事が躍ったのは、あのクリスマスから半年あまりが過ぎた頃だった。
冨樫が企画した、世界の心霊スポットを紀行番組風に描き出す『ホーンテッド・ワールド』は話題を呼び、続編がすでに始動しているという。
洋介はスマートフォンの画面を閉じると、静かに椅子の背にもたれかかった。
古いベータカムが山のように置かれている窓のないテープ倉庫。かつて冨樫が所属していたアーカイブセンターの一角が洋介の今の職場だ。
現在ではデータでの素材管理が主流となったテレビ局で、膨大なテープの中から、破棄する前に使えそうな映像を抜き出すのが洋介の主な仕事になっている。
室温を一定に保つために、過剰な程に冷房の効いたその部屋で、洋介は変化のない日々を送っている。
「いつでも待ってるから」
冨樫はそう声をかけてくれたが、洋介は東洋テレビに居座ることを選んだ。迷いがないわけではなかったが、プロダクションの仕事の現実を知るからこそ、一歩踏み出しきれなかった。
結局、『いつか世界の空港で』は、スキャンダルの余波を受けて、十五年の歴史に幕を下ろした。
あの『脅迫メール』については、会社に言われるまま、洋介自身の責任として認めた。三木はすでに業界を去っていたし、どれだけ抗ったところで、自宅のパソコンから送信されたという事実は変わらない。快斗を巻き込んでまで真相を明らかにしたところで、過ちが帳消しになるわけではなかったからだ。
社内捜査の末、下請けいじめよりも二億円のキックバックの方が問題視された。常務の大場は局を去り、等々力局長と葛木は、管理者責任を問われて、それぞれ関連会社へ出向するという降格処分を受けた。
「備品購入の決済お願いできますか?」
女性スタッフが書類を差し出す。洋介は確認し決済印を押した。
無骨なスチール棚と山のように積まれたテープ類に囲まれたこの部屋には、部員は二人しかいない。
彼女は、机に置かれた洋介のスマートフォンの待ち受けを見て、嬉しそうに茶化してきた。
「家族でディズニーですか? 鮫島さん、ごりごりの制作マンって聞いてたので、怖い人かと思ってましたけど、意外と家庭的なんですね」
シンデレラ城の前で撮った家族三人のスナップ写真。家庭的——見る人にはそう映るのかもしれないが、それはむしろ「忘れてはいけないもの」を見つめ直すための、ささやかな戒めだった。
あのクリスマス以来、快斗は塾をやめた。最初は時間を持て余しているようだったが、最近は出かけて行っては植物の絵を描くことに夢中になっている。
晴美はしばらく家に引きこもっていたが、
「外で働いてみたら?」という洋介の提案に、「料理の仕事をしてみたい」と答えた。
後日、「夜だけど、知人の店で働くことになった」と伝えてきた。それが、『さんはい』のキッチンだと知り、洋介は数少ない憂さ晴らしの場所を失うことになった。
「聞いてくださいよ、鮫島さん。この前、彼と喧嘩して——」
単調な作業が続くこの部署では、彼女の無駄話に相槌を打つのも仕事で、洋介は案外嫌いではない。
「ほんと、許せなくて。鮫島さんは喧嘩したとき、どうやって気持ちを和らげますか?」
返答に困りながらも、ふと記憶の底にしまっていた小さな出来事を思い返す。
「そうだね、例えば、喧嘩した相手がさ、昔あげた音楽プレイヤーを大事に使ってて、一緒に聴いた曲を今も聴いてるって知ったら、ちょっとは和むんじゃないかな……」
「やめてくださいよ、いきなりエモい話、ぶっ込まないでください。あと、その曲が二人にとって特別で、『あの曲』って言うだけでお互いにそのシーンがぱっと浮かぶとかも、めっちゃエモくないですか。……って、何言わせるんですか」
「面白いね。そのアイデアもらってもいい?」
「別に、構いませんけど」
洋介は話を切り上げ、思いついたアイデアを忘れないうちにパワーポイントを立ち上げる。
あの場所で、あの曲を——
『一緒に聴いたあの曲がかかる、あの場所で待ってます、という書き置きを残して居なくなった恋人を二人の記憶を頼りに捜査する番組』
洋介は無くしたものを取り戻すように、テキストを打ちはじめた。
——了
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