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小説【まだ嗅いだことのない花の香り】1

【あらすじ】
 仕事漬けのテレビマンの洋介と、中学受験に取り憑かれた専業主婦の晴美。二人の歪んだ愛の狭間で、息子の快斗は生きづらさを感じている。クリスマスに快斗がねだったのはスマートフォン。その“らしくないプレゼント”には、支配から抜け出すための小さな反逆が秘められていた。そんな中、洋介の職場でスキャンダルが発覚。彼は“脅迫メール”の送り主と疑われ、孤立する。一方、息子の異変に気づけない晴美は不貞に走り、“幸せそう”な家族のメッキがはがれていく。迎えたクリスマスイブ。洋介がプレゼントを届けに寝室へ入ると、怪しい“メモ”を見つける。それがスキャンダルの真相へと繋がり、息子への疑念が深まる。家庭が崩壊する中、洋介はようやく快斗の純粋な思いに気づくが──。

まだ嗅いだことのない花の香り

1-1

「サンタさんって、いないの?」
 泣き出しそうな声が聞こえた。鮫島洋介が振り向くと、息子の快斗がパジャマ姿で立ち尽くしていた。リビングに漂う怒りの感情が、潮が引くように静かに消えていった。目の前で睨みつけていた妻の晴美の瞳に、絶望の影がじわりと広がっていく。
 冷えきったこの部屋では、ちょろちょろと落ちるアクアリウムの水の音だけが冷静を保っている。思いがけずに現れた息子を目の当たりにし、洋介も晴美も次の言葉が出てこない。やがて、エアコンが不機嫌そうな唸り声を上げながら、暖風を吐き始めた。
 まだ五年生の快斗には、大人の罵り合いはちょっと刺激が強すぎたのか、まるでディズニーランドの裏側を覗いてしまったような顔で、ぽかんと口を開けている。どうせ本性をさらすなら、キスでもしているところを見られた方がよほど絆が深まったかもしれないと、洋介は苦笑いした。
「……パパと大事なお話をしてるから、もう寝なさい」
 晴美は、はねた寝癖をなでつけるように無理やりなだめにかかる。
「ごめんな快斗、起こしちゃって。実は、サンタクロースは──」
 いっそサンタクロースなんて空想だと打ち明け、場をとりなそうと思ったが、晴美が牽制するように睨みつけた。いつまでもファンタジーを信じさせたいという彼女の子育てへの執着に、洋介は内心うんざりしている。
「いい子にしてないと、サンタさん来ないよ」
 それらしいことを言って連れ出そうとするが、快斗が強く抵抗する。年のわりに小柄で華奢な彼が、珍しく鋭い目つきで食い下がる。
「うちにはサンタさん、来ないの?」
 冷えた問いかけには、子どもには不釣り合いな影が宿っていた。
「そんなことない。塾の勉強をしっかりやれば必ず来る」
「プレゼントがもらえないなら、ぼく……」
「快くん!」
 息子の言葉を打ち消して、晴美が強引に二階の寝室へと引っ張っていく。泣き叫ぶ声は、遠ざかる救急車のサイレンのようにしぼんでいった。
 音をなくした部屋を何気なく見渡すと、いつの間にか新しいコルクボードが設置されていることに気がついた。知らぬ間に、部屋のレイアウトは変わっていくが、そのことに口を出すつもりはない。下手に口を出せば面倒な空気になるだけで、家のことに無関心でいることは、夫婦の衝突を避けるための一種の処世術だ。
 ボードには、模試の答案用紙が貼られていた。
 73点──簡単な問題の読み違えが目立ち、自然とため息が漏れる。かけた期待は思ったほどに報われない、そんな苛立ちがじわじわと胸の底で広がる。
 サイドボードの上に置かれた水槽を覗き込むと、無数の小さな熱帯魚が泳いでいる。この部屋で、唯一といえる洋介の所有物だ。粉餌をひとつまみ撒くと、一斉に集まって来た。餌を奪い合うカラフルな魚たちは、『パパブブレ』のキャンディーのように愛おしい。洋介は従順な彼らの動きを黙って目で追った。
 しばらくして、寝巻き代わりのスウェットのまま静かに外に出た。形だけは一緒の寝室に、今は入る気にはなれなかったからだ。

 寝静まった住宅街に整然と並ぶ街灯が、無機質な高層マンションを怪しげに闇夜へ浮かび上がらせている。“理想の暮らし”の名のもとに、コンクリートで塗り固められた街は人影はまばらで、憂さを晴らせるような場所は見当たらない。
 高架をくぐると、最終電車の到着を告げるアナウンスが新浦安駅の方から聞こえた。すっかり葉を落とした街路樹に、トナカイのイルミネーションがちかちかと灯っている。
 十五分ほど歩くと、浦安駅にたどり着いた。
 この付近には『新浦安』と『浦安』の二つの駅が存在する。自宅に近いのは新浦安駅で、その周りが埋立地に造られた人工的な計画都市であるのに対し、浦安駅の周りには古くからの漁師町の風情と人間臭さが色濃く残されている。
 そんな浦安の街の一角に、入るのをためらうほどに無愛想な外観の飲み屋がある。古びたマンションの一階にある板チョコのように見える扉には、『営業中』の小さな札がぶら下がっている。
 もみあげに白髪が混じりはじめた短髪を手ぐしで軽く整えると、洋介は扉を引いた。
 リン、と小さな鈴の音が響く。
「いらっしゃ……あら、鮫ちゃん」
 薄暗いカウンターの奥に立つ女が、声をかけてきた。
「まだ平気?」
「もちろん」
 おしぼりを差し出しながら、女はにっこりしながら招き入れる。他に客のいない店内には、飾り気のないクリスマスツリーが虚ろに明滅している。
『12月21日(月)』
 壁にかかる、地元商店会の名前入りの薄っぺらい日めくりカレンダーからは、年の瀬の静けさを感じてしまう。
「一杯飲んだら帰るからさ」
「ふふ、一杯じゃなくていいよ」
 カウンターに八席ばかりと、ソファー席が一つだけのこぢんまりしたスナック。四十代のママと、アルバイトの女の子が酒の相手をしてくれる。看板も出していない店の名は、『さんはい』という。
 変わった名前だ──何かの勢いづけか、三杯くらいは飲んでほしいという期待の現れか。気にはなっていたが、由来を聞いたことはない。
 瑠美がオーディオのつまみをひねると、息を吹き返したようにラウンジ・ジャズが流れ始めた。奥のキッチンにいるバイトの女の子が、小さなコンパクトを覗きながら化粧を直している。目配せをすると、手元のコンシーラーを小刻みに振りながら、にこっと目を合わせた。
「ボトル、まだある?」
「もちろんよ」
 瑠美が棚の奥から『鮫島洋介』の札を下げたローヤルの瓶を取り出し、慣れた手つきで酒を作る。
 立ち姿が綺麗ないい女──それが彼女の印象。切れ長の目元に、ぽってりとした唇。潔のよいショートカットの黒髪が、色白で華奢な首筋を引き立てている。郊外の路地裏で夢を膨らませる相手としては、申し分のない女だった。
 彼女はウイスキーを注いだ切子のグラスを筆字で『さんはい』と書かれたコースターに優しくのせながら、不意を突くように言った。
「──奥様と、喧嘩した」
 女の勘は侮れないと思った。
「慌てて出て来ましたって格好だから」
「まいったな、だいたいあってるよ」
 ピスタチオを盛った小皿を出しながら、「鮫島さんも夫婦喧嘩するんですね?」と、バイトの子が茶化してくる。苦笑いで返すと、彼女はくるりと踵を返してキッチンへと戻った。
「確かに、女と争うタイプには見えないわね」
 入れ替わるように、瑠美が追い討ちをかける。
「何それ? 初めて言われた」
「面倒になる前に引いちゃいそうだから。奥様は特別なのかな……」
 溜め込んだ憂さ話を上手に引き出す嫌味のない会話運び。妻を立てる事も忘れてはいない利口な女で、ついつい本音がこぼれる。
 洋介はウイスキーを口に含むと、脳にこびりついた夫婦喧嘩の残りカスが溶けていった。
「最近、避けられてるというか、意見が合わないというか。一緒にいれば口論するか、無視されるかのどっちかだね」
「そんなもんじゃない? 夫婦なんて」
「さっきも些細なことで喧嘩になってさ。それを子どもに見られちゃって」
「あら、なんで?」
 さらりと聞いてくる彼女の瞳からは、好奇心が漏れ出している。
「それがくだらなくてさ。なんで、あんな事で──」
「教えて」
 瑠美は洋介の目の奥をじっと覗き込む。顔を寄せてきた彼女の鼻先からは、どこか懐かしい甘い花の香りがした。
「クリスマスプレゼント」
 洋介は観念して口を開いた。もとより、誰かに話したかったのかもしれない。
「かわいらしい理由ね」
 瑠美は嬉しそうに、くすくすと笑った。
「ほんと、大した話じゃないけど……」
 前置きをして、肴代わりにさっきの喧嘩の経緯を語り始めた。

~つづく


登場人物
【1章】
1-1
1-2
1-3
1-4
1-5
1-6
【2章】
2-1
2-2
【3章】
3-1
3-2
3-3
【4章】
4-1
4-2
【5章】
5-1
5-2
5-3
【6章】
6-1
6-2
6-3
【7章】
7-1
7-2
7-3
【8章】
8-1
8-2
8-3
8-4
8-5
【9章】
9-1
9-2
エピローグ

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