小説【まだ嗅いだことのない花の香り】8
2-2
週に三日、快斗は中学受験対策の進学塾に通っている。火曜と金曜と日曜。平日は午後五時から七時まで、日曜は午後二時から五時までみっちりと授業を受ける。そんな塾通いは、物心がつく前から始まった。
快斗は小学校受験を経験している。
三歳の頃、浦安市内の『幼児教室』に通いはじめた。細かい作業を正確に遂行する『巧緻性』を養うために三角や四角を描き続ける訓練や、『フラッシュカード』と呼ばれる絵が描かれた大量のカードを高速で見せられる授業などが行われた。当時の記憶はぼんやりとしているが、忘れられないことがある。
五歳の夏、幼稚園からの帰り道に、「お出かけしよ」と晴美が言った。ふいに差し出されたご褒美のような言葉に、胸がふわりと弾んだ。
当時、洋介は撮影で海外に行くことが多く、家を空けがちだった。外出といえば、幼稚園か幼児教室くらい。だからこそ、『お出かけ』は特別な響きがあった。
「どこいくの?」と尋ねても、晴美は微笑むだけだった。
二人で電車に乗った。
快斗は座席の上にちょこんと正座し、窓にぴたりと張りついて流れる風景を見つめた。道沿いのガソリンスタンド、看板の大きなスーパー、煙を上げる工場の煙突。どれも記録映画のワンシーンみたいに、ふと脳裏に蘇ることがある。
行き先は、隣の市にある植物園だった。
全面ガラス張りの巨大な温室が特徴的で、さまざまな熱帯植物が鑑賞できる。中でもひときわ目を引いたのは、温室の中央に生えている、オオギバショウという背の高い植物だった。別名『旅人の木』と呼ばれ、ヤシのような真っ直ぐな幹を持ち、その先端に大きな扇のような葉を広げる。葉の根元にはカラスのくちばしのように鋭く突き出した純白の花が咲いていた。
「すごい……」
その偉容に心を奪われた快斗は、思わず声を漏らした。晴美は、満足げに微笑み、優しく言った。
「さあ、描いてみようか」
かく……?
快斗は戸惑いながら、母の顔を見上げた。口元は笑っていたが、その目はどこか冷徹で、逆らう余地を与えなかった。晴美はバッグからスケッチブックと新品のクレヨンを取り出し、「描いて」と言って渡した。
小学校の受験には、絵を描く試験が出題される。
想像力や表現力はもちろん、どんな家庭で育ったか、何に興味をもっているのかが確認される。
この日の『お出かけ』は、そのための仕込みだったのだ。
当時は、食事中に質問攻めにされることが常だった。
「ママが作るお料理は何が好き?」
「お味噌汁の具、全部言えますか?」
「このニンジンはどんなふうに育ってますか?」
会話はすべて受験対策に変換された。
洋介のいない二人きりの食卓は、息子の能力開発の場となった。
快斗には、それが嫌だったという記憶はない。
ただただ、母に従うのことが当然だと思い、成長した。
それでも結局、快斗は小学校受験に失敗した。
晴美が「負け」と言ったのは、そのことだ。
幼かったせいもあり、当時の快斗には『負け』の意識はなかったが、成長とともにその劣等感は快斗を苦しめてきた。
ことあるごとに言い聞かせられた言葉がある。
「快くんは偉いのよぉ。お受験のあと、私、あなたに聞いたの。『悔しさをバネに、六年後の受験も頑張れる?』って。あなた、『ぼく頑張る』ってはっきり言ったのぉ。もう、ママ泣いちゃった。あの時、あなたの挑戦を応援しなきゃって思ったの」
快斗は、その時のことを覚えていない。ただ、この美談は、快斗の塾通いを正当化するためのエピソードとして機能し続けている。快斗にとって、塾通いは日常であり、受験は与えられた使命だ。
「なんでもママに言いなさい。パパに相談しちゃダメよ」
母と子の二人の時間が積み重なるうちに、快斗の晴美に対する服従の習慣は、じわじわと根づいていったのだ。
快斗は自分の部屋の本棚に並んだ植物図鑑の背表紙を指でなぞり、その中から『熱帯植物』と書かれたものを取り出した。ページを開くと、二つ折りにされた画用紙が挟まっている。赤や黄の原色で奔放に描かれたオオギバショウの絵。五歳の夏、植物園で快斗が描いた一枚だ。
これをどんな気持ちで描いたんだろう──何度見返しても、思い出せない。
「快くーん、出かけるよ」
階下から、晴美が呼ぶ声がした。
快斗は画用紙を図鑑に戻し、塾のバッグを手に取ると、リビングへ降りた。
晴美は、さっきの冷たい視線が嘘のように、満面の笑みを浮かべ、快斗に向かって手を広げた。
「快くんが好きなクリームシチューだよ」
その声には、甘えを許す優しさが滲んでいる。
どれが本当のママなのか──冷たい晴美と笑顔の晴美、この激しい気性の振れ幅に、母親の姿を見失いそうになる。
快斗は大きく鼻で空気を吸い込む。
一瞬、後ずさりそうになったが、子どもらしい笑顔を作って言った。
「塾、がんばるよ」
晴美は満足げに快斗を強く抱き寄せた。
今は、いい子でいなければいけない──そう自分に言い聞かせ、快斗は母の理想の息子であろうと、あらためて心に誓った。
塾へ向かう道すがら、自転車のペダルを踏み込むたび、冷たい風が頬を斬るように吹きつけた。新浦安駅の付近まで来ると、着ぐるみのトナカイが行き交う人々にティッシュを配っている。ショッピングモールからはジングルベルのメロディが流れ、街は浮き立つようなクリスマスムードに包まれていた。
上下おそろいの制服に身を包んだ子どもたちが駅から出てきた。都内の私立小学校に通っているのだろう。彼らは笑いながらトナカイにちょっかいを出している。エスカレーター式に進学ができる彼らの無邪気な姿が、快斗には羨ましく映る。
快斗と晴美は駐輪場に自転車を停め、『光栄アカデミー』の看板が掲げられたビルへと入る。受付のフロアに上がると、「おはようございます!」と黒いスーツを着た講師陣がエネルギッシュな挨拶で出迎えた。
「鮫島快斗くんだね。今日からよろしく」
声をかけてきた男は、髪をオールバックに撫でつけたスマートな男だった。ネームプレートには『川島龍一郎』とある。
「快斗、ちゃんと先生にご挨拶して」
晴美が川島に挨拶をするように促す。
「……今日から、おねがいします」
頭を下げると、川島は快斗の肩に手を置いて言った。
「T1はハイレベルだけど、必ず君のためになる。頑張ってね」
川島は、柔らかく微笑みながら激励した。
T(特進)クラスは五段階に分かれていて、T1(特進第一)クラスは最上位のクラスだ。入るには偏差値65以上が必要で、快斗は直近のクラス編成テストを経て、今日からここで学ぶことになっていた。その担当講師が川島だった。
「どうぞよろしくお願いします。快斗にはちょっと厳しいくらいがちょうどいいので、びしびし鍛えてくださいね」
母はいつになく機嫌がいい。
彼女にしてみれば、息子がT1に入った、というだけで優越感だろう。
「冬休みから個別指導も入れるんですよね? いよいよ、あと一年ですからね。我々も全力でお子さまをサポートします」
今週末に入る冬休みから、塾に行く日を一日増やされることになっている。これで、快斗は土曜も日曜も塾に通うことになる。
「先生の言うこと、ちゃんと聞くのよ」
そう言うと、晴美は川島に深々と頭を下げて出て行った。
入れ替わるように、ミクと拓馬、その母親たちが入って来るのが見えた。快斗は鉢合わせるのが面倒なので、逃げるようにT1の部屋に入る。
快斗の席は窓際の一番後ろだった。 ここでは成績順で席が決まる。つまり、快斗はこのクラスの中では成績下位だということだ。筆記用具を机に広げていると、「──快斗くん?」と後から声をかけられた。
声の主は、藤堂楓雅だった。
「楓雅くん……なんで?」
「あぁ、最近、通い始めたんだよ、この塾に」
「えっ、楓雅くんの学校って、内部進学ができるんじゃなかったの?」
楓雅は、同じ幼稚園に通った幼馴染で、家も近所だ。親同士も親しく、同じ幼児教室にも通った仲だ。
しかし、彼は第一志望の私立小学校に合格し、快斗は落ちた。それ以来、疎遠になっていた。
楓雅の学校は大学まで内部進学ができるはずなのに、塾に来ていることが不思議だった。
「御三家、狙おうと思ってさ」
楓雅はあっさり言い放った。晴美が快斗に課している目標と一緒だ。
「凄いね、楓雅くんは……」
「ふふ。お互いがんばろ。快斗くん、今度は受かるといいね」
それだけ言うと、藤堂はもう興味を失ったかのように振り返り、前方の自席へと戻った。
おえっ──、と急に胃液が込み上げた。
快斗は、えずいたのを悟られないよう、そっと顔を覆った。思い出したくもない敗北感が快斗を襲う。
「さぁ、授業を始めましょうか。みなさん、一週間後はクリスマスイブですが、浮かれるのは当日だけにしましょうね」
川島の軽快なトークに、教室が和やかな空気に包まれる。まわりの子どもたちは、一言一句もらすまいという勢いで、聞き入っている。
「いよいよ六年生の受験が始まります。みなさんもあと一年後ですからね。気を引き締めて──」
それからの授業内容は、ほとんど頭に入ってこなかった。教室を見渡せば、川島の言葉に真剣に耳を傾ける子どもたちがいる。同じ方向を見つめ、周囲を蹴落としてでも勝つという意気込みにあふれている。
自分が馴染めているのか、そんなことすら快斗にはわからない。
「やるしかない……」
それは、ため息のような声だった。
隣の席の名も知らぬ女子が、「何を?」と、奇妙なものを見るような目で快斗に聞いたが、すぐに授業へと意識を戻した。以降、彼女は自分と違う色をまとった誰かを、払いのけるように授業に耳を傾ける。
快斗の目は、重い覚悟で黒く深く沈んでいた。
~3章へつづく
★続きは↓こちら★
★1話からは↓こちら★
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければサポートお願いします。いただいたサポートは今後の制作資金に使わせていただきます。