小説【まだ嗅いだことのない花の香り】9
3-1
いつもの場所で──
ジーンズの尻ポケットが微かに震えた。鮫島晴美が取り出したスマートフォンの画面には、『PTA理事』という名が表示されていた。返信しようとすると、お向かいの神部亮太の母親が声をかけてきた。
「ねぇ、晴美ちゃん。快斗くん、どこを受けるか決めた?」
朝の登校時間には、見送りのために近隣の保護者が勢揃いする。
「まだです。あと一年ありますから」
晴美は感じよく受け流す。
「うちもさ、亮太に受験させようか迷っててさ。上の子は私立に行かせたけど、遊んでばっかりで。あれなら公立でも一緒かなって」
「それはお子さんの資質の問題でしょ」と思ったが、晴美は決して口には出さない。口元に柔らかな笑みを湛えたまま、スマホをそっとポケットに戻した。
神部の詮索は止まらない。
「特進クラス入ったんでしょ? やっぱ、御三家ねらい?」
どこで聞きつけたのかは知らないが、晴美の気分は悪くない。
「どうせここから漏れたんでしょう」と、晴美は静かに隣の家の前に立つ、山本ミクの母親を見る。視線に気づいた山本は、軽い会釈で返してきた。
鮫島家は、私道をコの字形に囲むように十軒が並ぶ住宅地の一角にある。そこに暮らす子どもたちは、近所にある幼稚園の頃からの顔なじみで、当然、母親同士もつき合いが古い。
六年生のリーダーが、「並んでください」と通学班の子どもに声をかける。
「亮太、あとで行くからね!」
午後にはマラソン大会がある。神部は仕事を休んで応援に行くのだろう。
「楽勝だよ!」
と、亮太は腕を突き上げて反応した。
「出発します」
リーダーの掛け声とともに、子どもたちは隊列を組んで小学校へと出発した。
晴美は手を振って、息子の快斗を笑顔で送り出す。
恥ずかしいのか、快斗は一度もこちらを見ずに、前を向いたまま歩いていった。
子どもたちがいなくなると、自然とご近所さんとの立ち話が始まる。
「快斗くんには差をつけられちゃったなぁ」
山本が話しかけてきた。
「今日からT1でしょ。どうやったら入れるのよぉ、もう」
「まあ。でも成績を維持しないと、またT2に戻ることだって……」
晴美は謙遜しながらも、内心では「そんなこと、絶対にさせない」と強く思っていた。
山本の娘のミクも同じ塾のT2クラスにいる。これまで切磋琢磨して来た分、歯痒い思いもあるのだろう。
「ミクにも本腰入れてもらわないとな。お互い、頑張ろうね」
山本の笑顔の奥に、僅かな焦りが滲んでいるのを晴美は見逃さなかった。
そんな最中、玄関から洋介が慌てて出てきた。
「あら、ご主人。いってらっしゃーい」
神部が馴れ馴れしく手を振りながら挨拶をすると、洋介は軽く会釈をし、逃げるように出かけて行った。
「いいわね。晴美ちゃんは」
「何がですか?」
「快斗くんも優秀だし、パパは東洋テレビだもんね。羨ましいわ」
神部は思ったことは何でも口に出すタイプだ。
「大変ですよ。不規則な仕事なんで、いつも家にいないですし。海外ロケになったら、二週間もいないんですから。それはそれで気楽ですけどね」
晴美は笑いながら謙遜する。
幸せな家庭なんだろうか──確かに、夫は高級取りではある。テレビ局という華やかな印象から、羨望されるのもわからないではない。
「いいなぁ、海外に仕事で行けるなんて。ねえ、山本さん?」
「そうそう。お土産とかね。うらやましい」
「全然。昨日だって、連絡もしないで飲んで帰ってきたんですよ。ほんと、ずぼらで」
「意外! そんな風に見えないけどね」
「外面がいいんです。せっかく作った料理を捨てる身にもなって欲しい。食器を洗うのも嫌になりますね」
「それ、分かる。テーブルに食べた食器置いてある時とか、『マジ、お前が洗え』ってなるよねぇ、神部さん?」
「そうそう、うちもうちも。旦那なんて、どこもそんなもんじゃない」
いつからだろう──夫を軽んじる話の方が、ずっと楽になったのは。受験の話題は角が立つが、夫の悪口は共感を呼べる。かけ違えた夫婦関係は、ズレたままになって久しいが、こうして話題にしていると、本当にそう思い込めてしまうのだから不思議だ。
雑談をしていると、私道の一番奥の家の扉が開いた。
三人が反射的にそちらを見ると、上下紺色の制服に身を包んだ少年と、母親が出てきた。
「おはよう」
澄んだ声で挨拶をしたのは、藤堂風雅の母親だ。エルメスのマフラーをさりげなく巻き、アイボリーのカシミヤのコートに身を包んでいる。
「これから出社?」
神部が藤堂にわかりきったことを聞く。
「ええ。息子と一緒に」
スマイルの教室にでも通っているのでは……、と疑いたくなるほど、彼女は綺麗に口角を上げて答えた。
藤堂は、航空会社でキャビンアテンダントをしている。アップにまとめられた髪も、洗練されたメイクにも全く隙がない。息子の風雅は快斗と学年が一緒だが、都内の私立小学校に通っており、いつも母親と一緒に出かける。
「行ってまいります」
息子の風雅が毅然と振る舞う。
「それじゃあ皆さん、ごきげんよ」
明るく手を振り、藤堂親子は出かけて行った。
話の腰をおられた山本と神部は家へと入っていく。
晴美も愛想よく会釈し、家に入った。
カタン、と扉が閉まる乾いた音が響く。
それを確認した晴美は、急いでスマホを取り出し、先ほどのメッセージを開く。
『いつもの場所で』
たったそれだけの文字に、脳みそが裏返るような刺激を覚える。
スマホの画面に『07:45』と、表示されている。マラソン大会のことが一瞬だけ頭をよぎるが、言い訳だけが浮かんでくる。晴美は震える親指で『了解』と打ち込んで送信した。その瞬間、母親の仮面が音を立てて剥がれ落ちた。
手早くリビングに掃除機をかけ、家事を片付ける。テーブルの上には、洋介の食器が置きっぱなしになっている。「シンクに入れて」と何度も言っているのに、改善されないことがもどかしい。それでも、几帳面な性分から、ちゃっちゃとそれを洗ってしまうと、寝室のクローゼットの奥にしまっておいたエコバッグに荷物を入れる。そして、買い物にでも出かけるような気軽さを装い自転車にまたがると、夫が通勤で使わない方の駅へとペダルを踏み出した。
浦安駅近くに自転車を停め、東西線に乗る。西船橋で降りると、身支度を済ませるためにトイレに駆け込んだ。
手洗い場の鏡の前で、赤が強めのルージュを塗る。この先の行動を正当化するための勇気をまとう儀式だ。一つに結えた長い黒髪を下ろし、整髪料で軽く遊びをつける。グロスをさした口をつぐんで、んまっ、と開く。満足がいく艶だ。綺麗な石が揺れるフックピアスをつけようとした時に、スマホが再び震えた。メッセージを見て、思わずにやけてしまう。
もう始まっている──と、晴美は理解する。
日常を脱ぎ捨てるように、着てきた服をエコバッグへと押し込み、総武線に乗り換えて、目的地へと向かう。
車内にひしめく人混みが、専業主婦である晴美を都会で働く女に化かしてくれる。移動中にスマホを開き、受信したメッセージを全て消去する。ほころびがあってはいけないという不自由さが、かえって晴美を昂ぶらせた。
錦糸町の駅で電車を降り、ちょうど九時半に待ち合わせの場所に到着した。この一角はラブホテルが軒を連ねており、冬晴れの澄んだ青空とは対照的に、すすけた陰気が漂っている。晴美はいつもの場所の向かいの道端に立つ。
身体のラインがはっきり出やすい、ニットのブルーのワンピースに、白い薄手のダウンを羽織り、ターコイズのハイヒールを履いている。男に見せるために選んだ衣裳。素足はさすがに寒いが、高揚した体温で乗り切れる気がした。
遠くでタバコを吹かす男が、じっとこちらを見ている。通りすがる男たちが、ひと目見て振り返っていく。どんな目的で人を待っているかは、彼らには明らかだろう。膝上丈のニットの裾からあらわになった太ももの隙間に視線を感じる。
彼は待たせることを楽しむようなところがある。約束の時間より10分程遅れて、男が現れた。
「お待たせ」
低く優しく響く声で言う。口元に薄く笑みを浮かべている。
「遅いよ、川島くん。寒いから早く入ろ」
甘えた声で晴美がそう言った相手は、快斗の塾に勤める川島龍一郎だ。彼はさりげなく晴美の肩に手を置くと、「約束通り、脱いできた?」とにやにやしながら耳元で呟いた。
高鳴る心音が、周りでうかがう男たちに聞かれてしまうんじゃないかと、気が気じゃなかった。晴美は太ももを擦り合わせながら、恥ずかしそうにうなずくと、彼は腰に手を回し、中へと誘う。
息苦しいほどに狭いエレベーターで、川島は何も喋らない。晴美は値踏みするような視線にさらされ続ける。部屋に入り、玄関から上がろうとする晴美を、川島が力強く引き戻した。
「いや、まって……」
嫌じゃなかった。
ニットの裾の隙間から手が入り、夫に触れられることのなくなった尻を優しく撫でられながら、力まかせに唇を奪われる。せめて靴くらい脱ごうと足を動かすが、無理だ。獲物を狙う爬虫類のように、川島の中指がするすると内ももを這い上がり、下着のないつけ根の部分へと滑り込んだ。
「百瀬、これどうしたの?」
「ばか」
川島は晴美のことを、出会った頃の姓で呼ぶ。それが、彼女に女であることをより実感させた。彼に傀儡のように操られ、たっぷりと焦らされ続けた晴美には、形式的な愛撫はいらなかった。そのまま彼を受け入れ、激しく揺さぶられ続ける。薄暗い安ホテルの部屋の入り口で、乱暴に求められる感触は、一度知ったら抗えない罪の味わいだ。
激しく求め合った後は、たわいもない会話をするのが常だった。
「同じクラスだった翔太とさゆちゃん、結婚したの知ってる?」
「あぁ。ずっとつき合ってたんだろ?」
「すごいよね。二十年だよ。よく、結婚しようってなれるよね」
晴美と川島は高校の同級生だ。
二人は、三年前に『光栄アカデミー』で偶然再会した。息子の受験に悩む母親と、敏腕の塾講師。夫にはできない受験の相談をするうちに、同級生以上の関係に発展した。
「一番好きだった人と結婚するって、どんな感じなんだろうね?」
晴美は、自分に言い聞かせるように呟く。
「君は、俺だったりしないの?」
川島は、薄ら笑いを浮かべている。
「全然。高校の頃、うちら接点なかったじゃん」
「まあね。俺は結構気にしてたけどね、百瀬晴美のこと。でも一番かぁ、誰だろうね」
晴美の敏感な部分をもて遊びながら、川島は軽口をたたく。
「快斗くん。最近、集中できてないんじゃない?」
「そうなのよ。この前の模試もミスだらけだったし」
「地頭はいいと思うんだよね。この前の模試の算数で、一番難しかった問題を解けたの、快斗くんだけだった。やる気さえ出してくれたらな」
晴美は自分のことを褒められたように喜び、川島に馬乗りになる。
「そうなの! あの子は凄いの。なのに、塾をやめたいって言い出して」
「え、せっかくT1に上げたのに? 大変だったんだよ」
「分かってる。だからなんとか説得して、サンタに好きなもの頼んでいいから、続けなさいって言ったの」
「そうなんだ。なに頼んだの、彼?」
「スマホ……」
「今の子らしいね」
川島は吹き出すように笑った。
「本当はスマホなんか持たせたくないけど、私の育て方が悪いからだって、夫に思われたくないのよね」
川島は覆い被さるよになりながら、「君にとっての一番は、快斗くんなんだろうね」と、茶化すように言った。
そのまま唇と舌で、晴美の耳の先からつま先にまで触れていく。
彼の言う通りだ、と晴美は思う。
快斗のことを思うほど、焦りが彼女の中で色濃くなる。そんな心の奥底に溜まった不安を川島に身を任せることで、一時的に忘れることができたのだ。
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