小説【まだ嗅いだことのない花の香り】10
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好きなだけ晴美を玩具にすると、川島は仕事へと出て行った。しわくちゃのシーツの上で、壊れた糸繰り人形のように天井を見つめていた晴美は、やがてそっと体を起こし、小さなポーチから年季の入ったiPodとタバコの箱を取り出した。情事の後は、音楽をかけながら一本吸うのが、誰も知らない彼女の儀式だ。
慣れた手つきで再生させると、アメリカのバンド・Fun.の『We Are Young』が流れる。部屋のマッチを使い火をつけると、くゆる煙がゆっくりと空気に溶けていく。喉を焼くような鈍い痛みと、胸を締めつける切ない旋律を味わいながら、音量を最大まで上げていく。昔、男に教わったこの悪癖に溺れると、決まって目には涙がにじんだ。 泣き声が耳の奥で反響し、自分がどんな顔をしているのかも、分からなくなる。
毒に毒を重ね、毒を忘れる。
破滅に身を寄せることで、家族への裏切りの意識はほんの少し浄化された。
バスルームのボディソープを泡立てて、つま先から順に全身を丹念に洗い、滝のようなシャワーを浴びる。川島につけられた痕跡を、一つ一つ丹念に洗い流していく。ベースメイクから丁寧にやり直し、いつもの自分を取り戻す。汚れた沼の底から浮かび上がったその瞬間だけ、晴美は心の底からほっと息をつくことができた。
午後二時を少し回った頃に自宅に戻った晴美は、まっすぐ台所へと向かった。軽く息を整えてから、エプロンの紐をきゅっと結び直す。じゃがいも、玉ねぎ、ブロッコリーなどの野菜をまな板の上に並べて手際よくカットすると、鍋でバターを焦がさぬように注意深く溶かしていく。
献立は、クリームシチューだ。市販のルーは使わない。鶏肉を加え、カットした野菜と一緒に小麦粉を少しずつ加えては木べらで根気よくかき混ぜると、台所いっぱいに食欲をそそる香りが広がった。時間をかけて、丁寧な家事をすることで母親としての自分を取り戻していく。
一時間ほどで料理を終えると、快斗の帰りが遅いことが気になり様子を見に行く。外に出ると、家の前に快斗と亮太が並んで立っていた。背後から近づくと、快斗が亮太のスマートフォンをいじっているのが見えた。
その瞬間、胸の奥にガシャリと暗いシャッターが下りる。
これが、私の理想の快斗? 違う。
「遅かったわね……」
その問いかけには、意識的に棘を含ませた。驚いた亮太は、そそくさと家の中へ逃げ込んでいった。
悪縁だ──この子と一緒にいれば、快斗に悪い影響が出る。
悪い芽は取り除かなければいけないと感じ、「受験が終わるまでは、亮太くんとは遊ばないほうがいいわね……」と、冷ややかにかました。
愛しているからこその厳しさだと、晴美はこの怒りは正当なものだと信じている。
家の中に入ると、晴美は笑顔を作り、全が無かったことのように大きく手を広げて、快斗を抱き寄せようとした。
厳しくするだけではいけない。「アメとムチ」それが、晴美の揺るぎない教育観だ。
しかし、快斗は一瞬たじろぐように身体を引き、無言で階段を上っていく。
──反抗期なのかもしれない。
こんなに愛しているのにその思いが、どうして届かないのか。
リビングに取り残された晴美は、一カ月前の快斗が言った言葉を思い出し、ため息をついた。
「塾を辞めたい……」
台所で夕食を作っていた晴美に、神妙な顔でそう話しかけてきた。
思いを絞り出すような、弱々しい声だった。塾を辞めるということは、中学受験を辞めるということだ。晴美は手を止めて、息子の目を見た。
「受験はあなたの未来のために必要なことなのよ」
声を震わせながら、説得を試みた。しかし、快斗はうつむいたまま固く首を振った。
意志が固いと判断するや、晴美は立ち上がり声音を変えた。
「あんた、逃げるの……?」
低く、凄むように言った。
「努力から目を背ける子に、未来なんてないよ。分かる?」
快斗の肩を前後に揺すぶりながら、声を強めて説いた。
「ねえ。あなたがやりたいって言い出したのよ? ここまで、私がどれだけ協力してきたと思ってるの? お金だって、たくさんかかってるのよ。パパもきっと怒ると思う」
「でも……」
快斗の唇がかすかに震えた。
「でも、じゃないわ!」
手にしていた鍋のふたを勢いよく置く音が、台所に乾いた反響を残す。
「とにかく、やめるなんて許さない。クリスマスプレゼントに何でも好きなものを頼んでいいから、塾だけは続けなさい」
最後は、懐柔だ。
やがて快斗は、「分かった」と小さく同意した。
晴美にしてみれば、快斗の気持ちを上手くコントロールできなかったのは自分の責任となる。
「パパには内緒だからね」
そう言い聞かせ、自分の失態を隠蔽するように息子に求めた。
この日を境に、快斗の瞳からは光が消えたように見えた。それでも晴美は、自らの信じる“正しい道”を突き進む覚悟を崩さなかった。
晴美は身に染みて知っている、学歴のない者の肩身の狭さを。だからこそ、子どもの一次の気の迷いなどを受け入れていては、息子のためにはならないと信じている。
子どもの気持ちなど、日々揺れ動くものだ。
そのうちまたやる気を取り戻し、きっとこの子は受験に向かう──そう信じて、冬休みから塾の授業をさらに週に一日増やすことに決めたのだった。
「快くーん、出かけるよー」
階下から呼ぶと、快斗は塾のバッグを持って降りてきた。
晴美は、さっきの叱責を帳消しにするかのように、にっこりと微笑み、両腕を広げる。
「今日は、快くんが好きなクリームシチューだよ」
目いっぱいの許しを込めた笑顔で。
快斗は、少し照れたような笑みを浮かべて言った。
「ママ、塾がんばるよ」
その言葉に、晴美の胸の奥に熱がじわりと広がった。
私は、正しい。
天塩にかけて育てた子どもが、思い通りの言葉を口にしてくれる。その瞬間に、すべてが報われたような気がした。目の前の快斗は、私の努力の証だ。晴美は、その事実に酔うような静かな恍惚に包まれている。
〜つづく
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