小説【まだ嗅いだことのない花の香り】11
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四時半頃、晴美は快斗を連れて『光栄アカデミー』のビルへと足を踏み入れた。受付で快斗を川島に引き合わせ教室へと送り出すと、そのタイミングで山本と浅井が子どもを連れて現れた。
「今日からクラス替えだから、先生に挨拶?」
話しかけてきたのは浅井拓馬の母親だ。
「どうしたの、今日のマラソン大会。探したのに全然見当たらなかったな」
そう言われてぞっとした。これだから、綻びは残せない。
晴美は自然な顔を作り、余計な詮索を受けないように受け流した。
「ちょっとね、急に用ができちゃって。行けなかったの」
「へえ。まあ、快斗くんは運動にあまり力を入れてないからね」
にこやかな笑みとともに放たれた言葉に、晴美は薄いとげを感じて口を噤んだ。
「いいな、T1。ミクも差をつけられちゃったなぁ。最近ちょっと集中力が切れてたからさ」
山本が悔しさをにじませながらも、ジョークめかして言った。
そういう言い回しの技術を、みんな、いつの間にか身につけている。そんな親たちのやりとりを聞きながら、拓馬が鞄をぎゅっと握りしめ、うつむいていたのに、晴美はふと気づいた。
「……べつに、T2でもいいじゃん。俺は俺だし」
拓馬がぽつりと呟いた声が、空気の底に沈むように響いた。その顔には、明らかに悔しさがにじんでいた。かつては無邪気に笑い合っていた子どもたちが、いまや競争の土俵に立っている。それを見守る親の言葉の端々には、微かな敵意が込められる。ただ、そんなことをいちいち気にしていては、子どもの将来に責任を持てない。強い気持ちで切り抜けるしかない。
「快斗はコツコツやるのが取り柄で。やっと上がれたんですよ」
そう言って、晴美はできるだけ柔らかな表情を浮かべた。
雑談をしていると、不意に後ろから声がかかった。
「あら、皆さん」
振り向くと、そこには藤堂楓雅と母親が立っていた。
「驚いたわ。快斗くん、今日から楓雅と同じクラスなんですってね」
その柔らかな口調に、場の空気が一変する。
少し離れたところから見ていた楓雅が、母の元へ駆け寄った。背筋を伸ばして一礼すると、「母さん、恥ずかしいから、あんまり喋りすぎないでよ」と、大人びた口調で言った。
「えっ、楓雅くんって中学受験するの?」
山本が裏返らせて聞いた。
「少し出遅れましたけど、風雅がね、御三家に入りたいって言い出して」
晴美は雷に打たれたような衝撃を覚えた。
『御三家』は、難関で知られる私立の三校のことで、風雅が通う小学校も名門だが、国立の難関大学を目指す場合は中学で受験をし直す子もいる。
「よろしく。また、風雅くんと一緒になれて嬉しい」
晴美は、自分に作れる最高の笑顔を浮かべる。
丁寧に会釈をして去っていく藤堂の背中を、三人はしばらく黙って見送っていた。見えなくなったのを確認すると、山本が小さく息を吐いた。
「出遅れたって……、いきなりT1だよ。多分、特待生だね」
浅井もぽつりと漏らした。
「私立のままで行くと思ってたのに。やっぱり、どこか違うよね」
圧倒的な差を前にした、敗北感が漂っていた。
子どもたちがそれぞれの教室に向かうと、
「ねえ、お迎えまで、スタバにでも行こうって話してたんだけど、晴美ちゃんも行く?」と、山本が誘ってきた。
「ごめん。これから快斗のプレゼント、買いに行こうと思ってて……」
そう告げると、二人はほんのわずかに、安心したような表情を浮かべて去っていった。胸の奥に晴れきれないもやもやを残したまま、晴美は光栄アカデミーをあとにした。
駅前のショッピングモールの吹き抜け広場には、巨大なツリーが飾られている。子どもの夢を形にしたような幻想的なイルミネーションが輝き、快斗と同じくらいの年の男の子を連れた親子が、嬉しそうにそれを見上げている。
「出さなきゃ……」
晴美は、快斗にクリスマスツリーを出すようせがまれていたことを思い出した。珍しく快斗が執着するので、晴美はずっと気になっている。ツリーは洋介の書斎の屋根裏収納にしまってある。不安定な梯子を登らなければならず、晴美では取り出せない。些細なことだが、快斗の気持ちを保つためには大事なことだ。仕事の忙しさにかまけ、家族を顧みない夫のことが恨めしい。
晴美はバッグの底に丸めて入れていた青いニットのワンピースをクリーニングに預け、モール内の携帯ショップに入った。
「こんにちは。どういったご用件でしょうか?」
受付のスタッフが晴美を出迎える。
「予約した鮫島です。子どものスマホの契約で」
「お待ちしておりました。どうぞ」
案内されたのは半個室の接客スペース。すぐに女性の接客スタッフが現れた。晴美よりも少し年上だろうか、親しみやすい笑顔が印象的な店員だ。
「お子さまのスマホですね。最近は、小学生から持つのが当たり前になってきてますもんね」
「ええ。五年生ですけど、塾にも通っているので、持たせようかなと」
「そうなんですか。中学受験されるんですか?」
「はい」
「うちも経験しました。ほんとうに大変ですよねぇ。お母さまもサポートでお忙しいでしょう」
晴美は軽くうなずいた。悪気のない共感だとは理解できたが、距離を詰められすぎたような気がして、胸の奥がざらつく。
「そうですね、お子さまに人気なのは──」
店員は様々な機種とプランをすらすらと淀みなく説明してきたが、晴美は遮るように言った。
「同じでいいです。私が持っているのと」
快斗の希望は『iPhone』だ。元々、息子にスマートフォンを与えることを良かれと思っていない晴美にとっては、最低限の希望を満たせれば、細かいことなどどうでも良かった。
「とにかく、ゲームや動画にのめり込ませたくはないので、親がしっかり管理できて、機能制限ができれば、細かいことはなんでもいいです」
「承りました。そのあたりは問題ありませんよ。どれもSNSの利用制限も細かく設定できますし、動画も──」
そんなセールストークを遮るように晴美は言った。
「この後、予定があるので、手短にお願いできますか。iPhoneでありさえすれば、何でもいいんです」
言い方を柔らかくするように努力したが、晴美のイライラは彼女に十分伝わった。
「失礼しました。お迎えに間に合うように急ぎますね」
その後、契約に関わる書類を記入していると、「ご主人、東洋テレビにお勤めなんですか?」と、店員は好奇心を含んだ声色で聞いてきた。
「……はい?」
一瞬、晴美は表情がこわばる。契約書類の夫の職業欄を見ての反応だった。
「東洋テレビ、面白いの多いじゃないですかぁ。うちの子、テレビ大好きなんで。でも番組作りって、裏側では大変なんでしょうねぇ?」
「まあ……、そうみたいですね」
「空港で告白するやつ、昨日やってて、私、あれ大好きなんですよぉ」
「あの、急いでますんで」
晴美は会話を強く遮った。そんな矢先だった、夫の洋介からのメッセージが届いたのは──
突然の信じがたい文面に、賑やかなモール内が全ての音を失うような戦慄が走った。
『どうしたの?』と返信を打ち、しばらく画面を見つめていたが、『既読』がつかない。夫の番号に電話をかけるが、通話中なのか、繋がらない。
「あの、クリスマス用のラッピングサービスをやっているんですが……」
「え……?」
店員の声に、晴美は我に返った。
「五色からお選びいただけますが、何色が?」
「そんなのどうでもいいです!」
思わず声が荒れた。店員が小さく会釈して立ち去ると、晴美はもう一度、スマホの画面を見つめる。背中を不安が這い上がってくるようだった。
『明日、俺の番組のスキャンダルが週刊誌に出る。しばらく帰れそうにない。本当にすまない』
そのメッセージに、背に虫が這うような、恐怖を伴う嫌悪感が込み上げてきた。
~4章へつづく
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