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小説【まだ嗅いだことのない花の香り】12

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 西陽が差し込むシティホテルの窓からは、行き交う山手線が見下ろせる。洋介は変わらぬその律動を、ぼんやりと眺め続けていた。
 大場の部屋で問い詰められてから、丸一日が過ぎていた。
「しばらく出社停止だ」
 局長の等々力にそう言われ、会社が手配したホテルに缶詰にされている。現役のプロデューサーである洋介に、記者が殺到するのは必至で、自宅もすぐに嗅ぎつけられるだろうとの配慮からだ。
 駆け抜けていった制作現場での日々が嘘のように、ただただ無為な時間が流れていることに、焦りばかりが募る。
 昨晩、雑誌に先駆けてネットニュースで速報が流れた。それから洋介のスマートフォンは、たちまち着信の嵐に見舞われた。広告代理店の営業担当や週刊誌の記者、さらには見知らぬ番号からの電話までもが、途切れることなく鳴り続けた。はじめは謝罪を交えて応じていたが、やがてその着信音は耐えがたいノイズとなり、洋介は電源を落とし、出るのをやめた。
 あの後、洋介は自分のメールの送信履歴を探った。
 受信トレイは確認するが、送信トレイはいちいち確認する習慣はない。それで気がつかなかったが、問題の『脅迫メール』は確かに存在した。宛先は『鳳プロダクション鳥山』となっており、文面も送信日時も週刊誌に載せられたものと完全に一致しており、側から見れば疑いようのない証拠だった。
 そのメールを送った覚えは洋介にはなかったが、弁解をする暇もなく、週刊新報の記事にネットメディアが追随し、死肉の匂いを嗅ぎつけたカラスの群れのように、『東洋テレビ』や『いつか世界の空港で』の過去の問題点を次々と掘り起こし始めた。
 中には鮫島洋介という名前を晒すものもあった。
『卑劣なプロデューサーは鮫島洋介』
 そんな根も葉もない中傷に、沈黙するしかなかった。
 気づけば、大きなガラス窓に雨粒が打ちつけ始めた。雷鳴が轟き、あたりは一瞬にして闇に沈む。
 そんな時、部屋の扉がノックされた。雨音と勘違いをしてしまうほどに、控えめなノックだった。
 恐る恐る洋介がドアスコープを覗くと、立っていたのは三木だった。
 ドアを開けると、「夕飯、買ってきましたよ」と言って、ビニール袋に入った牛丼を差し出した。
「忙しいのに悪いな……」
「番組が休止になって、時間はありますから」
 三木はそう言って、笑った。
 記事が出ることが分かるとすぐに、番組の休止が決まった。事実確認中で、局としては不正を認めたわけではないが、世間の風当たりを気にして、臭いものに蓋をしたのだ。
 放送が無いということは、三木たちプロダクションの人間にしてみれば、死活問題だろう。番組を作らなければ、制作費が支払われることはない。それでも自分を気遣って差し入れを届けてくれる彼の姿に、申し訳なさとありがたさで胸の奥が少し熱くなった。
「鳥山さんは連絡がつかないか?」
「ええ……、何度か連絡してますが」
 鳥山に三木に連絡をとり続けてもらっているが、糸口はつかめない。
「悪いな……お前のとこに迷惑をかける形になってしまった。でも、記事にあったメールは本当に俺じゃないんだ」
「あなたの性格は、よくわかってますから。まあ、食いましょうよ」
 三木はビニール袋から牛丼を取り出すと、洋介に手渡した。
「最近、鳥山さんに変わったことはなかったか教えてくれないか?」
「そうですね……変わったことといえば、冨樫さんが最近よく会社に来てましたね」
「冨樫さんが?」
 若い頃から共に薫陶を受けてきた三木にとっても、冨樫は旧知の人物だ。
「ええ。実は、冨樫さん、辞表を出されたそうです」
 その報告に、洋介の箸が止まる。
「どう思ってるんですかね? 冨樫さん」
 その問いには、簡単には答えられなかった。
 どこかで冨樫の関わりを、洋介自身が疑っていたからだ。
 冨樫と鳥山は旧知の間柄で、もちろん会いにいくことは自然だ。しかし、冨樫には東洋テレビに未来を奪われ続けてきた過去がある。だからこそ、辞める前に局の不正を告発に関与したと考えることもできる。だが、その罪を洋介に押し付けるような真似を、あの冨樫がするだろうか──
 重苦しい空気を掻き消すように、三木が話題を変えた。
「息子さん、元気ですか?」
「ああ。今は、連絡がとれてないが」
「連絡してないんですか?」
「どの面を下げて、家族に向き合ったらいいか、わからないんだ。お前んとこは元気にしているか?」
 三木には、快斗の一年下の息子がいる。お互いに子どもが小さかった頃は、家族ぐるみで遊んだこともある。三木は公私に渡り付き合い続けてきた、数少ない友人だった。
「おかげさまで。それにしても、大変ですね。明日、クリスマスイブだというのに、こんなことに……」
「そうだな」
 洋介は少し感傷的になった。家族で落ち着いて過ごすどころか、最悪のクリスマスになろうとしている。
「息子は、受験はするのか?」
 何気ない洋介の問いだった。
 巷では、受験勉強を始めるのは小学四年からというのが常識で、三木の息子はちょうどその年齢にあたる。
「うちは考えてませんね。快斗くんみたいに優秀じゃないしですし。ほら、局とうちとじゃ稼ぎも違いますから……」
 互いに気まずい空気が流れ、話はそれで終わった。
 晴美と快斗は、今どうしているだろうか。
 ネットで検索すれば、すぐに『鮫島洋介』の名前入りの誹謗中傷が出てくる。記者たちが家庭に押しかけている可能性だってある。自分のせいで、家族が肩身の狭い思いをしていないか、そんな不安が胃のあたりに鈍く沈む。
 もしかしたら、このまま職を失うかもしれない。そうなれば、家族の生活が立ちゆかなくなる。
 これまで積み上げてきたものが音を立てて崩れていく気がして、考えれば考えるほど不安になる。
 食事を終え、部屋を出て行こうとする三木を洋介が呼び止めた。
「あのさ、悪いけど、冨樫さんに連絡が取れないかな」
「わかりました。連絡しておきますよ」
「すまない」
「まあ、元気出してください。またきます」
 彼の足音が廊下の奥に消えていくと、洋介はベッドに身を沈め、ひとつ深く息を吐いた。
 ベッドに倒れ込み、天井の白い塗装をぼんやりと見つめる。硬いマットレスが背中を押し返すと、じんわりと疲労がにじみ出るようだった。
 もし誰かが、嫌疑を被せるために仕組んだのだとしたら──それは一体誰か。洋介が立場を回復するには、そのメールを送った人間を突き止めるしかない。疑いたくない相手も、疑ってかからなければならない。
 焦りも後悔も、怒りすらも、胸の奥に重く沈殿していく。誰ともつながれない場所で、外の世界だけが、ざわざわと騒ぎ続けている。

~つづく

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