小説【まだ嗅いだことのない花の香り】13
4-2
久しぶりにぐっすりと眠れたのは、皮肉にも人目にさらされる電車の中だった。心地よいローカル線の揺れが、緊張の糸をほどいてくれた。
洋介が目を覚ますと、車窓には遮るもののない海の景色が広がっていた。
「眠れましたか?」
隣に座る三木が、茶化すように声をかけてきた。
「徹夜の編集明けかって思うくらい、よく寝てましたよ」
洋介は苦笑しながらうなずいた。
横に長いシートに腰掛けたジャージ姿の女子高生たちが、おしゃべりをしている。世間に晒されているという負い目が、牧歌的な話し声声ですら、自分を嘲笑っているように聞こえてしまう。
女生徒が一人、ちらりと洋介の顔を確認した。何かを言いかけて、思いとどまるような表情を浮かべる。洋介は、反射的に視線を落とす。
その女生徒が席を立ち、近づいてきた。
「……あの、落ちてますよ」
洋介の足元に落ちていた週刊誌を拾い上げ、恐る恐る差し出してきた。「ありがとうございます」と洋介はぎこちなく受け取った。彼女は小さく会釈し、仲間のもとへ戻っていった。
「気にしすぎですよ」
様子を見ていた三木が、呆れたように言う。
洋介は手元の週刊誌『スキャンダル』を開いた。トップ記事には、東洋テレビの不正が大きく取り上げられていた。
東洋テレビ『2億円キックバック』
下請けいじめは脅迫メールだけじゃない!──大場常務の“黒い金脈”の全容
“下請けいじめ”ともとれる陰湿な制作費のダンピングが報じられた東洋テレビに、さらなるスキャンダルが明らかになった。本誌の取材によれば、東洋テレビ現職の大場常務は、過去に自らが立ち上げた番組『いつか世界の空港で』において、外部プロダクションとの不正な取引を主導していた。下請けの制作会社に不正に過剰請求をさせて、自身に還流させるという手口で、15年に及ぶその悪行で、受け取った総額は2億円にものぼる──
今朝早く、「冨樫と連絡がついた」と三木から連絡があった。
三木は、自分も同行すると言い、こうして二人で電車に揺られている。
彼がホテルを訪ねてきたとき、手にしていたのは一冊の週刊誌だった。
そこに書かれていたのは、大場の実名を冠した記事で、『いつか世界の空港で』の制作費を不正に着服していたという疑惑だった。
洋介はすぐに直属の上司である葛木に連絡をしたが、
「お前のレベルでどうこうなる状況じゃない。とにかく、お前はホテルで謹慎していろ」と冷たくあしらわれた。
車内には、都会の喧騒とは無縁の穏やかな時間が流れている。窓を少し開けると、潮の匂いが鼻をかすめる。
「これで……大場さんの時代も終わりですかね」
三木は溜息まじりに呟いた。
信じたくはなかったが、『いつか世界の空港で』が組織的不正の舞台となっていた可能性は高い。記事が事実なら、二億円もの金が大場に渡っていたことになる。あの日、大場が怒り狂っていたのは、この問題を掘り返されたくなかったからだろう。いいようのない怒りが、腹の底からじわじわと込み上げてくる。もし、大場と鳥山の間に不正な金のやりとりがあったのだとすれば、かつて冨樫が大場との間に確執を抱えることになった件も、すべて筋が通る。
番組の存続は、もう絶望的かもしれない──
自分で企画を立ち上げた番組が、目の前で消えようとしている。
その事実が、ただただ無念だった。
勝浦駅に着いたのは午前十時過ぎだった。
クリスマスとは縁遠い漁師町は、静まり返っていた。三木がスマートフォンの地図をながら、冨樫に指定された場所へと向う。海辺の道を歩いていると、防波堤の先端で釣り竿を構える一人の男の姿が見えた。
「冨樫さん?」
三木が声をかけると、ゆっくり振り返り、片手を上げたのは冨樫だった。
冨樫だった。
「ようこそ」
冨樫は、少し照れたように笑った。麦わら帽子にスウェット姿。二日前に会ったが、久しぶりの再会に思えるほどに、その表情にはテレビマン時代には感じなかった穏やかさが漂っていた。
三人はテトラポットに腰を下ろした。
「こんなところまで、悪いな。昨日から実家に戻ってるんだ」
「辞表、出されたそうですね」
洋介が、率直に切り出した。
「まあ、いずれは辞めるつもりだったしな」
冨樫の辞表はあっさり受理され、有給休暇の消化に入っていた。
冷たい潮風が吹き抜け、海鳥の声が遠くに聞こえる。
冨樫が、遠くの海を眺めながら言った。
「あの件、どうだ? 実はな、大学の同期が大手の配信会社にいてな。まずはそこで、ドキュメンタリー系の企画がほぼ決まりかけてるんだ」
「すみません、気遣っていただいて。確かにこの状況じゃあ、会社に残れるかもわかりませんし、ありがたい話です。でも、家族と話ができてなくて……」
「まあな、そりゃそうだ。でも、こういう話は早い方がいい。動くタイミングを逃すと、お前まで会社と共倒れになるぞ」
冨樫の言うことは正しい。会社にしがみつけばしがみつくほど、この業界での洋介の立場も不味くなるのは明らかだからだ。
しばらく沈黙が流れたあと、洋介が口を開いた。
「情報を流したの……、冨樫さんですか?」
空気が一瞬張り詰めた。
冨樫はしばらく考え込んで、目を細めた。
「そう思うのか、鮫?」
冨樫の視線が、まっすぐ洋介に向けられる。洋介は目を逸らさず、目の奥を覗き込むように見返した。
「大場さんが金を受け取っていたのは、ずっと前から気づいてたよ。でも、俺じゃない」
冨樫がきっぱりそういうと、洋介は踏ん切りがついたように言った。
「すみません、失礼なこと聞いて」
「なんだ、あっさりしてんな。そんなの電話でよかったじゃないか。いつでも答えたぞ」
冨樫は笑いながら言った。
「冨樫さんが教えてくれたじゃないですか。『言葉なんか信じるな。表情を見ろ』って」
かつて、駆け出しのディレクターだった頃、“食レポ”をするタレントのコメントを編集していた洋介に、冨樫がダメ出しをした。
その時の言葉──
「いくら演者が『うまい』と言っていても、顔が死んでたら視聴者には伝わらねえぞ。言葉に惑わされて、適当に繋ぐな。ちゃんと表情を見ろ、それがテレビの基本だ」
冨樫の顔に、嘘を語る者の影はなかった。白い歯を見せて笑うその表情に、荒波のような制作現場で豪快に笑い飛ばしていた頃の姿が重なって見えた。
「はは、それで言うと、なかなかいい切り込み方だったな。あのタイミングで質問をぶつけられるとは、お前もいいテレビマンになったな」
「そうですか。いい表情を撮るには、切り出すタイミングが命ですもんね」
そんな二人のやり取りを、三木は黙って見つめている。
「俺だってな、あの番組には感謝してるんだ。それを潰そうなんて、考えるはずがない」
それが冨樫の本心だろうと、洋介は確信した。
「じゃあ、誰なんですかねえ?」
三木は大きな伸びをしながら、あっけらかんとそう言った。
「まあ、上がっていけよ」
冨樫に案内されて、実家へ向かうことになった。
港のすぐそばにある家屋に、『民宿 冨樫』と書かれた年季の入った看板がかかっていた。木造の平屋、外壁は潮風で白く色褪せている。
「もう、宿はやってないけどな」
冨樫が引き戸を開けると、畳と潮の混ざった懐かしい匂いが流れ込んでくる。冨樫の両親は健在で、今は細々と漁に出て生計を立てているそうだ。
冨樫は湯を沸かし、急須に茶葉を入れる。二十畳ほどの日本間に、三つの湯呑みから淡く湯気が立ちのぼった。
洋介はリュックから一枚の紙を取り出した。
大場の部屋に呼び出された日に、等々力が出してきた洋介が送ったとされるメール文のプリントアウトだ。
「このメールが僕から鳥山さんに送ったことになっているメールです」
> 削減に応じていただけない場合、
> 今後の発注停止も視野に入れざるを得ません。
「きついな、このメール。お前、こんなやつだったっけ?」
冨樫はメール文を読みながら、いたずらっぽくいった。
「だから俺じゃありませんって。確かに、制作費を見直すように上に言われて、コーディネーター費を削れないかと話したことはありますが、脅迫するつもりなんて……」
「まあ、そういう話があることは、俺も鳥山さんに聞いていたよ」
「そうなんですか?」
「ああ。俺も辞めて会社をやることを、鳥山さんにはいろいろ相談していたんだ。でもな、鮫島。俺にはどうしてもこの情報を流したのは鳥山さんだとは思えないんだよ」
「どうしてですか?」
「あの人、ちゃんとお前の立場も理解していたぞ。上手く言えないけど、週刊誌にお前を吊し上げて、垂れ込むような真似をするとは思えないんだよな」
洋介は、冨樫の言葉に少し救われたような気がした。
「気がかりなのは、このメールをどうやって送ったか、ということなんです。俺の名義でメールを送るなら、会社のパソコンを開くか、スマホから送るかしかないんです」
「IDやパスワードが誰かに流れたってことはないのか?」
「可能性は否定できませんが、それは難しいかと。会社のパソコンのIDもパスワードも俺のスマホの中にしかメモってないですし、そのスマホも肌身離さず持っていますから」
洋介のふりをしてメールを送るには、社内のパソコンか、洋介の私物の端末からメールを送るしかない。それは誰にでも簡単にできることではない。送信されたのは15時13分。夜ならまだしも、そんな時間にスマートフォンをだれかに操作されることは、考えずらい。
「編集中に寝ている間に、誰かが鮫島さんのスマホを奪ったとか?」
三木が、場をなごますような合いの手を入れる。
「まあ、制作局のフロアは監視カメラもついてるしな。そんなリスクを犯して鮫のパソコン開くかね」
冨樫が言うのも、もっともだった。
そもそも、番組の不正を正すのが目的ならば、わざわざ洋介の名前を使ってメールを送るような、そんな危ない橋を渡る必要があるだろうか。どう考えても、鮫島洋介という個人を陥れようとする意図が、そこには感じられた。
三人はしばし黙り込んだ。
冷めかけた湯呑みに手をかけたそのとき、三木のスマートフォンが控えめな音を立てて震えた。彼は表示を見て顔を曇らせ、黙って席を立つと部屋を出た。
数分後、戻ってきた彼の顔色は青ざめていた。
「鳥山さんが、亡くなったそうです」
誰も、言葉を返せなかった。
縁側の外で、寄せては返す波の音だけが。変わらぬ調子で響いていた。
~5章につづく
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