小説【まだ嗅いだことのない花の香り】14
5-1
晴美は、洗面台の鏡の前で自分の顔を覗き込んでいる。まばたきもせずに見つめ返してくる女の目には表情はなく、唇の端がわずかに引きつっている。
指先で前髪をそっと下ろす。
「ママ、いくよ」
快斗の声が元気よく響いた。
晴美はわざとらしい明るさで「行ってらっしゃい」と絞り出した。
今日はクリスマスイブ。登校前の子どもたちは、どこか浮き足立っているように見えた。
「下を向いたら負け」と自分に言い聞かせながら、ダウンコートのポケットから手を抜いて、精いっぱい姿勢を正す。
いつも軽口を交わす近所のママ友は、明らかに視線を逸らしている。
夫のスキャンダルが、すでに知れ渡っているのだろう。ネットを開けば、『鮫島洋介』の名を晒した記事が誰にでも見られる。
大人たちの微妙な空気を気にする様子もなく、子どもたちは出て行った。
子どもたちが見えなくなったそのときだった。通りの向こうから、黒いコートを着た中年の男が二人、鮫島家に向かって歩いてきた。一人の肩には、大きな一眼レフがぶら下がっている。いかにも記者というその姿に、晴美の背筋が凍った。
記者たちは晴美の正面に立つと、「週刊新報です。鮫島洋介さんのお宅はご在宅でしょうか?」と切り出した。言葉の丁寧さに反して、態度は横柄で、「主人は、いません」と答えて家に入ろうとする晴美の前に、一人が回り込み、進路を塞ぐように立ちはだかった。もう一人は、容赦なくシャッターを切り始める。
その様子を、通りの向こうから山本と神部がじっと見ていた。目を伏せるふりをしながらも、抑えきれない好奇心が、二人の表情にはっきりとにじんでいるように感じた。
「ご主人、今どちらにいらっしゃるんですか?」
「お話しすることはありません」
「下請けいじめ、許されることではありませんよね! 奥さんはどう感じてますか?」
大声をあげる記者を強引に押し退け、逃げるように玄関へ駆け込んだ。インターホンが何度か鳴ったが、やがて諦めて去っていった。
晴美は背中を戸に預け、ずるずるとしゃがみ込んだ。覚悟はしていたが、心の奥では恐怖と不安が渦巻いていた。
二日前、夫からLINEでメッセージが届いたきり音信は途絶えた。何度か電話をしてみたものの、折り返しはない。
いつもならクリスマスツリーを飾っているリビングの一角には、ぽっかりと空白が残されている。
──昨晩のこと。
快斗が寝静まったのを見届け、晴美はそっと洋介の書斎へ足を踏み入れた。鮫島家の二階には、夫婦の寝室と快斗の部屋、そして洋介の書斎の三室がある。
部屋に入ると、机の上のパソコンは電源が入ったままになっていた。
「つけっぱなしにして……」と、ため息が漏れる。
無音の部屋、蠢めくiMacにスクリーンセイバーがぬるりと流れる。
映し出されたのは、大昔の家族旅行、テレビ局の打ち上げ風景、幼い快斗の笑顔──どれも楽しげな写真ばかりだ。紙芝居のように、都合のよい幸せの場面がつぎつぎと切り替わっていくが、その裏にあった写らない日々を思い返し、晴美の胸中は複雑だった。
夫は家にほとんど家に寄りつかず、快斗の子育てはずっと一人でこなしてきた。
「夫はその口当たりのいい部分だけを教授して、私にドロドロとしたおりの部分を任せた」
そんな恨みにも似た憤りを感じて生きて来た。
そして今、夫の不祥事の矢面に立たされ、再び孤独と戦っている。
晴美は意を決して、壁に立てかけられた1メートル程の細長い金属棒を手に取った。先端はL字に曲がっており、そこを引っ掛けて天井のフタを引き出す仕組みになっている。カチッと金具が外れる音がして、収納されていた折り畳み式の梯子が勢いよく降りてくる。それは、真っ暗な屋根裏の納戸につながっていた。
晴美は意を決して、梯子に片足をかける。不安定にギシギシと音を立てて揺れる。
「きゃっ」
背筋を冷たい汗が伝った。二歩目を踏み出そうとするが、足が凍りついたように動かない。高所が苦手な晴美には、それ以上進むことができなかった。結局、ツリーを出せないままのクリスマスイブを迎えた。
締め切ったカーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいる。晴美はリビングの中心にへたり込み、ツリーのない空白を見つめていた。自分の呼吸音だけが、しんとした室内に響いている。
今日は小学校でPTAの寄り合いがある。毎月、第四木曜日に開催されており、晴美は理事の一人だ。自分が出なければ、進行が滞る。何より、今ここで逃げれば、自分の弱さを認めてしまうような気がした。
午後二時──
自転車のスタンドを蹴り上げると、乾いた金属音が小さく響いた。頬を打つ風がひりつくほど冷たい。それでも晴美は午後の冷気が満ちる中、小学校へ向かってペダルを漕ぎ出すしかなかった。
正門横の駐輪場に自転車を停め、スカートの裾をそっと整える。背筋を伸ばし、何事もなかったかのように歩き出した。
会議室に入ったのは、開始の五分前だ。すでに何人かの保護者が席についていたが、晴美の姿が見えるや否や、それまでの雑談がぴたりと止んだ。空気が一瞬で変わったのを、肌で感じとる。
晴美は黙って資料の配布を始めた。手元に集中するようにして、一枚一枚を机に置いていく。そのとき、不意に隣の母親の手にふれた。
「あっ」
よそよそしい声が漏れる。反射的に引かれた手の動きに、晴美は覚悟していたはずなのに、痛みが胸に刺さるのを感じた。
悪気はない、と思うようにする。
「それでは、PTA総会を始めます」
晴美が軽く会釈をして挨拶をすると、数人の保護者たちが一斉に視線を向けた。山本と浅野が並んで座っている。その笑みには愛想の仮面が張り付いていたが、瞳の奥には探るような色が潜んでいた。
会は定刻どおりに始まり、学年主任からの伝達事項が読み上げられる。明日の終業式のスケジュール、三学期の学童保育、下校時の付き添いと、話題は淡々と進む。
「では、最後に何かご質問やご意見はありますか?」
進行役の晴美が問いかけたときだった。
「あの……」
浅井が、何気ない口調で声を上げた。会の空気が、わずかに静まる。
「最近、校門の前で人影を見かけるんです。カメラを構えてたり、ずっとスマホを向けてたり。子どもが不安がっています」
「うちの子も『知らないおじさんがいた』って。そういうの過敏になる時期じゃないですか」
口火を切った山本の発言に乗るように、他の母親も発言をする。誰も名指しこそしないが、その事実の羅列は、静かに晴美を追い詰めていく。
「もちろん、誰かを責めたいわけじゃないんですよ。ただ、こういうときこそ、大人がしっかりしないとね。子どもは敏感ですから」
浅井が発言をし、視線がふと晴美の方へ向いた。だが、その目にはとくに色はなく、保護者として当然の意見を述べたという風だった。
正論だ。どこにも、文句のつけようはない。だからこそ、逃げ場がない。言葉よりも、沈黙の圧が晴美の全身を締めつける。視線のひとつひとつが晴美の「何か」を掘り起こそうと見張っているようで、空気が次第に濁っていくのを感じた。
「学校の方でも、不審者対策を強化するように努めます。そうですね、我々保護者は子どものお手本になる行動をとっていきましょう」
学年主任の教師が場を収めるようにそう述べて、ようやく会は終わった。
全員が一斉に立ち上がり、それぞれの帰路につく。廊下に出た瞬間、背を向けられる足音が次々に遠ざかっていく。振り返って目が合ったかと思うと、すぐに笑い声に紛れて視線が外れる。
何気なく発言された、「お手本になる行動」という言葉。
それは、晴美がしばらく忘れていた、暗く湿った日々の記憶を胸の底からゆっくり目覚めさせた。
~つづき
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