小説【まだ嗅いだことのない花の香り】22
7-3
午後二時半ごろ、快斗は自宅に戻った。
ランドセルの奥から鍵を取り出す手に、一切の迷いはない。
毎月第四木曜日はPTAの会合があり、晴美が帰ってくるのは午後五時ごろだ。しかも木曜日が塾もない。月に一度、この日だけが、快斗にとって一人になれるかけがえのない自由時間だった。
まずは二階へ駆け上がり、ランドセルを放るように置くと、晴美に課されている宿題に取りかかる。鉛筆の動きには、いつになく淀みがなかった。これから行うことは、少しでも怪しまれてはいけない。そんな思いが、普段よりも筆圧を自然と強くする。
宿題をさっさと片づけると、再び玄関に行き内側からチェーンロックをかけた。もしも晴美が突然戻ってきても、チェーンがあれば時間を稼げる。
そして、二階へ駆け上がり、洋介の書斎の前で足を止める。
ドアノブに手をかけ、そっと押す。
カチリ、と乾いた音がして扉が開く。机の上には、無骨なデスクトップパソコンが置かれている。
快斗がマウスをそっと動かすと、スリープ状態の画面がふわりと光を取り戻した。
椅子に腰を下ろし、キーボード右上に貼られた付箋を見つめる。そこには、IDとパスワードが書かれている。
それを入力すると、ログインが完了した。
この部屋に初めて入ったのは、五年生になったばかりの今年の春のことだ。晴美はPTAの理事に就任し、月に一度、木曜日だけ快斗は一人で家にいるようになった。
それまで一人の時間などありえなかった快斗にとって、晴美のいない家はまるで探検のフィールドのように新鮮だった。偶然にも、開けっぱなしになっていた洋介の書斎の扉の先に、電源が入ったままのパソコンを見つけた。
「触れてはいけない」と、どこかで思いながらも吸い寄せられるように、キーボードに触れていた。
最初は、洋介が作る『いつか世界の空港で』をYouTubeで見てみたいという軽い衝動だった。晴美が見せたがらない、父の番組がどんなものなのかが知りたくて、こっそりパソコンに触れた。以来、月に一度だけ訪れるこの時間に、パソコンでインターネットを使うことが、快斗の秘密の習慣になったのだ。
ある時、SNSのブラウザが開きっぱなしになっていた。
映っていたのは、SNSのアカウント、『中受パパのボヤキ』。それが、父親のものだと気づくのに、時間はかからなかった。内容は、家では聞いたことのない洋介の本音で、自分の知らない父親の顔をそこに見たような気がして、思わず画面を食い入るように見つめた。
この日も快斗は、手慣れた手つきで『中受パパのボヤキ』を検索する。
『深夜の一人反省会。ヨメと受験の方針噛み合わず。 』
『ツリーを出せ、と妻にブチ切れられた。
忙しいのに理解されない。ごめんな、息子… 』
クスリ、と快斗は笑ってしまう。
しばらくして、メモを取り出すと、IDとパスワードを入力し、自分のメールアカウントにログインする。
受信トレイにはいくつかのメールが溜まっている。多くはどうでもいい広告のメールだったが、一通のメールの開く。
Date: 2025年9月22日(火) 15:13
RE: LINEのアドレスの交換のこと
>>快斗くんへ
>>LINEの交換は「QRコード」でやるかな?
>>ホームから、「友だち追加」→「QRコード」ってやれば、
>>自分のコードが出せるし、相手のも読み取れるよ。
>>スマホ、届くといいね。
>>クリスマスのパパ
快斗はメールに対して、簡単なお礼を送信し、これまでに来ていたすべてのメールと、送信したすべてのメールを削除する。親に黙ってメールのアドレスを作り、インターネットをしていることの罪悪感から、痕跡は全て消去するようにしていた。検索履歴とキャッシュもすべてクリアする。何度も繰り返したルーティンで、手順は、完璧に頭に入っている。
その時だ、快斗は偶然に見つけたネットの記事を見て動きを止めた。「えっ」と小さく声が漏れ、思わず椅子の背もたれにもたれかかった。
~8章につづく
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