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小説【まだ嗅いだことのない花の香り】23

8-1

 翌朝、晴美が目を覚ますと洋介はベッドの端に静かに腰を下ろしていた。カーテンの隙間から差し込む淡い朝の光を受けたその背中には、昨夜からずっと、妻の目覚めを待っていたかのような気配が漂っていた。
 晴美は気づかせるように、わざと音を立てながら布団を整える。その気配に気づいた洋介が、ゆっくりと振り向いて口を開いた。
「あのさ、快斗にメールアドレスを作ってあげたことはある?」
「何それ? 私は作ってないわよ」
「……そうか」
 洋介は短く応じると、それきり黙った。
 晴美は沈黙の間を埋めるように口を開いた。
「今日は、どこか出かけるの?」
「人に、会ってくる」
「帰りは、遅い?」
「いや、そこまでは。今、出社停止になっているから」
 洋介の声は乾いていた。目の奥に力はなく、返ってくる言葉にも実感が伴っていないようだった。
 その表情を見て、晴美はゆっくりと、慎重に言葉を探しながら口を開いた。
「あの『会社を辞めたい』って言ってた件、帰ったらちゃんと話し合わない?」
「いいのか……」
「まだ許したわけじゃないよ。でも、今回のことで今の会社もいずらいんだろうし、ちゃんと生活がしていけるならさ」
 そう言い残し、晴美は先に寝室を出た。
 脱衣所で着替え、洗面台の前に立つ。
 顔を洗い、前髪を撫でつけて額を出し、鏡に向かって無理矢理口角を上げて、笑顔を作る。
 昨夜、玄関のチャイムが鳴り、扉の向こうに立つ洋介を見たとき、日常が帰ってきた安堵を覚えた。
 ──私が自信を持って生きるには、鮫島洋介が必要だ。
 それには、自分自身も変わらなくてはならないのかもしれないという意識が晴美の中で芽生えていた。
 台所に立ち、手早く大根と豆腐を刻んで味噌汁をつくる。目玉焼きとウインナーを焼いて朝食を整える。
 リズムよく長ネギを刻んでいると、快斗と洋介が一緒に階段を降りてきた。
「ママ、あったよ! 机の上にプレゼントあった!」
 スマートフォンの箱を抱えた快斗が叫ぶ。
「約束したとおりだ! やっぱり来た!」
 洋介と顔を見合わせ、晴美は小さく笑った。
「よかったな」
 快斗は満面の笑みで頷き、すぐにソファに座り、初期設定を始める。
「ねえ、LINE交換するから、パパとママの『QRコード』やっていい?」
「あとにしたら。明日から冬休みなんだから」
「いいの、すぐ終わるから!」
 晴美と洋介のスマホを上手に操作し、自分のスマホの設定をする快斗。そんな姿を微笑ましく思いながら、晴美は朝食をテーブルに並べていく。
「いただきます」
 三人の声が重なる。快斗はウインナーに箸を伸ばし、パリッと音を立ててかじる。
「ちゃんとツリーを出したから、サンタさん来てくれたんだね」
 快斗の子どもらしい何気ない一言に、晴美は笑みを浮かべた。
 洋介の手がぴたりと止まり、箸が指から滑り落ちた。
「覚えてたのか、それ……」
「ん、なにが?」
 快斗は首をかしげる。
「ツリーはサンタが家を間違えないための目印だって……」
「そうそう。ツリーがないと、子どもがいない家だと思って、通り過ぎちゃうんでしょ」
 かつての記憶が突風のように、洋介の脳裏を掠めていった。
「ちょっと、やることがあるから」
 洋介は慌てて席を立ち、黙って自分の部屋へと上がった。
 そのとき、テーブルの上で裏返っていた晴美のスマートフォンが震えた。
 画面をみると、『会いたい』の五文字。差出人は川島だ。
 晴美は快斗に気づかれないように、手早く『今日は無理』と返した。
 すぐに既読がついて、返事が来た。
『冬休みに入ると会えないよ』
 長期休みに入れば、午前中に外出する言い訳が難しくなる。しかし、晴美の中で洋介が家に戻らなかった数日に感じた深い孤独が、このまま川島との関係を続けていいのかという恐れへとつながっていた。
「じゃあ、行くね」
 そう言って、ランドセルを背負った快斗を追って、玄関まで見送る。
「明日から冬休みね。塾、忙しくなるけど頑張ってね」
 優しく言葉をかけると、快斗は小さく頷き、扉を開けて出て行った。
 再び、晴美のスマートフォンがしつこく震える。
 深く息を吐いて、画面をみると『どうかした?』と川島からの返信があった。
 晴美は、スマートフォンを握りしめたまま数分間、じっと動けなかった。心の奥に巣くう迷いと恐れが、指を止めていた。
 そして、『距離を置きたい』という短いメッセージを打ち込み、重たい覚悟を乗せて、送信ボタンを押した。
 これで、すべてが終わるかもしれない。でも、それでもいいと思った。
 やめられないこの悪癖には、どこかで線を引かないと、ずるずると続けてしまう。
 やがて、それは崩壊につながるだろう、そんな意識が晴美の中で芽生えていた。
 一つの季節が過ぎ去るような感情に浸っていると、すぐに返しが来た。
 それは、一枚の写真だった。
 ベッドに乱れた体を横たえている、裸の写真。
『もう戻れないと思うよ。こんな母親、ドン引きじゃない?』
 その文章の裏から、川島の軽薄な笑い声が聞こえるような錯覚に襲われた。
 これは、間違いなく脅しだ。
『わかった』そう返すしかなかった。
 晴美は洗面所に駆け込むと、震える手で簡単にメークを施し、洋介がいる書斎の前に立つ。
 軽くノックをし部屋の扉を開け、「ちょっと出かけてくるね」と声をかけた。
 中では、彼がキーボードに向かい集中している。
 自分の蒔いた種。
 しかし、身勝手だとわかっていても、この背を向けたままの夫に、助けてほしいとすら思ってしまっていた。
 外に出てドアノブを離したとき、
「また、ここに戻って来れるのか」と、晴美は不安で仕方がなかった。

~つづく

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