小説【まだ嗅いだことのない花の香り】24
8-2
*
洋介を乗せた京葉線は潮見駅を過ぎると静かに地下へと潜行する。混み合う車両は途中駅で通勤客を降ろしながら、都心へとなだれ込んでいく。東京駅で山手線に乗り換えるため人波に身を委ねた。早足に目的地へと向かう背広姿の人々を目の当たりにし、自分だけが異なる時間を生きているような錯覚にとらわれる。
電車を待つ間、洋介はポケットから一枚のプリント用紙を取り出した。
『クリスマス大作戦』──それは、まだ家族が笑い合えていた頃、鮫島家で催したクリスマスパーティーの式次第だった。『乾杯のあいさつ』『ビデオ上映』と続き、最後には『プレゼントの贈呈』と、まるでテレビの台本さながらに段取りが細かく書き込まれている。
電車が静かに滑り込んできた。シャッターする窓ガラスに映った顔は、どこか他人のようで、光を失った瞳だけが深い闇に沈んでいた。
新橋で降り、SL広場の端に衝立で仕切られた喫煙所へと入る。朝のラッシュが一段落したとはいえ、囲いの中は缶コーヒーを片手に一服する男たちでごった返していた。灰皿の縁には、嫌な記憶の集積のように、曲がった吸い殻が山をなしている。
その中で、タバコをくゆらせる三木がいた。
「悪いな、呼び出しちゃって」
洋介は黙って隣に立ち、人差し指と中指でタバコをねだった。
「ずいぶん前に禁煙したって言いませんでしたっけ?」
「まあ、いいじゃないか。これから仕事か?」
「ええ。ずっとふらふらしているわけにも行きませんから。知り合いの番組をフリーで手伝わせてもらうんです。うちの会社の前は記者がうろうろしているんで、近づけませんしね」
差し出された箱から一本拝借し、ライターの小さな炎にそっと先を触れさせる。肺に落ちた苦味が、まだ言葉にできない覚悟をゆっくりと炙り出す。洋介は濁った煙をゆっくり吐き出しながら、三木に持参した紙を見せる。
「覚えてるか? 六年前のクリスマスイブ、うちでパーティをやっただろ。君の家族と一緒に」
「懐かしいですね。鮫島さん細かいから、しっかり台本にまとめてましたね」
三木はその式次第を見ながら、苦笑いをしている。
「これを見てようやく思い出したんだ。あの日、お前が快斗に『クリスマスツリーがないと、サンタが来ない』って教えていたのを──」
黙って煙を吐き出した三木の口元が、かすかに震えていた。
「『クリスマスのパパ』ってのは、お前だな?」
三木は黙って、ため息のように煙を吐き出した。
──六年前のクリスマスイブ。
「わぁ、床暖房がついているんですね」
三木の妻の紀子はリビングに入るなり弾む声で言った。
「あったかいねぇ、ムサシ。こんな家に住んでみたいなぁ。ねえ玄ちゃん、うちもマイホーム買えないの?」
「お前さ、俺らと局員の給料がどれだけ違うか知ってんの? 三倍だよ。あの人、俺より三倍稼いでんだよ」
三木は苦虫を噛み潰したような顔で答える。
「やめようよ。子どももいるんだし」
洋介が苦笑して話をそらす。
その様子を、キッチンに立つ晴美が笑顔で見つめている。
洋介は、忙しい仕事の合間に記しておいた、『クリスマス大作戦』と書かれた紙を取り出して、一日の流れを確認する。
「鮫島さん、ほんと“演出バカ”ですね。プライベートのパーティなのに、台本なんか書いちゃって」
「いや、どうせやるならちゃんとやりたいからさ。俺もお前も、なかなか家族とゆっくり過ごせる時間なんかないんだから、今日は楽しもうぜ」
「ですね。誘っていただき、ありがとうございます」
晴美が大皿に盛り付けた唐揚げや特製ポテトグラタンなど、子どもが喜びそうな料理をテーブルへ運んでくる。
「それじゃあ! メリークリスマス」
洋介が音頭を取りシャンパンのコルクを抜く。子どもたちも紙コップを掲げて乾杯をし、パーティーが始まった。
食事をしながら快斗が聞いてきた。
「ねえ、どうしてクリスマスにはツリーを飾るの?」
快斗の素朴な疑問に大人たちは戸惑うが、三木が答えた。
「サンタさんが家を間違えない目印なんだ。ツリーがないと、子どもがいない家だと思って通り過ぎちゃうからね」
「へえ、そうなんだ!」
快斗は顔をほころばせ、嬉しそうにうなずいた。
晴美が感心して声をかける。
「三木さんは、子どもと接するのが上手ですね。うちの旦那にも教えていただきたいぐらい」
「普通ですよ。鮫島さんが仕事ばっかりで、快斗くんと遊んであげてないだけじゃないですか?」
「まあ、じゃあ今夜の育児担当は三木ということで」
その後はアニメ映画を流しながら会食が進む。三木はプラレールの箱を取り出し、子どもたちが羨望するほどに複雑な線路を組み上げた。
気づけば窓の外は茜色に染まり、やがて冬の帳が静かに下りていく。ケーキを分け合う頃には、大人も子どももすっかり一日の余韻に包まれていたところで、洋介が大きな声を上げた。
「ごめん! 急に仕事が入った。これから会社に行かなきゃならない」
洋介が席を立つと、快斗と武蔵が「えー!」と声を上げた。
「お休みじゃないの? パパ行っちゃうの?」
泣きそうな快斗を残して、洋介は外へと出ていった。
これは、三木と洋介が綿密に決めておいた演出の一部だった。洋介がサンタクロースに扮する間、子どもたちに怪しまれないように待っていてもらう。この、子どもをあやす役回りを三木は担っていたのだ。
この後、外のガレージで洋介がサンタクロースの衣装に着替え、あたりが暗くなったタイミングで、玄関からプレゼントを抱えて登場する、という筋書きだった。
そんなことはお構いなしに、快斗は泣いている。
「大丈夫、快斗くん」
三木はしゃがんで目線を合わせる。
「今夜はおじさんが君の“クリスマスのパパ”になってあげる」
「クリスマスの、パパ……?」
「そう。パパが帰ってくるまで一緒に遊んで、サンタさんを待とう」
「ほんと? じゃあプラレールやろう!」
「いいよ」
気恥ずかしい呼び名に三木は照れ笑いを浮かべながらも、二人の子どもと線路を延ばし始める。
しばらくすると、玄関の向こうで鈴の音が鳴る。
「ねえ、なんか音がする!」
武蔵がはしゃぎ、快斗は固唾をのんで耳を澄ます。
玄関の扉が開き、サンタクロースに扮した洋介が大きな白い袋を抱えて現れた。赤いベロアの服に、白いつけひげ、背景から照明が当てられ、足元に置かれたドライアイスがもうもうと白い霧を作り出し、幻想的な演出が施されている。子どもたちに正体を悟らせないための完璧なサンタクロースの登場だった。
「ふぉふぉふぉ、メリークリスマス」
「ぎゃーっ!」
嬉しさと驚きが入り混じった歓声が家中に響き、夜のクリスマス劇は最高潮を迎えた──
「『クリスマスのパパ』って名義のメールが、快斗のアドレスに届いていた。それは俺も晴美も作った覚えのないアドレスだ。メールアドレスってのは、無料でいくらでも作れるけど、子どもが作るにはそれなりの手続きが必要だし、簡単なことじゃない」
洋介は、吸い殻が山盛りになった灰皿にタバコを投げ入れる。
「あの週刊誌に載ったメールが送られたのは、9月24日の15時13分。俺はその日、プロデューサー会議の日で六本木の会社にいたことは確実だ。なのに、自宅のPCにはその時間帯にログインされた痕跡が残っていた」
洋介は、もう一枚プリントアウトしてきた週刊誌に掲載されたのと同じメールの文面を差し出す。
「快斗は俺のパソコンをこっそりいじっていた。正直、最初は快斗があのメールを送ったんじゃないかとも思った。でも、そんな真似が子どもにできるとは思えない」
吐き出したため息のように、重たい空気が場を支配する。
「お前が、うちのパソコンから鳥山さん宛にメールを送ったんじゃないのか?」
長い沈黙のあと、三木は呟くように答えた。
「許せなかったんです、あんたが……」
覚悟をしていた反応であったが、長年、苦楽をともにしてきた後輩に面と向かって突きつけられたその言葉に、洋介の内側から血の気が引いていった。
「若い頃から同じ現場で働いて、命を削る思いでテレビを作ってきました。でも、気づけばあんたばかりが成功者になって、俺たちは落ちぶれていく一方だった。あんた昔は言ってましたよね? 『局のいいなりのものづくりはしない』って。……でも今はどうですか。上の顔色ばかりを伺って、平然と信念を曲げている。その姿に、心底がっかりしたんです」
洋介には返す言葉が見当たらなかった。
「確かに、あのメールは俺が書きました。でも、あなたがやっていることは、メールの内容そのままじゃないですか。拒否したって理由をつけて、何度も再交渉をして、相手が折れるまで細かい指摘を繰り返す。結局、受け入れなければ立場が危うくなるよう仕向けるんだ。あのメールの、どこが間違っていると言うんですか?」
三木の言葉が、洋介の一番弱いところをまっすぐ突いてくる。
「あんたの一番汚いところは、下にいる俺たちの味方のふりをして、自分は責任の及ばない場所で“善人”を演じているところですよ。でも、やっていることは結局、脅しと変わらない。上の指示に逆らわず、はいはいと従って……。いつから自分を守ることだけが正義になったんですか?」
そうだ──彼の言う通り、法に触れないよう言葉を選んではいたが、やっていることは、「もう削れない」と言っている相手をどうやって屈服させるかだった。
「俺たち下請けは、社員の給料も削らなければいけないほど追い詰められている。なのにあんた方は、自分たちの取り分を減らさないように、あらゆる負担を下請けに押しつけてくる。知ってましたか? 編集の飯代も出せないから、鳥山さんはずっと自腹で弁当を買ってたんですよ。テレビ業界は、もうそんなところまで来ているんです。それなのに、あなた方局員は『過去最高益達成』なんて浮かれて騒いでいる。……それは俺たち下請けの犠牲の上に成り立っている数字じゃないんですか? だから、東洋テレビも、不正に手を染めた人たちも、そしてあんたも──みんなまとめて地獄に落ちればいいと、そう思ったんです」
そこまで言い切ると、三木はすっきりとした顔をしていた。
「快斗くんと会ったのは、たしか春頃でしたかね。あんたの自宅にハードディスクを届けに行ったときです。人手不足で俺が直接持って行ったんですが、帰宅途中の快斗くんと、偶然会って」
三木が快斗と再会したのは、ちょうど半年前。快斗はかつての『クリスマスのパパ』を覚えていたようで、三木にある相談をしてきたという。
「『メールアドレスが欲しい』って言ってましたよ。晴美さんやあんたに頼んでも、無理だろうからって。それで、俺が手を貸したんです」
三木が哀れむような目で洋介を見る。
その理由を持って、鮫島家に入り込んだ。
洋介のパソコンにログインできることや、メールにアクセスできることは、快斗との会話で把握していた。
「あんたの家からメールを送ったあと、鳥山さんの受信メールは削除しました。ITに疎い鳥山さんのメールは俺が設定しましたから、代わりにログインすることは簡単でした」
そう言い残し、三木は背を向けた。
洋介は確認をするように言葉を切り出した。
「でもそれで、鳥山さんは命を絶ったんだぞ。お前がやった暴露で、追い込まれたんだぞ」
「それは、予想外でした……」
「なんで、あんなやり方じゃなくて、普通に相談してくれなかったんだ。そうすれば、鳥山さんは──」
「普通に相談すれば、考えてくれしたか? 上と戦ってくれしたか? 鳥山さんが『もうこれ以上はコストカットはできない』って言ったのは最後の訴えじゃないんですか? 結局、こういうやり方をしないと、誰も現状を変えようなんて考えないんですよ」
洋介には返す言葉が見つからなかった。
「鮫島さん。もう逃げずに、ちゃんと子どもと向き合ってください」
三木は振り返ることなく、人混みに紛れて消えていった。洋介は握りつぶした台本をポケットに押し込み、冷たい息を吐き出した。
〜つづく
★続きは↓こちら★
★1話からは↓こちら★
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければサポートお願いします。いただいたサポートは今後の制作資金に使わせていただきます。