小説【まだ嗅いだことのない花の香り】25
8-3
*
教室の壁時計の秒針が刻む時が、快斗の鼓動を乱していく。
──あと五分。
快斗は意味もなく、ノートにシダの葉のような無限に増殖していく落書きを描き続けている。
気づけば、汗ばんだ指先がズボンの右ポケットに触れている。そこには、朝、見つからないようにこっそり持ち込んだスマートフォンが入っている。
もちろん電源は切ってあるが、「もし鳴りだしたら」という最悪の未来を何度も考えてしまう。
板書をしていた深町が手を止め、「具合でも悪いのかな?」と快斗に声をかけた。近づいてくるデッキシューズの音に、心臓が張り裂けそうになる。
「いえ、大丈夫です」
快斗はきっぱりと答え、ノートを閉じて立ち上がった。
深町は国語の教科書を軽く掲げ、「じゃあ、この主人公の気持ち、答えられますか?」と続ける。
教科書の該当箇所に目を落とすと、題材は「クラスのみんなに言えない秘密を抱える少年の話」だった。
「……本当は誰かに言いたいけれど、言ったら嫌われるかもと思って黙ってる。たぶん、この子は、怖さを感じているんだと思います」
「いいですね。気持ちがよく読み取れています」
深町の穏やかな笑みが返ってきた。
チャイムが甲高く鳴り、十五分の中休みに入る。圧力鍋の弁が開いたような勢いで、子どもたちが一斉に廊下へ飛び出す。快斗も急いで教室から飛び出すと、その背に「鮫島さん!」という鋭い声が飛ぶ。ポケットに添えた右手に力が入る。深町が近づき、じっと全身を見回すと、「廊下は走っちゃダメですよ」と、目を細めて言った。
快斗はこくんと頷き、足早に目的地へ向かう。児童たちの波をかき分けて向かうのは、校舎の隅にある図書室だ。
途中、保健室に入っていくすず香とミクとすれ違う。
「カイト、ほんと図書室が好きだな。あんまり勉強しすぎんなよ」
ミクが茶化すように言うのを、すず香は黙って見ていた。
図書室に滑り込むと、数人の児童と司書さんがいる。平静を装って奥へと進み、植物図鑑の棚の陰に身を潜める。
周囲を確認し、貰ったばかりのスマートフォンの電源を入れる。ゆっくりと立ち上がる画面がもどかしい。
──あの得体の知れない香りを嗅いだ日、母はどこに行っていたのかを隠したがった。それ以来、快斗の敏感な嗅覚は何度かあの香りを嗅ぎ分け、そのたびに、晴美は何か隠し事をしているように感じていた。
それからは毎朝、母の自転車の前輪の前に小石を置くようになった。快斗だけが気がつくことができる小さな印の観察を続けた結果、香りがした日は必ず自転車が使われていたことに気がついた
一体、母はどこへ出かけているのか。
それがわかれば、晴美との駆け引きに使える秘密を握れる。その一心で、快斗はスマートフォンをねだり、クリスマスまでいい子で過ごした。
図書室の“秘密基地”にすっぽりと収まり、快斗はスマホの画面のアイコンから、『探す』と書かれたアプリを起動する。スマホを失くしたときに探すアプリだが、GPSで家族のスマートフォンの位置情報を共有できる。
何度も使える手ではないが、これで自分が学校にいる間の母の動きを突き止めるつもりだったのだ。
画面に表示された晴美のスマホの現在位置は、自宅ではなかった。
喉の奥がカラカラに乾き、体の奥からせり上がるような震えが、手足の先まで広がっていく。
ごくり、と唾を飲み込み、震える指で地図をズームする。晴美のスマホのアイコンは、ある建物の上で止まっていた。
ホテルハイビスカス──その名前が何を意味するかは分からなかったが、そこが直感的に母の“秘密の場所”だと感じた。画面を記録するため、スクリーンショットを撮影する。
カシャッ。
図書室の静寂に、不自然なシャッター音が大きく響いた。快斗は息を呑み、周囲をそっと見回す。
その瞬間──
「なにやってるの!?」
司書さんが棚の陰から顔を出し、前に立ちふさがった。
「あなた、スマートフォンは学校に持ってきてはいけないんですよ。誰か、先生来てください!」
とっさに大声を出され、快斗はその隙をすり抜けて走り出した。
司書さんと、周囲にいた先生が追いかけてきて、保健室の前で捕まった。騒ぎを聞きつけて、保健室にいたすず香やミクも廊下に出てくる。
左腕を掴まれながらも、快斗は咄嗟に撮った写真を、無我夢中で洋介のLINEへと送った。
深町が現れて、快斗の身体を押さえつけた。
「鮫島さん! スマートフォンを渡しなさい!」
その声は、学校中に響き渡るほどだった。
~つづく
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