見出し画像

小説【まだ嗅いだことのない花の香り】4

1-4

 一時間ほどで六本木の職場に着いた。
 東洋テレビ──洋介はテレビ局に勤めている。
 総ガラス張り。太陽光を受けてエメラルドの結晶のようにきらめく社屋は、この界隈でもひときわ目を引く。低層階には収録スタジオなどの技術セクションが入り、中層階には関連会社、十階から二十階の高層階に東洋テレビのオフィスがある。
 エントランスにはすでに数十人が列を作っている。四基しかないエレベーターの前で待つ人々が、進みの遅い階数表示を無言のまま睨みつけていた
 列の最後尾に並ぶと、背後から声がかかった。
「鮫、お疲れ」
 振り返ると、冨樫俊彦が立っていた。
 彼は洋介の八歳年上の先輩だ。ちなみに、この業界では、朝一番の挨拶でも「お疲れさま」が慣例となっている。
「お疲れさまです。昨日はごちそうさまでした」
「いや、急に誘って悪かったな。晴美ちゃんに怒られなかったか?」
 昨夜は、冨樫に誘われ六本木で飲んだ。怒られたどころか大喧嘩になったが、それは黙っておいた。
「あの話──」
 冨樫が言いかけたところで、エレベーターの扉が開いた。何を言われるのかはだいたい予想がついたが、人波に飲まれるように中へと足を踏み入れ、聞こえなかったふりをした。このときばかりは、間の悪いエレベーターに感謝した。
 全面ガラス張りのエレベーターは、高層階では都心の景色が一望できるという、バブルの忘形見のような派手な設計だ。だがそれは、内の様子も丸見えだということでもある。周囲のビルから、この鮨詰め状態がどう見られているのかが気になってしまう。
 洋介も冨樫も無言のまま、上昇するエレベーターに乗っている。
 二階で停まると、冨樫が「降ります」と、申し訳なさそうに人を掻き分けて出て行った。
「二階かよ……」と、声の主がわからないほどの囁きが聞こえた。
「それくらい階段で上がれよ」との皮肉が含まれているのは明らかだったが、洋介は複雑な気持ちでそれを聞き流した。
 洋介が降りた十五階には、制作局がある。
 400席ものデスクがずらりと並ぶ広いワンフロアだが、午前十時になろうとしているのに、席についている社員は少ない。番組制作という仕事の性質上、ロケや編集で社外に出ているスタッフが多いためだ。中には、夕方に出社して明け方まで働くような、不規則な勤務をしている者もいる。
「お疲れさまです」
 誰に向けたわけでもない挨拶をつぶやき、洋介は自席の椅子にコートを掛けた。ここでの彼の職責は、プロデューサーである。
『いつか世界の空港で』──それが担当番組の名前だ。
 とある異国の空港で顔を合わせた男女のグループが、共同生活を送りながらパートナーを探す恋愛リアリティショー。空港での告白タイムが設けられ、カップル成立とならなかった者は、その場で強制帰国。成就したカップルは、一番行きたかった国へとフライトすることができるという内容だ。
 世界を舞台に繰り広げられる恋の駆け引きが話題を呼び 、十五年に渡り東洋テレビの『月曜8時』のゴールデンタイムを支える看板番組となっている。
 洋介はデスクの上にあるマウスを軽くふった。電源が入ったままのパソコンがスリープ状態から立ち上がる。
 まずは、直近に放送される映像のチェックを始める。テロップやナレーションにミスがないかを細かく確認し、それが終わると、溜まったメールを手際よく返していく。
 一段落してスマートフォンを手に取り、SNSへ短い愚痴を投下する。

『ツリーを出せ、と妻にブチ切れられた
 忙しいのに理解されない。ごめんな、息子… 』

 自虐気味の投稿には、すぐに反応が集まり。

『息子、落ちればいいのに』
『受験の強要は虐待』
『塾のせいで、学校がつまらない』

 中には誹謗中傷も混ざってくるが、いちいち気にしていたらキリがない。
 プロデューサーの仕事というのは、存外クリエイティブなものではない。予算の管理やミスのチェックなど、全体にルールを守らせる管理業務が主だ。勤務時間も不規則で、接待の酒席が絶えず、仕事と私生活の境目があいまいで、家族と過ごす余白はほとんど残らない。この投稿は、その反動からくるささやかな創作欲のはけ口だと、洋介は感じている。 
 すると、直属の上司である葛木優作に肩を叩かれた。
「葛木……さん。お疲れ様です」
「お疲れ、鮫」
 葛木は洋介と同じ四十五歳で、肩書きは『制作局チーフプロデューサー』だ。この夏の人事で異例の若さで昇格した。若い時から同じ番組を作ってきた間柄で、ディレクター時代は洋介の方がセンスが際立ち、どこかで彼を馬鹿にしているところがあったが、立場に線引きをされてからは、“さん”づけで呼ぶようになった。
「前みたいに普通に呼べよ。それよりさ、昨日、六本木で飲んでただろ? 冨樫さんと──」
 一瞬にして喉が乾き、首筋から血の気が引いていくのがわかった。
 まさか会話の中身まで聞かれていたのか──、と危惧したが平静を装う。
「まぁ、急に誘われてさ。あの人も昔の馴染みと飲みたかったんだろ」
 葛木は軽く周囲を一瞥し、声のトーンを落とす。
「鮫、わかってるな? あの人とつながってるのは、お前にとってリスクしかない」
「まあね。言いたいことは分かる」
 曖昧な答えに、葛木は片眉を上げた。
「あの人、辞めるらしいな」
 即答は出来なかった。どんな答えを期待しているかは測りかねたが、冨樫と洋介の関係を知っているこの男には、しらばっくれても疑心を抱かせるだけだと思い、「まあね、あれだけ上層部に嫌われちゃうと、会社に居づらいんだろうね」と、目を見ずに答えた。
「お前が何かやらかして、俺にまで火の粉が飛ぶのは勘弁な。それと──」
 葛木は急に距離を詰め、耳元で囁いた。
「コストカットの件。進んでるか?」
「それは……、もう少し時間をください」
「お前もプロダクションの出だから、ドライになれないのも分かるけど、局の方針を現場に通すのがプロデューサーの役目だぞ」
 葛木は背を向けて、ひらひらと手を振って自席へ戻っていった。洋介は深く息を吐き、背もたれに体を預ける。軋む音だけがやけに大きく響いた。

~つづく

★続きは↓こちら★

★1話からは↓こちら★

いいなと思ったら応援しよう!

サヤマサスケ よろしければサポートお願いします。いただいたサポートは今後の制作資金に使わせていただきます。