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小説【まだ嗅いだことのない花の香り】5

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 東洋テレビが進める“聖域なき制作費の見直し”は、長寿番組『いつか世界の空港で』にも容赦なく及んでいる。テレビの制作において、局が直接出費をしている割合は意外に少く、コストの見直しは下請けの制作会社への支払いを削ることを意味する。
 洋介が担当する番組には、四社の下請けプロダクションが関わっている。かつては放送一回あたり4500万円が投じられていたが、近年のスポンサー離れの影響で段階的に見直しは行われ、累計で1000万円以上の削減を強いてきた。洋介に課せられたのは、その上さらに制作費を5%カットするという、現場にとって過酷な要求だった。
 半年程前──
 洋介は、制作を請け負う『鳳プロダクション』を訪ねていた。新橋の裏通り、エレベーターのない雑居ビルを三階まで上がると、学生寮の掲示板さながらに雑にポスターが貼られた入口が現れた。その中には放送初期の『いつか世界の空港で』のものも混ざっていた。色あせたガムテープには「寝たら死ぬぞ!」とマジックで殴り書きされている。懐かしそうにその文字に指を触れたとき、「なに浸ってんすか?」と、後ろから声がかかる。
 三木玄太郎だった。
「それ、鮫島さんが書いたんですよね」
「ああ、まだ残ってるんだな」洋介は苦笑する。
「鮫島さん、昔は“鬼”でしたから。番組を軌道に乗るまでは、俺たちをまともに寝かせてくれなかったもん」
 三木は、かつての多忙な日々を、まるで武勇伝のように楽しげに語る。
 ここは洋介がテレビマンとして最初に入った会社で、東洋テレビへ転じた後も原点であり続けている。
 三木は一つ年下の制作者で、現在も『いつか世界の空港で』のチーフディレクターとして番組の演出面を支えている。洋介にとっては、きつい現場を共に乗り越えてきた“戦友”のような存在だ。パーカーにスニーカーという気負いのない装いは、四十代になった今も変わらない。
「どうしたんすか? “局員様”がわざわざ」
「そんな言い方するなよ。鳥山さんに用事があってね」
「冗談ですよ。どうぞ」
 三木に案内され、奥へと進む。
 社員十人にも満たない小さなオフィスには、カメラや三脚が、足の踏み場もないほどに転がり、紙資料の山がデスクを埋め尽くしている。
 その隙間で作業をしていたアシスタントディレクター(AD)が洋介に気づくと、ハッとして姿勢を正し、まるで有名人でも見かけたように恐縮している。
 社長室の入り口を軽くノックし、中に入ると鳥山弘がいた。
「わざわざすまんね。こちらから出向くべきところを……」
「気にしないでください。皆さんお元気そうで」
 これから切り出すのは、気軽に口にできる話ではない。足を運んだのは洋介のせめてもの誠意だ。
「以前にお願いした制作費の件です。近年のテレビ離れの影響で、今年度の収益の見通しが思わしくなく、全番組で見直しを迫られています」
 話の内容をすでに理解している鳥山は、苦い顔でしばらく黙り込んでいる。実は、他の三社とは交渉が済んでおり、渋々ながらも同意を得ていた。しかし、この古巣との交渉だけが着地していなかった。
「厳しい状況なのは承知しています。ただ、一本あたり5%程度、つまり150万円程度の経費の見直しを相談したいんです」
「そんなに簡単な話じゃない……」
 その言葉を最後に、部屋には沈黙が落ちた。この雑然としたオフィスに、羽振りの良さなど微塵も感じられない。かつてここで働いていた洋介には、会社の経営がどれほど綱渡りかが、身に染みてわかっている。鳳プロダクションには放送一回につき3300万円が支払われているが、すでに段階的な経費削減が続き、無駄などとっくに見直されている。
 鳥山がようやく口を開いた。
「あの番組は、海外に大勢の出演者とロケクルーを連れて行く。国によってかかる経費もまちまちで、赤字で作らなきゃならない回だってあるぐらいだ。そんな状況で150万円を削れだって?」
 鳥山は感情を抑えながら、絞り出すように言った。
「鮫島くん。きみの立場はもちろん理解しているつもりだよ。だけどね、これ以上は本当に厳しい。ここで働いているスタッフの給料だって払ってあげなきゃならないんだ。局の都合ばかりを優先したコストカットを、受け入れることはできかねる」
 これまで洋介は、番組のディレクションだけを考えてきた。「とにかく面白い番組をつくり、視聴率を取る」それでよかった。
 しかし、この春からプロデューサーになり、細かな経費の精査をし、現場に上からの指示を伝える役割を担っている。かつては、情熱だけで突っ走ることができた。だが今はそれだけでは立ちゆかない。
 目の前の男は、かつての上司であり、恩人でもある。言葉を続けるべきか、少し迷いがよぎったが、それでも言わなければならない。
「それでも鳳は他の三社より300万円多く支払っています。幹事会社として番組全体を見てもらうためですが、この資料をご覧ください」
 洋介が差し出すと鳥山は目を細め明細を一瞥した。
「番組では、海外コーディネートを『コスモメディアリサーチ』に委託しています。他社はその支払いをだいたい300万円以内に収めています。ですが、御社だけが毎回400万円前後を支払っているんです。この100万円程を、まずは見直せませんか?」
 鳥山は、その明細が書かれた資料を黙って見つめている。
「もちろん、ロケ地によってリサーチ費が変動するのは承知しています。ただ、この番組は長期のロケの素材を四社で折半して作る仕組みですよね。それを踏まえると、請求額に差が出るのは、少し説明がつきにくいんです」
 洋介の言葉に、空気中の粒子までもが凍りついたような、重たい沈黙が場を支配した。
「まあ、分かった。少し、時間が欲しい」
 それで、鳥山との話し合いは終わった。
 以来、交渉は平行線のままで洋介の悩みの種となり続けている。

 東洋テレビのガラス張りの開放的な社員食堂からは、周囲の高層ビル群が一望できた。外光が差し込む明るい空間は、まるでシティホテルのレストランのように洗練されている。従業員たちは思い思いの席に着き、談笑しながらランチを楽しんでいる。
 カレーを乗せたトレーを持って、洋介は窓辺の席に一人で陣取る。空間のスタイリッシュさに反し、メニューはカレーやうどんなど、いたって庶民的だ。洋介はカレーを口に運びながら、昨日の冨樫の言葉を思い出した。
「辞表を出そうと思う」
 六本木の居酒屋で、冨樫が切り出した。
 店内の賑やかさに反して、二人の間には微妙な静寂が流れた。冨樫は煙草に火をつけ、ゆっくりと紫煙を吐き出す。
「本気ですか?」
「居場所がないからな」
 今、冨樫はアーカイブセンターという部署にいる。そこでは過去に放送した素材のテープやディスクを管理している。放送局になくてはならないセクションだが、人気番組をいくつも手がけてきた冨樫にとっては、実質的には閑職だった。
「なぁ、鮫。一緒に会社、やらないか?」
 その言葉は、かつて誘いを持ちかけてきたときよりも真剣さが滲んでいた。
「そりゃ仕事に不満はありますけど、僕だけで決められる話じゃないです」
「分かるよ。お前には家庭があるしな。でもな、今のテレビに未来があるか?」
「まあ、このまま局にいても、面白い仕事はできそうにないですね」
「今は地上波にこだわる時代じゃない。俺はネット配信向けのコンテンツを作りたいと思ってる。動画制作の需要はたくさんあるんだ。俺とお前が力を合わせれば、まだまだ凄いものが作れるはずだ」
 確かに、テレビはもはや娯楽の中心ではなくなった。制作費が大幅に削減され、クオリティ重視の番組作りはますます困難になっている。理想を追うテレビマンほど、生きづらさを感じており、実際に業界を去る人間も少なくない。
 そんな中、「一緒に映像制作会社を立ち上げよう」という冨樫が持ちかけた誘いは、洋介にとって魅力的に映った。日々、ルールに向き合うだけの味気ない仕事に疲れ果てていた洋介には、野心を感じさせる冨樫の言葉が、まさに新しい挑戦の兆しのように思えていた。
 冨樫と洋介は、いわば“師弟関係”だ。
 元々、制作会社に在籍していた洋介を東洋テレビに引き上げてくれたのは冨樫だった。
 洋介は長野県出身。「鮫島さんの息子さんは優秀だから」と、会う度にご近所さんに言われるほど、“秀才”という役割を背負って育った。地元ではそこそこ名の知れた進学校を出て、県内の国立大学に進学した。その後、テレビ業界で働くことを夢見て就職活動をしたが、受けた放送局はすべて不採用だった。当時は就職氷河期の真っただ中で、他にも広告代理店やラジオ局、映画配給会社、雑誌社なども受けたが、いずれも不採用だった。
 結局、藁にもすがる思いで入ったのが『鳳プロダクション』だったが、所属当初は正社員ではなかった。不安定な待遇のまま、東洋テレビへの派遣スタッフとしてのテレビマン人生が始まった。
 仕事は、想像を遥かに超える程に過酷だった。最初は朝の情報番組のADだった。ADは業界の最下層のポジションで、リサーチ、ロケの段取りなど、とにかく面倒な雑用は全てこなす。週に一度自宅に帰れればいい方で、限界が来ると会社のデスクで寝落ちする日々。
 夜中に呼び出されることも多かった。
「鮫島ぁ、レンタカー借りてテッペンに迎えに来い」と、悪魔のようなディレクターに言われれば、呼吸をするよりも優先して動いた。『テッペン』とは、深夜零時を指す業界の隠語だ。迎えに行くと、「旨いラーメン屋へ連れていけ」と指示される。ディレクターは夜の店で引っ掛けた女性を連れていて、経費で借りたレンタカーの運転手として当たり前のように洋介を使った。港区に社屋を構える上場企業の所業とは思えない、後ろ暗い仕事を当たり前のようにこなす毎日。月の手取りは15万円程度で、生活は常にギリギリだった。
 それでも洋介は必死に食らいついた。
 その頃に出会ったのが冨樫だった。彼は洋介が担当する番組のディレクターで、局の正社員には珍しく、偉ぶらない人間だった。局の社員と制作会社のスタッフの間には、給料も出世スピードにも大きな差がある。局員が『貴族』なら、制作会社のスタッフは『召使い』だ。それでも冨樫は、一生懸命な人間には立場に関係なく手を差し伸べてくれた。
「お前いいよ。鮫島、早くディレクターになれ」
 冨樫は、戦争のような激務の中で、洋介の将来をいつも気にかけてくれた。
 狂った日常を変えたのは、冨樫の言葉だった。
「上に行きたいなら、企画を書くしかない」
 その言葉に触発され、洋介は『いつか世界の空港で』というタイトルの企画を書いた。その企画を冨樫に託し、番組が成立した。それが評価され、洋介は東洋テレビの社員となることができたのだ。

 高層ビル群の上空に飛行機雲が見える。数人の女性社員が窓際に駆け寄り、スマホを構えて空を見上げた。洋介の心は揺れていた。ただ、家族のことを考えると、簡単な判断はできない。カレーを口に運び、外の景色を眺めながら、冨樫が働く窓のない部署のことを思っていた。テープ倉庫の端に置かれた彼のデスク。あんなことがなければ、冨樫は今も制作局のど真ん中で番組を作っていたはずだ。 
 冨樫さんはクリエイティブで正直な人物だ──それは洋介が一番わかっている。あの人の下でなら、どんな理不尽も乗り越えていけると思っていた。
 だが、ここではそういう人間ほど出世できない。
 今後、自分はどうすべきなのか。
 洋介は、自分を日の当たる場所に引き上げてくれた恩人の誘いに、どう報いるべきかを思案していた。

~つづく

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