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小説【まだ嗅いだことのない花の香り】6

1-6

 昼食を終えて自席に戻ると、番組デスクの福田さんが話しかけて来た。
「鮫島さん、大場常務がお探しでしたよ」
 その声には、不機嫌さが滲んでいたこのフロアには、用のない人間はほとんど来ないため、取次ぎ業務は常駐スタッフである彼女に集中する。
 大場常務は、制作局長のさらに上、局の制作部門全体を統括する役員だ。『いつか世界の空港で』の立ち上げ時のプロデューサーであり、他にも数々のヒット企画を手がけてきた。その実力は誰もが認めているが、彼の強引な手法は社内では疎まれている。福田さんの心中を代弁するなら、「あんたがいないせいで、大場さんに仕事振られたんだからね」といったところか。
 洋介はひとまず「ありがとうございます」とだけ返し、逃げるように会議へと向かった。
 テニスコートほどに広い室内には、50人以上の関係者がすでに席に着いていた。洋介が部屋に入ると、彼らは一斉に「お疲れ様です」と頭を下げた。
 下座の一角に、一席だけぽっかりと空きがある。そこは鳳プロダクションの鳥山の定位置だ。
「鳥山さん、来てないの?」
 洋介の問いかけに、誰からも返事はない。鳥山は昔気質のテレビマンで、局が主催する会議に無断で欠席することなど稀だ。全体を待たせるわけにもいかず洋介が口火を切る。
「数字は7.2%。後半で伸びてますし、CMのまたぎ方も良かったですね」
 レギュラー番組は、放送翌日に全体会議を開くのが一般的で、前日の放送の視聴率の分析や、今後の放送内容について確認する。
 ちなみに、洋介がプロデューサーとして番組に返り咲いたのは、この四月のことだ。
 十三年前に東洋テレビの社員となってから、しばらくチーフディレクターとして関わり続けたが、五年前に人事移動で番組を離れ、その後は他のバラエティやドキュメンタリー、ドラマなど、幅広く制作畑を渡り歩いてきた。
 制作会社のスタッフが感想を述べている途中、会議に葛木が入って来た。普段は顔を出さない幹部の登場に、水を打ったように場が静まり返る。
「まあまあ、続けて」
 葛木は面倒くさそうに手をひらひらとさせながらそう言うと、洋介の隣に腰を下ろす。朝の感じからして、どうせ自分を牽制しに来たのだろうと、洋介は思った。
 前回放送の振り返りが終わると、先々の方針をチーフディレクターの三木が報告する。
「次の行き先はイタリアのポンペイ方面で動いております。既に現地のリサーチを進めておりまして、コーディネーターからの報告も上がっています。街も綺麗ですし、歴史もあるので──」
 この番組は、男女の恋愛がメインだが、ゴールデンタイムで戦うには中高年層に刺さる紀行情報も不可欠だ。洋介が戻ってからは、数字を稼ぐために歴史や文化の掘り下げにも力を入れている。
「いいんじゃない、ポンペイ。俺も行きたいくらいだ」
 洋介がそう発言すると、場に軽い笑いが起きた。  
 そこに葛木が割って入った。
「確か、ポンペイって、火山の噴火で埋もれた都市じゃなかったっけ?」
「はい、そうでが、何か?」
 三木が怪訝に聞き返す。
「日本は火山が多いからさ。もしどこかで火山が噴火したら、最悪の場合は放送を見送らなきゃいけなくなるよね? そういうリスクを考えて、題材は選ばないとさ」
 幹部の一言に、空気が凍る。
 今のところ、国内で火山噴火の兆候は報告されていない。葛木が気にしているのは、極めて低い可能性だ。
「まあ、気にされるのも分かりますが、今まさに火山活動は報告されていませんし。ポンペイの場合は、火山灰に埋もれることで遺跡が保全されたという逸話もありますし……」
 洋介がなんとかフォローする。
 ポンペイの調査は、かなり前に全体で合意されており、洋介も了承済みだ。すでに現地コーディネーターの費用も発生している。何より、この日のためにスタッフは寝る間も惜しんで資料を作成してきたのだ。それを、ここで無下に否定するわけにはいかない。
「鮫島。じゃあ放送が飛んだら、君は責任を被れるの? 前にどこかの国で津波の被害が出た時、サーフィンのドラマがお蔵入りになっただろ?」
 ディレクターの三木がじっと洋介を見つめている。50人を超えるテレビマンが、黙って洋介の言葉を待っている。
「了解しました。検討させてください。三木、他の候補地のリサーチもはじめようか」
 洋介は結論をぼかした。
「……分かりました」
 三木は抑えた声で、静かに従った。だが、その声には、失望がかすかに滲んでいた。この場にいるほとんどのスタッフは、洋介に別の答えを期待していただろう。局の幹部の気まぐれで追加のリサーチが発生しても、制作費が上乗せされることなどまずない。現場の論理で見れば、ただの“振り回された”にすぎない。
「リスクも考えないとさ。このご時世、どんなに面白くても、スポンサーや幹部にそっぽ向かれたら放送できないんだからね」
 葛木はそう言い残し、あとは任せたとばかりに会議室を後にした。
 このご時世──何度聞き、何度口にしたフレーズだろう。
 もはや、テレビは内容優先でものが作れる時代ではない。
「上の意向で……」
「大人の事情で……」
 そんな言葉が、当たり前に言い訳に使われる。
 もちろん洋介も理解している、組織の中では葛木のようにバランスを重んじ、うまく立ち回れる人材が重宝されることを。認めたくはなかったが、真っ向から異を唱える気概はなかった──冨樫のように。
 その後の会議の受け答えは、どこか遠くで流れるラジオのように、洋介の頭の外を流れていった。そんな、水で炊いたスープのように薄味な会議に、突如激震が走った。
 ガンッ、と乱暴にドアが開けられる音が響いた。皆の視線が、一斉に入り口に向く。
「おい、鮫島ぁ!」
 入って来たのは大場だった。ただならぬ怒りを抱いている。
「話がある。ちょっと来い」
「お、大場さん。すみません、会議が終わり次第──」
「今すぐだ!」
 洋介が必死にとりなそうとするが、通じる相手ではない。その恫喝めいた声色から、ただならぬ事態が起きたと、洋介は理解した。

 エレベーターが静かに上昇する。
 中にいるのは大場と洋介の二人きり。まるで捕食者に睨まれた獲物のようにのように、洋介は相手を刺激しないように息を潜めていた。頭の中で、呼び出しの理由について考えてみるが、有力な手がかりは浮かばない。
 最上階で扉が静かに開くと、深いワインレッドの絨毯が敷かれた廊下に役員室が並んでいる。ダウンライトの柔らかな光が壁に淡く反射し、下層とは別世界の重厚さを放っている。大場の執務室へ向かう途中、一番奥の扉がゆっくりと開いた。
 出てきたのは冨樫だった。
 彼は二人の役員に挟まれながら、射抜くように一点を見ている。すれ違いざまに肩越しに漂った無言の気配が、ただならぬ決意を伝えてきた。洋介はその後ろ姿を目で追い、背筋を撫でる冷たいざわめきを振り払えなかった。
 呼び出しは冨樫に関係のあることなのか──そんな疑念が洋介を襲った。
 冨樫が左遷されたのは、かつて大場と衝突したのが原因だと囁かれていた。制作費の使途を正した結果、大場の逆鱗に触れたという話だ。そんな冨樫と洋介が懇意であることが、問題視されたのかと思った。
 大場の部屋は、圧倒的に広い。中央に置かれた一枚板のテーブルも、革張りの肘掛け椅子も、一般社員の備品とは明らかに違う贅沢な品だ。制作局から五階上がっただけなのに、眼下に広がる街がやけに小さく見え、この部屋こそが世界の中心であるかのように錯覚した。
 まもなく、制作局長の等々力が慌てて駆け込んできた。大場に小声で何かを耳打ちし、洋介に話しかけた。
「悪いね、忙しいところ。まあ、掛けて」
 ホテルの支配人のような柔らかい物腰で促したが、その瞳の奥には氷のような冷たさがある。取り調べを受ける容疑者のように、洋介は大場と等々力の前に座る。
「明日、これが出る──」
 唐突に等々力が差し出したのは、雑誌の記事のコピーだった。
「週刊新報が送りつけてきた」
 差し出されたのは、政財界や芸能スキャンダルを容赦なく暴く週刊誌のゲラだった。洋介は書かれた見出しの強烈さに、言葉を失う。大場は腕組みしながら、洋介の反応を確かめるように黙って睨んでいる。
 記事は予想を遥かに超える内容で、世界の重力が一気に増幅したような強い衝撃を覚えた。

東洋テレビによる“下請けいじめ”の実態──脅迫メールが流出
『いつか世界の空港で』プロデューサーが突きつけた非情な指令

「断れば外すと脅されました」そう証言するのは、同番組に長年携わってきた制作関係者・X氏だ。本誌が入手したメールには、番組プロデューサーが一方的に制作費の削減を要求する非常な文言が冷たく認められていた。

Date: 2025年9月24日(木) 15:13
To: XXXXXX 様
再三コストの見直しをお願いしてまいりましたが、改善の兆しが見られません。他社はすでに了承済みです。削減に応じていただけない場合、今後の発注停止も視野に入れざるを得ません。

「君は、下請法の研修は受けたかね? 確かに、制作費の見直しを指示はしたが、このメールは失態だったね」
 等々力は、まるで遠い異国で起こった紛争についてでも語るかのように、分析的な口調で続けた。
「今の時代、こう言うのが一番まずいんだ。ここに日付がある。今年9月なら、送ったプロデューサーというのは君のことだね?」
 そう言って、洋介の目をじっと覗き込んだ。このとき初めて、これを送った本人だと疑われていると、洋介は理解した。
「ちょ、ま、待ってください。私は送っていません!」 
 正直な答えだった。文面を何度見返しても、洋介には記憶にない。
 記事にある制作会社は鳳プロダクションのことだろう。鳥山が会議にいなかったことを考えると、既に事態を知っていると思われた。
「鳳プロダクションは、君の古巣だったね。近い関係とはいえ、このメールは法的にアウトだ。コストを下げなきゃ発注を取り下げるなんて要求は、脅迫にあたる。葛木くんの報告によれば、鳥山社長との交渉はうまく行ってなかったそうじゃないか」
 等々力は、すでに勝ち筋を読んでいる刑事のように、洋介を問い詰めていく。ここで、沈黙していた大場が口を開いた。
「お前が余計なことをしてくれたおかげでよ、これから、探られたくもない腹を記者がさぐってくるぞ……」
「申し訳、ございません」
「冨樫と一緒に辞めようとしていたんだって?」
 大場はすべてお見通しだと言わんばかりに、口の端を上げた。 
「まさか、あいつに唆されて、自暴自棄になってんじゃねえだろうな。何が不満か知らねえが、会社に大損こかせて、お前も辞めるつもりだったのか?」
 腹の底まで睨みつけるように、大場が身を乗り出してきた。
 重ねて、等々力が詰め寄る。
「正直にいうなら、今のうちだよ。いずれにせよ、これから内部調査をすることになる。あとから事実が判明することは、印象がよくないからね」
「それでも、私はやっていません! 何かの間違いです!」
 洋介の弁明を終える前に、大場が詰め寄り、襟首を掴んだ。
「じゃあ、誰があんなメール送ったって言うんだよ!」
 大柄な大場に吊し上げられる。咄嗟に等々力が止めに入った。
「常務、さすがにそれはいけません」
 その瞬間、過去の記憶が堰を切ったように溢れてきた。
「上に行きたいなら、企画を書くしかない」──苦しかった頃、洋介を変えた冨樫の言葉。ただ貪欲に、自分の居場所を変えたくて立ち上げた番組が、崩れ落ちようとしている。
 晴美と快斗の顔がチラついた。
 家族に、何と言えばいい。
 職場での立場は、どうなるのか──そんな思いが、頭の中で次々と火花を散らすように駆けめぐる。
 俺の知らないところで、何かが動いている。膝から崩れ落ちた洋介は、天を仰ぐ。ガラス張りのビルの最上階で、まるで地動説を知らぬ天文学者のように、自分を取り巻く星たちの動きに翻弄されていた。

~2章に続く

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