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小説【まだ嗅いだことのない花の香り】7

2-1

 はっ、はぁ、はっ。 
 視界がぐらつき、体が鉛のように重い。
「あと一周! あと一周!」
 先生たちの激が飛ぶ。後ろから二人の児童がスパートをかけ、鮫島快斗を追い抜いていった。その瞬間、グラウンドにいる児童が一斉に湧き上がる。
 快斗はマラソンの真っ最中。学年が上がるごとに走る距離は長くなり、今年は1500メートルだ。
 前の二人との距離が開いていく。必死に進もうとするが、ぬかるみに足をとられたように、スピードが上がらない。まるで自分だけが、スローモーションの世界に取り残されたようだ。
「さっめじま! さっめじま!」
 クラスメートたちの声援が校庭に響き渡る。
 もうトラックにいるのは一人だけだ。全校の注目を浴びて真剣に応援されるほど、かえって胸が痛んだ。
 校庭の隅では保護者の集団が見守っている。もうろうとする意識の中で、どこかで見ているであろう母親が、どんな目をしているのかが気になってしまう。脇腹をえぐられるような痛みを我慢しながら、この辱めの時間が、過ぎ去ることだけを願っていた。
 十二月とは思えない季節外れの陽気とマラソンの疲れが、午後の教室にけだるい空気を漂わす。
『12月22日(火)』
 六時間目ともなると、黒板の端にチョークで書かれた日付は亡霊のように薄く霞んでいる。
「今日は『振り子の実験』のまとめです。ふりこの往復にかかる時間は、何によって変わるんでしたっけ?」
 深町先生が、手にした大きな振り子を教卓の前で揺らしている。その静かな往復運動が催眠術の導入のように作用して、机に沈んでいる子もいた。
 快斗にとっては、すでに塾で習った内容だ。先生の声はお経のように単調に響き、けだるい空気に溶けていく。
 窓の外を見ると、下級生が校庭でドッジボールをしている。赤いボールが弧を描いて飛ぶたびに、笑い声と歓声が風に乗って届く。
 窓際の最後列には、日髙すず香が座っている。キレイに削られた長い鉛筆を指ではさみ、ほおづえをついて、黒板をじっと見つめている。快斗はドッジボールを見るふりをしながら、視界の端に彼女の姿を入れ込んだ。
「振り子の周期は糸が長くなるほど、ゆっくり揺れるようになります」と説明する深町の言葉に、「知ってますよ」と心の中でつぶやきながら、塾に通っていないすず香が素直に驚いているのを見て、快斗は少し羨ましく思った。
「……さん。鮫島快斗さん」
 先生に名前を呼ばれていた事に気がつき、快斗はあわてて立ち上がる。
「は、はい。なんでしょう?」
「なんでしょう、じゃないでしょ。授業を聞いていましたか?」
「すみません……ドッジボールを見てました」
 教室が笑い声に包まれる。快斗は恥ずかしそうに顔を赤らめて、すず香をちらっと確認する。彼女も口を押さえて笑っていた。
「真面目に授業を受けなきゃ、御三家に入れませんよ」
 浅井拓馬が、嫌味な感じでからかってきた。彼は幼稚園からの幼なじみだ。 
「そうそう。ドッジボールは受験に出ないぞ、カイト」
 山本ミクがすかさず乗っかる。彼女も同じく腐れ縁だ。
 幼い頃は、拓馬もミクも無邪気に遊ぶ仲だったが、共に中学受験を目指すようになって以来、関係が良くない。
 塾に行くほど、学校が退屈になる──快斗には、教科書の言葉もクラスメイトの笑い声も、どこかうわの空だ。
 放課後の昇降口に、数人の女子とすず香がいた。
 彼女の背丈は160センチもあり、周りの子たちに比べると、年上のお姉さんのように見える。
「カイト」
「……なんだよ」
 すず香は10センチ以上背が高く、近づくと見上げる形になる。彼女も幼稚園の頃から知った仲だ。
「ちゃんと授業聞けよ」
 そう言って、彼女は軽く快斗の肩をこづいた。
 スニーカーを取るために、すず香が頭越しに手を伸ばすと、彼女の脇の下から汗の混じったシャンプーのような甘い香りがふわりと漂う。
 先を歩いていたミクが、「すず香、行くよ」と声をかけて来た。
「じゃあね」と言って、すず香は駆けていく。ポニーテールがチアリーディングのポンポンのように軽やかに弾む。友人たちに追いつくと振り向いて、にっこり笑って手を振ってきた。
 その笑顔に、息が止まりそうになった。
 快斗は胸を圧迫されるような痛みを感じたが、マラソンのときのような嫌な痛みではなかった。彼は目を閉じ、あの香りを記憶に焼きつけるように、鼻からゆっくりと空気を吸い込んだ。

 帰り道は、道草をしたくなる。
 通学路の周辺は新浦安の住宅地で、プラモデルのランナーのように規則的な路地が広がっている。その中から、知らない道を選び、あてもなく歩くのが快斗の好みだった。
 家々の庭先には冬の花が咲いている。風に揺れる真っ白なシクラメンや色とりどりのパンジーの寄せ植え。十二月の花は、おろしたてのクレヨンのように、鮮やかな色が一通りそろっている。 
 快斗は花を見るのが好きだ。
 ときおり足を止めては、道すがらに咲く花々をじっと見つめる。
 ふと、風に乗ってやさしい香りが鼻をかすめる。快斗はその主を探すようにあたりを見回し、見知らぬ家の庭先に咲くロウバイに近づく。
 カスタードクリームのような淡い黄色の小さな花が、枝先に可憐に咲いていた。快斗は立ち止まり、顔を近づけて息を吸い込む。甘く、透明感のある香り。冬の空気によく似合う、素朴な石鹸のような匂いだ。
 快斗には、花の香りを記憶に残す癖がある。確かめるように何度か深く吸い込むと、その香りを記憶に刷り込んだ。
 大通りに出ると、「おーい、カイト!」と、後ろから呼び止められた。声の主は、向かいの家に住む神部亮太だった。
 亮太は一つ年下だが、快斗の親友といった存在だ。中学生の兄と姉がいるせいか、少し大人びたところがあり、学年の割に子どもっぽさが残る快斗とは、ちょうどいいバランスが取れている。
「ねぇ、昨日見た?」
 亮太は年下のくせに態度がデカいが、裏表のないところが嫌いじゃない。
「なにを?」
「カイトのパパのテレビだよ」
「見てない」
「マジかよ。自分のパパのテレビだぜぇ」
 実は、快斗は洋介の番組を、一度も見たことがない。毎週のその時間は、塾の宿題をするように晴美に言われているからだ。
「『告白ターイム』って、面白かったよ」
 亮太がしきりに話すから、内容はだいたい知っていた。「ママは『告白タイム』を、ぼくに見せたくないんだ」と、快斗は思っている。
「亮太んちはさ、家族で一緒に見るの?」
「そうだよ。姉ちゃんが好きだから、いつも一緒に見てる」
 そんな亮太の家族が、羨ましかった。快斗の家では、絶対にありえない。洋介は撮影の仕事が入れば、一週間や二週間はいなくなるのが当たり前で、休日にどこかへ連れて行ってもらった記憶も、ほとんどなかった。
 快斗の日常は、母の晴美と二人きりなのが普通で、何かを判断するときには常に晴美の顔が浮かぶ。母の期待に応えることが、息をするように当たり前になっていた。
 自宅の前に差しかかると、快斗は自宅のサイクルポートに停まる晴美の自転車を確認する。
「何やってんだよ?」
「なんでもない。ママ、いるかなと思って」
「でたよ。お前、ほんとママが好きだな」
 そんなことを話していると、チリン、と場違いな機械音が鳴った。
 亮太がポケットからスマートフォンを取り出す。
「それ、学校に持って行っちゃいけないんだよ」
 快斗が驚いて亮太を注意するが、全く動じていない。
「大丈夫だよ。みんな持ってきてるよ。学校では電源切ってるからさ」
 亮太は、手慣れた様子でスマホに来たメッセージをチェックしながら言った。
「クラスのグループがあってさ。いちいち返すのが面倒なんだよなぁ」
 亮太はぶつくさいいながら、手際よくメッセージを打ち返す。快斗もその画面を覗き込む。小さな画面の中に、別の世界が広がっているようで、目を奪われる。
「ねえ、亮太」
 ためらいながら、亮太を呼んだ。
「ちょっと、触らせて」
 亮太は、悪巧みを共有する仲間を見るようにニヤリと笑った。
「へへっ、いいよ」
 いろいろなアイコンをタップして、亮太に使い方を質問する。道端の電柱の影に隠れて、快斗はスマホを操作する。
「アプリはママがいいって言わないと、入れられないの?」
「そうだね。あとは、一日に何時間使うとかそういうのも見られてるな」
「LINEはさ、何を書いたかも見られてるの?」
「さすがにそこまで見られてたら、死ぬわ」
 二人はくすくす笑い合う。 
「実は、クリスマスにスマホ、お願いしたんだ」
 快斗が嬉しそうに言った。
「へー、ようやくデビューかよぉ」
「サンタさん、ちゃんと迷わず持って来てくれるといいんだけど」
「えっ……」
「なに?」
「いやだから、お前んちは、まだサンタが来るのかって」
「そりゃ来るさ。ぼく、会ったこともあるよ」
「マジか。まあ、そりゃすげえな……」
 話に夢中になっていると、急に画面に黒い影が落ちた。快斗が反射的に振り向くと、背後に晴美が立っていた。その目は冷ややかで、快斗のスマホを持つ指先を鋭く見つめていた。
「遅かったわね……」 
 晴美は、小さく呟いた。
「オ……オレ、いくね」
 亮太はスマホを奪うと、慌てて自分の家に入って行った。
「ママ。マ、マ、マラソンのことだけど……」
 快斗はマラソンの結果が良くなかったことを謝ろうとした。しかし、晴美は特に気にする風でもなく「頑張ったわね」とさらりと言った。そして、間を置かずに続けた。
「受験が終わるまでは、亮太くんとは遊ばないほうがいいわね……」
「えっ?」
 快斗は思わず、声を漏らした。
「また、負けるわよ」
 その冷たい一言が、快斗の深く沈めていたあの屈辱を引きずり上げた。

~つづく

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